キリスト教以外の諸宗教も神秘に関する我々の(学的)認識を構成する必須の構成要素として(「神秘」の部分として)受け入れる事が出来るであろうか。これが諸宗教の神学の根本問題である。神学の一般主体(素材主体)は、神秘に係わるすべてのものであるから、その中には、当然キリスト教以外の他の諸宗教も含まれる筈である。しかし、神学の一部門としての諸宗教についての神学は、ただそれだけを意味するのではない。即ち、諸宗教が、単に存在の秩序において善なる要素を含んでいる、もしくは更にそれ自身善であるということを論証するだけではなく(これによって諸宗教が第一原因としての神秘の意志の対象であることが論証され得る:これはいわゆる「自然神学」もしくは「宗教哲学の問題であろう)、更にその上に諸宗教は、神秘の「自由意志」によって、つまり存在の第一原因としての神秘ではなく、それを無限に超える神秘固有の意志によって、意欲されて(許容されて)いることをも解明しようとするものである。所で、問題は、この事を積極的に論証するための方法が、与えられているかどうかと言うことである。つまり、上述の「潜勢的啓示」の中に「諸宗教」が含まれているかどうか。言葉による啓示、出来事による啓示、何れかにこの問題は含まれているだろうか。実は、これは所謂「実証神学」の領域であって、今後この方面での成果が期待される。従って我々としては、仮に所謂啓示からの積極的な「証明」を導き出すのはさしあたって出来ないとしても、少なくとも諸宗教が救いのための正常の道であると考えることには、他の知られている天啓の諸事実と矛盾するものではないことを論証する必要がある。また、それに留まるものである。
これを要するに、我々は、既に、宗教本能と宗教体験の普遍性を述べ、宗教体験には、真正なものとそうでないものとの区別が可能であることを論じた。この場合、「真正なもの」とは、単なる主体の自己内体験ではなく、主体から実在的に区別された何らかの体験対象(客体)があるとされる場合であり、超越者を立てる思考様式の枠内では、究極的に超越者の実在が体験に対応している場合である。しかし、この最後の場合は、正に超越者であるが故に人間の側からの「検証」を許さない。従って、個々の宗教体験について、それが真正であるかどうかを積極的に「証明する」ことは原理的に不可能である。それゆえ、諸宗教の神学は、キリスト教以外の宗教の「真正性」を論証することは出来ない(勿論、キリスト教の真正性をも論証することはできない)。ただ、キリスト教神学の立場から、他の宗教が真正であっても、矛盾ではないことを可能な限り明らかにしようと努めるのである。諸宗教の神学、さらには神学そのものの限界を率直に認めるものである。
2009年8月3日月曜日
2009年8月2日日曜日
宗教体験の体系化
宗教体験は、誰にでも見られるものであるが、それが人間の体験である限り、多少とも、体系化、社会化を目指すものである。即ち、体験は、人間ペルソナの働きとして、根源的に知性の活動であり、その限りに於て、非質料的であるが、この様な活動は、いわば裸のままで存在し続けることは、不可能ではないにしても、極めて困難である。通常、体験は、概念(言葉)や行動を前提とすると共に、またそれらに依って維持、表現される。概念・行動は、歴史と風土、更に一般的には、「文化」の影響を強く受けている。従って、宗教体験も、文化に必然的に制約されているとは言えないにしても、文化に影響されるところは大である。
この様に、宗教体験は、体系化、社会化をある程度自然に指向するので、ある一つの宗教体験は、特にそれが、深く強烈な場合は、多くの人々に追体験、共有され、様々な行動や制度に依って維持、伝承されて行く。体系化され、制度化され、社会化された宗教体験を「制度としての宗教」と呼ぶ。勿論、現実には、「制度としての宗教」の「制度化の度合」は、極めて多種多様である。「宗教体験」と「制度としての宗教」とは、分離して実在し得るものではないにしても、少なくとも概念的には、区別されたものである。従って、同種類の宗教体験が、それぞれ異なった「制度としての宗教」に依って「担われる」ことも論理的に不可能ではない。
