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2010年4月12日月曜日

4月11日第2主日

ヨハネ20:19-31
今日のペリコーペは、「ヨハネ」の終結を為す。現在は続いている21章は、ヨハネ共同体の誰かが「ヨハネ」を敷衍する意味で書き加えたのであろう、と云うのが有力な仮説である。この説を認めるなら、御父の御子ロゴス讃歌で始まった「ヨハネ」を閉じるに真にふさわしい「わたしの主、わたしの神」と云うイエスが神であるとの信仰で終わる。「主」とは、当時のイスラエル人がヤハウェ神を指した言葉である。恐らくこれは、意図された構成である。この意味で、「ヨハネ」は、神であるキリストへの信仰告白であり、神学的論文である。この文脈の中で「見ないのに信じる人は、幸い」との有名な格言がイエスの口を通して告知される。これは、病気癒しやパンの奇跡を求めてイエスを追い求めた民衆の態度を批判すると云うより、信仰の本質とは何かを言わんとするものである。アキノのトマスは、信仰(正確には信徳)を規定して神を直接の対象とする三対神徳の中の一つであり、知性を主体とする天賦の能力・力であるとした。トマスは、信仰を分析して信仰対象(不完全なりに「神は○○」と言い表わすことができる)とこの対象を捉えるためのいわば手段としての信仰根拠(信頼)とを区別し、後者を「信仰の光」と呼んだ。つまり、信仰とは、知性の対象としての神とこの対象を見ることができるようにする光であって、両方とも神の無償のたまもの恩寵として同時に与えられると言う。ヘレニズム哲学の枠内での定義・規定としては妥当だと思われるが、果たしてイエスが言われる「信仰(pistis)」と等しいと言えるだろうか。少なくとも現在使われている意味で、イエスは、哲学者でも、神学者でもなかった。イエスの目指したのは、誰でもの救いであって、理論の教授ではなかった。教えることが必要だとしたら、それはただ救いのために必要とされる限りにおいてである。従って、アキノのトマスが知的対象の把握に重点を置いたのに対して、イエスは、むしろ信仰の根拠、動機を重視した。知的対象を重視することは、形式論理的な正・誤に囚われやすくなるのに対して、信仰動機を重んじると情動的な深浅が評価されることになる。勿論、いずれの場合も本質は神の無償の恵みであって、人為的に左右できることではない。
さて、信仰の光は、主体としての知性つまり認識能力に与えられる。知性を照らすものであるから自ずと理性的な要素が協働する。理性は生得の能力であるから独力で様々な合理的要素を整えることができる。こうして、恰も富士山の裾野のように信仰(の光)の周辺に理性的な分野が形成され、トマスは、これを信仰の前兆・導入部(praeambula fidei)と呼び理性による検証が可能であるとした。イエスがこのような分析をしたとは思えないが、「見ないで信じる」もしくは「見て信じる」と云うのは、トマスの云う信仰の根拠に相当し、それは、まさに神へのゆるぎない信頼を意味する。「見る(見ない)」とは、信仰の前兆に相当し、具象的にはイエス自身とその業、吾々が「奇跡・しるし」と呼んでいる事柄である。このような奇跡は、それ自体人間に都合が良いものであるから、信仰の前兆であるのに、かえって信仰の妨げとなりかねない。パンの奇跡に与った人々の内どれだけがイエスの言う信仰をもつにいたっただろうか。しるしとしての人間イエスの復活体を見たから神に信頼するのでは、見なければ信頼しなかったかもしれない。その意味で、いわば信頼の度合いが低いのかもしれない。これに反して、「見ないで」信じるのは、無条件の絶対的信頼を意味するからまさに「幸い」なのである。信仰の前兆は、簡単なものでなく、人間と云うものが複雑である程度に応じて複雑である。理性で明確に解明できるものから、理性の光の届かない深淵に及ぶものまでさまざまである。ただし、原理的に、前兆が信仰をもたらすことはなく、もしもたらされたとしたらそれは神の無償の恵みの結果である。現在の吾々にとって信仰の前兆(たとえば奇跡)は、大切であるが、それにこだわると、真の信仰、つまり神への絶対信頼を落としてしまうかもしれない。その結果信仰の対象に注目しすぎて、正信だとか、誤りの信仰だとか、正統だ、異端だとこだわって肝心の神への帰依を失いかねない。大神学者が必ずしも信仰の人でないのがこのことを示している。