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2010年8月17日火曜日

遅れ咲きの弁

うのていをさんが、今回博士号を取得され、その機会に一文を「愛知宗教者九条の会ニュース」15号に寄港されました。以下にそれを転記します。

(引用はじめ)
この三月に、私は聖トマス大学から宗教文化の博士号を授与されました。学位それ自体は大した手柄でもなく、むしろ五〇年も遅れたという慙愧の産物でしかありませんが、考えようによっては、七六歳でもまだやれるという実例になったことが、唯一の取り柄でしょうか。
はじめはトマス・アクィナスの存在論そのものをテーマにしようと思ったのですが、それは五年や一〇年ではものにならないことが分かり、「自由」に焦点を絞って、「自由の存在論的根拠について」をテーマにしました。ところが調べてみると、トマスはその著述の中で自由(libertasまたはliberum arbitrium)という言葉を千か所以上も言及しています。その全部に当たるのは、大変な作業です。そこで範囲を『神学大全』に絞りましたが、それでも三百か所はあります。
さらに、トマスの自由論だけではいかにも単調なので、何かとの比較を持ってこなければと思い、トマスに匹敵する大思想家と言えば古代ではアリストテレス、近代ではカール・マルクスだろうということで、マルクスの自由論との比較、という形で考察を進めました。
ここで実は、学会の固陋との闘いがありました。マルクスに対する根強い偏見もさることながら、マルクス側でも、たとえばmaterialismを「唯物論」と訳して平気でいますが、私はこれは重大な誤訳だと思います。materiaの意味を創造論やギリシャ自然学まで遡れば、それを「唯物」と訳すのは、極めて狭い意味に局限してしまい、そのことが今でも不毛の論争の種になっています。この訳語は改めなければなりません。古代中世哲学で一般に用いる「質料」という訳語が、むしろ正しい意味に近い。materiaは元々mater(母)から派生した言葉です。そのニュアンスが現代人の意識から全く失われています。
ともあれ、トマスの思想は十億人の信者を擁するカトリック教会の頂上にあるものであり、マルクスのそれは同じく十億人の人口の属する社会主義諸国の指導的思想です。かつでは、両者は没交渉というより、むしろ敵対的な関係とおもわれていましたが、それは偏見・誤解だという認識が段々に広まってきました。とくにカトリック圏の中南米諸国を中心に「解放の神学」が台頭し、(それもまだ毀誉褒貶、評価が定着していませんが)、ようやく一致の機材が少しずつ見えてきました。
カトリシズムとコミュニズムが二十一世紀に大きく接触することは、避けられない情勢です。その場合に、二つの潮流が「真理と愛」に基づいて友好的に接触するか、それとも昔の偏見のまま対立的な姿勢に固執するかは、真理の実りが豊かになるか不毛に終わるかの分岐となるだけでなく、世界平和にとっても大きな影響があります。
トマス・アクィナスとカール・マルクスとをどのように架橋するかは、単に思想界の問題だけでなく、人類の未来そのものにも関わる重大問題である、と私は考えています。