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2010年7月1日木曜日

三願転入

親鸞上人が絶対他力の信に至ったプロセスを述べたものだと言われます。「願」とは、法蔵菩薩(=阿弥陀如来)が立てたとされる四十八願のことです。要するに、自己の願が叶えられなければ決して仏とはならないと誓願したわけですが、その第十九願には、仏道に入って修行を積んだ人たちが臨終に成仏しないなら法蔵菩薩は、決して仏とはならないという誓いが述べられています。つまり自力による成仏の宣言です。しかし、親鸞上人は、この段階を去って、第二十願に転入します。この願は、法蔵菩薩の名号を聞き、念仏を唱えるなら必ず成仏する。もしそうでなければ、法蔵菩薩は決して仏とはならないと言う誓願です。しかし、親鸞上人はさらにこの段階を去り第十八願の段階に転入します。第十八願は、四十八願の中でも最も有名な願で、「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。」と言うのです。念仏を唱えて救われるなら、念仏は自力の業とはならないでしょうか。念仏にはまだ人間の計らいが残っていませんか。上人自身の信が実際にこのように進展して行ったのかどうか分かりませんが、一般的な流れとして、自力の仏教から、念仏を唱えることによる成仏、最後に、念仏自体が成仏の条件とされることを拒む絶対的な他力、すなわち阿弥陀如来が無条件に人間を救い取ってくださるとの信に至るプロセスです。このような「信」を普遍化してイエスに対する私たちの信にも言えないでしょうか。最初はクリスチャンとしていただいて熱心に信仰に励みます。しかし励めば励むほど自分の無力を痛感します。後は、聖母や諸聖人にひたすらお願いするわけですが、イエスの方からは、「わたしが来たのは罪人の救いのためである」と恰も罪人であることが神の子の限りない慈悲を頂くための条件であるかのようにも受け取れる、救いの源泉はすべてイエスである、との絶対的な帰依に至るのです。親鸞上人が、十九願、二十願を否定して十八願に至ったと言うよりは、それぞれを止揚して絶対信に至ったように、わたしたちも教義や信心をアウフヘーベンしてイエスの絶対信にすべてを委ねるのです。まさにイエスは、神ご自身なのです。