この様に、宗教体験は、体系化、社会化をある程度自然に指向するので、ある一つの宗教体験は、特にそれが、深く強烈な場合は、多くの人々に追体験、共有され、様々な行動や制度に依って維持、伝承されて行く。体系化され、制度化され、社会化された宗教体験を「制度としての宗教」と呼ぶ。勿論、現実には、「制度としての宗教」の「制度化の度合」は、極めて多種多様である。「宗教体験」と「制度としての宗教」とは、分離して実在し得るものではないにしても、少なくとも概念的には、区別されたものである。従って、同種類の宗教体験が、それぞれ異なった「制度としての宗教」に依って「担われる」ことも論理的に不可能ではない。
2009年8月1日土曜日
宗教体験
次ぎに、一般に「経験」、「体験」と呼ばれているものに就いて考えて見よう。体験と言う語を厳密に定義するのは難しいが、ここでは非常に広く、凡ゆる経験、特に、単に知性の作用だけではなく、広い意味での感覚全般を媒介として与えられる経験を指す。即ち、経験は、通常、思弁に対して言われる。つまり、知性の活動だけ(厳密にはあり得ないが)によって得られるとされる知識に対して、知性以外の凡ゆる能力特に身体を活用して、その意味で直接に得られる、非常に広い意味での知識、あるいはその過程を経験と呼んでいる。勿論知性が最終的に排除されている訳ではないが、重点は、それにはなく、寧ろ五官や感性及びそれらを通して直接する環境などが強調される。従って、具体的に言えば、生きていると言うことが、即体験なのである。
ちなみに、体験は、概念化が難しく、従って知性の統御の及び難い領域であるが、豊富な情報源であり、人間の生存に重要な役割を果たしている。本来、思弁と経験とは対立する別個の認識手段ではなく、両者とも人間ペルソナの活動として、一つの認識手段の両面であって互いに補完し合うべきである。つまり、目が見るのではなく、ペルソナである私が目で見て知るのである。
これを要するに、宗教体験とは、上述の宗教的事象を対象とする体験のことである。
さて、この体験の成立根拠もしくは起源には二つの場合があり得る。一つは、対象としての宗教的事象の実在並びにその意味が我々の能力の限界内に於いて確認することが出来るとされる場合であり、他は、確認が理論上不可能であるとされる場合である。即ち、厳密な意味での信仰の対象は、定義によって、人間の能力を超越する筈であるから、この対象に就いての体験は、人間の側からの働き掛けに依存しないで、純粋に与えられなければならない。つまり人間は、この対象に就いての知識を「与える者」から受け取らねばならない。従って、この「与える者」は、あるいは、自らが人間の能力を超越している者であるか、あるいは、さもなければ、この様な者から与えられものを正確に、且つ忠実に伝達する者でなければならない。つまり、後者は、前者の権威を忠実に媒介しなければならないのである。
又、体験が与えられる場合、何等の媒介なしに直接に与えられる場合と、個人もしくは、集団の体験を媒介として与えられる場合とがある。厳密に言えば、我々の信仰は、この後者の種類の体験に主としてかかわるものを指すのである。現実の問題として、我々は、親なり、教師なり、先輩なり、あるいは、特に我々が生きている共同体なりの信仰(ここでは広い意味での)を継承して行くのである。
所で、この様な信仰は、前述のように、多くの場合、第三者を媒介として伝えられのであるから、媒体、つまり媒介の手段が重要になって来る。これらの手段は、多種多様であるが、何と言っても一番適切なのは言葉である。勿論、言葉にはそれなりの制約があるが、その範囲内では有効な手段である。又言葉と言っても、色々のジャンルがあるが、理論的に概念化を越えるとされる信仰を容れるものとしては、象徴的な表現で、ある歴史的な事実の核心を述べる物語が最も適していると思われる。我々は、この様な物語を広い意味で「神話」と呼ぶ。それゆえ、神話は、信仰内容を指し示す唯一の手段ではないが、主な手段であることは否めない。我々は、神話を正しく解釈することによって、又その他の補助的手段を駆使することによって、ある信仰体験の事実とその内容とに出来るだけ近く迫れる筈である。
