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2009年6月6日土曜日

神はいるか

何かが「ある・いるか」を私たちが尋ねる場合、この何かがわたしたちに多少とも関わりのあることが前提となります。まったく関係のないことについて、その存否を問うことは意味がありません。もちろん、空想の対象としては、それなりの意味はあるでしょうが、実生活の場では、ほとんど実効がありません。「神はいるか」と言う問いも、このような文脈で問わねばならないでしょう。哲学・神学的に正解であったとしても、それがわたしたちの実生活になんらの影響ももたらさないならばあまり意味はありません。たとえば、この広大無辺な宇宙のどこかに高等生物がいるとしても、今のところは、いないに等しいのです。彼らが私たちの実生活に何らかの影響を持ち始めた途端に、その存否は、現実の意味を持ってくるのです。
 わたしたちが「神」と称しているものについても同じことが言えます。わたしたちが「神はいるか」と問う場合、絶対超越者としてどこかに神が観念的に存在しているか、と問うているのでなく、わたしたちの実生活に実質的なかかわりを持つ何かが実際に働きかけているのかどうかを問うているのです。この場合、二つのことを明らかにしなければなりません。1)実際に働きかけがあること。2)この働きかけているものは、「神」と称されているものであること。1)は、わたしたちの経験にかかわることですから、検証できないことではありません。しかし、2)については、ことはそれほど簡単ではありません。結論を言ってしまえば、主観的にどの様に称するかは別として、客観的な検証は、できないのです。結局は「・・と信じる」かどうかの問題です。こうして、天災や人災は、或る人にとっては、「神のみ旨」であり、他の人にとっては、単に偶発事故が累積したに過ぎないと言うことになります。主体の受け止め態度からすれば、大変な違いでしょうが、実用主義的な見地からは、いずれであってもそれほど大きい違いはありません。とにかく、災いは、あらゆる手を尽くして予防し、復興しなければならないのです。もちろん、このことは個人の次元でも当てはまるのです。
 さて、人間は例外なく、すべて「ペルソナ」です。ペルソナとは、他に向かって開かれた存在であり、他とともに共存することによってのみ自己完成を遂げることのできる存在であります。別言すると、「愛され」「愛する」ことによってのみ自己を確立する存在です。特に「愛される」ことは、決定的な要因となります。愛されなければ、愛することはできません。愛されないと言うことは、ペルソナとしての人格障害の主要な原因となるでしょう。この場合、人間は、受肉した精神と言われるように、本性的に感覚的な存在ですから、感覚の要素のない純霊とされる神の「愛」によって直接満たされることはできません。必ず「被造物」の仲立ちがなければなりません。ただし、この仲立ちによって、何でも望むものが手に入るという意味ではありません。人の心を満たすことができるのは、本質的には、心的なものであって、モノは補助的な役割を果たすに過ぎないのです。もちろん、この心的なものも被造物であって神ではありません。このような意味で、神の愛の仲立ちをするのは、何よりも両親の愛であり、兄弟、友人の愛です。これらが決定的に欠けている場合は、「神の愛」も人格障害を決定的に癒すことはできないように思われます。むしろ、神の愛との名目で別のものが提供されるなら、結果は一層深刻となるでしょう。かつてのキリスト教の幾つかの「養護施設」や年少者を受け入れた「修道志願院」の少なからずの実例がこのことを実証しています。結局、わたしたちがすべてを神のみ旨として主体的に受け入れる分には問題はありませんが、他者に対しては、不運や苦難などを軽々に「神の思し召し」と断定してはいけないと思われます。