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2010年2月4日木曜日

原罪について

5世紀以降、「原罪」は、信ずべき「教義」とされ、人生観、社会観に甚大な影響を及ぼしてきました。しかし、大きな疑問が残ります。そもそも原罪(の教義)とは、何でしょうか。何世紀にもわたって、我々は、実態のない「教義(ドグマ)」に取り憑かれていたのではないでしょうか。この疑問に答えるには、先ず、「教義」とは、一体何か。次に、教義とされる「原罪」とは、何を指すのかを検討する必要があると思います。
教義については、一応「どこでも、いつでも、だれによっても信じられてきたこと」というレランのウィンケンティウス(450頃歿)の定義?を拠り所に考えたいと思います。通常、「創世記」3章が原罪教義の根拠とされていますが、肝心のイスラエルの民も後のユダヤ教徒もこの箇所を原罪の啓示だとは受け取っていないようです。さらにローマ書5章(特に12節)も原罪の根拠とされていますが、原初教会や、東方教会は、そこから、我々が考えるような原罪観を読み取ってはいません。結局、「原罪論」は、西方教会で、アウグスティヌスらの権威によって、教義のように考えられえ来ました。しかし、ウィンケンティウス的な意味では、原罪は、「教義」とは言えないと思います。
近世的な意味で、原罪が「教義決定」されたのは、16世紀のトレント公会議ですが、その内容については、今一明確ではありません。ただはっきりしているのは、「恩寵(成聖の聖寵)が欠如している人間本性(の状態)」が原罪と言われています。その他の点については明確な決定は見られないようです。つまり、それらは、「教義」ではなく、教義に関する神学的解説と言うべきでしょう。
原罪論にとって最大の焦点は、「原罪の遺伝」と言うことでしょう。何が、どのようにして遺伝するとされるのでしょうか。先ず、原罪は、罪でしょうか。罪とは何か、と言うことは横において、「恩寵が欠如している状態」を「罪」と言うのは、あくまでも類比的であって、固有の意味で罪とはいえません。罪とは本来、意志行為における歪・瑕疵であってその結果としての状態は、罪とは言えません。ただ罪の結果だから類比的に罪といわれるのです。換言すれば、ペルソナの行為のうちにのみ罪があります。(ペルソナについては割愛)従って、人祖(がいたとして)の罪そのものが遺伝することはありえないのです。もちろん、罪の結果として恩寵が欠如した人間本性が遺伝すると言うことは、考えられますが、遺伝されたものは、罪ではないし、従って、そのために罰を受けると言うことはありえないわけです。要するに、「人祖の罪」を原罪と規定すれば、それが「子孫」に遺伝することは考えられませんし、「人祖の罪の結果」を原罪と規定すれば、遺伝する事はあり得ますが、この罪は類比的であり、固有の罪とは言えず、そのために罰せられるのは不合理です。
以上は、「原罪」の考察であって、この世界に罪も悪も不合理も何もないと言う意味ではありません。恩寵も救済も不要だと言うことでもありません。ただそれらは、原罪の教義からは直接に切り離して、別途に考察しなければならないと考えます。