我々が、信仰の正偽を論じる場合には、以上の様な諸点を明らかにする必要がある。特に、信仰の伝達者に適正な資格、適正な権威があるかどうかを検証する必要がある。併し乍ら、ここに述べたことは、飽く迄も抽象的な理論の領域の問題であって、実際の具体的な場合には、事態はもっと複雑であることは言うまでもない。即ち、先ず信仰の理論があって、それに基づいて、論理的に信仰が成立するのではなく、実際は、その逆である。それゆえ、必ずしも常に凡ゆる信仰が適切に解明し尽くされるとは限らない。
さて、宗教体験とは、宗教的なものについての経験であるが、上述の様に、宗教体験と宗教知識とは本質的に異なる訳ではない。確かに信仰者と宗教学者とは同じではないが、その対象としているものは、同一の事実である。その意味で、経験は、そのものとして分析や伝達が至難であるが、その対象の分析から幾分間接的に経験を明らかにすることは、不可能ではない。
宗教をこの様に定めるならば、所謂「宗教体験」もしくは「宗教経験」は、言わば日常生活の中で通常に見られる出来事である。宗教体験を何か高尚な神秘的経験にだけ限るのは、一種の知的驕りではないだろうか。勿論神秘体験も宗教体験には違いないが、その極く一部に過ぎない。従って、宗教体験は、所謂教団の枠を超えて見られる普遍的な現象でもある。では、何故この様な宗教体験、もしくは現象が世界の至る所で、およそ人間の居る所に見られるのであろうか。我々は、その根拠を人間本性に基づく本能の内に見たい。つまり、人間には「宗教本能」とも呼ぶべき本能がある。この本能の基本的現われは、人間の願望、欲求は直接する対象によって完全に規定し尽くされる(充足され尽くされる)ことなく、絶えずこの対象を超えて求め続けるところにある。「本能」そのものの分析は、ここでは行なわないが、その表現は、極めて多様であり、かつ風土と歴史とから著しい影響を受けることを指摘するに留める。それでは、この様な宗教本能と所謂既成の「宗教」とは、どの様な関係に立っているのか。これを理解するため先ず、上述の宗教本能の「対象」について見て置かねばならない。先に我々は、この対象を、非常に広い意味で捉えて来た。何等かの意味で、宗教本能が求めるもの、本能を満たすものは、総てその対象であると言うことが出来る。今これらの対象を現実との関わりから見れば、この対象に本能とは独立に現実に実在する「何か」が対応している場合と、そうではなく言わば本能の「自己励起」とも言うべきものに過ぎない場合とが考えられる。前者の場合は、更にこの「何か」は、原理的に人間の理性に基づく手段によって検証可能であるとされる場合と検証不可能とされる場合とがある。後者の場合には、この「何か」を検証するには、上に述べたようにこの「何か」自体が与えてくれるとされる検証の手がかり(例えば「信仰」)が必要になる。即ち、この「信仰」によって具体的なある特定の宗教本能の体験が、実は、超越する「神秘」の「体験」であったことを知るのである。但しこの場合、「体験」と言う概念は、能動的、つまり我々の方から「神秘」に働き掛けるのではなく、受動的、つまり「神秘」の方から我々の能力なり、活動を採り上げると言うことを意味するものである。即ち、「神秘」は、その超越的自由によって、望むときに、望むところで、我々に介入することが出来る筈である。こうして厳密な意味での「神秘体験」は、人間の一般的な宗教本能を前提とし、かつこれを完成するのである。宗教本能は、人間の自然性に基づく本能であるから、それ独自の力では勿論本来の意味での「神秘体験」を生み出すことは、絶対に在り得ない。しかし、上述の様にもし「神秘」が望むならこの宗教本能を採り上げて「神秘体験」を起こすことは不可能ではないであろう。
こうして、少なくとも理論的には、過去に於いても、現在も、さらに亦未来にも真正の「宗教体験」が在り得る筈である。所で、この様な宗教体験は、個人の次元で起こることも在り得るし、また集団の次元で起こることも在り得る。亦この体験は、一過性のことも在り得るし、また第三者自身の(最広義の)宗教体験を媒介として追体験の形で広く時間空間にわたって伝播して行くことも在り得る。勿論この第三者自身の宗教体験が前述の意味での真正の「神秘体験」であることも当然考えられる。ただ何れの場合にせよ、宗教体験は、言わば「裸のまま」ある、のではなく、必ず広い意味での概念化を経て保持され、伝播されるものである。ここに体験そのものとその概念化との間の「ずれ」の可能性と、そして概念が必然的に蒙らねばならない歴史、文化的な制約の問題とが現われる訳である。所謂既成の宗教は、以上のような諸々の要素が複雑に絡み合って発展して来たものであり、宗教本能に対しては、言わばこれを土壌、培養液としながら、自らの「組織」を拡大し、他方では、これに理性的な規制を強要し、自らの内にこれを統御しようと試みるのである。
ちなみに、体験は、概念化が難しく、従って知性の統御の及び難い領域であるが、豊富な情報源であり、人間の生存に重要な役割を果たしている。本来、思弁と経験とは対立する別個の認識手段ではなく、両者とも人間ペルソナの活動として、一つの認識手段の両面であって互いに補完し合うべきである。つまり、目が見るのではなく、ペルソナである私が目で見て知るのである。
これを要するに、宗教体験とは、上述の宗教的事象を対象とする体験のことである。
さて、この体験の成立根拠もしくは起源には二つの場合があり得る。一つは、対象としての宗教的事象の実在並びにその意味が我々の能力の限界内に於いて確認することが出来るとされる場合であり、他は、確認が理論上不可能であるとされる場合である。即ち、厳密な意味での信仰の対象は、定義によって、人間の能力を超越する筈であるから、この対象に就いての体験は、人間の側からの働き掛けに依存しないで、純粋に与えられなければならない。つまり人間は、この対象に就いての知識を「与える者」から受け取らねばならない。従って、この「与える者」は、あるいは、自らが人間の能力を超越している者であるか、あるいは、さもなければ、この様な者から与えられものを正確に、且つ忠実に伝達する者でなければならない。つまり、後者は、前者の権威を忠実に媒介しなければならないのである。
又、体験が与えられる場合、何等の媒介なしに直接に与えられる場合と、個人もしくは、集団の体験を媒介として与えられる場合とがある。厳密に言えば、我々の信仰は、この後者の種類の体験に主としてかかわるものを指すのである。現実の問題として、我々は、親なり、教師なり、先輩なり、あるいは、特に我々が生きている共同体なりの信仰(ここでは広い意味での)を継承して行くのである。
所で、この様な信仰は、前述のように、多くの場合、第三者を媒介として伝えられのであるから、媒体、つまり媒介の手段が重要になって来る。これらの手段は、多種多様であるが、何と言っても一番適切なのは言葉である。勿論、言葉にはそれなりの制約があるが、その範囲内では有効な手段である。又言葉と言っても、色々のジャンルがあるが、理論的に概念化を越えるとされる信仰を容れるものとしては、象徴的な表現で、ある歴史的な事実の核心を述べる物語が最も適していると思われる。我々は、この様な物語を広い意味で「神話」と呼ぶ。それゆえ、神話は、信仰内容を指し示す唯一の手段ではないが、主な手段であることは否めない。我々は、神話を正しく解釈することによって、又その他の補助的手段を駆使することによって、ある信仰体験の事実とその内容とに出来るだけ近く迫れる筈である。
我々が、信仰の正偽を論じる場合には、以上の様な諸点を明らかにする必要がある。特に、信仰の伝達者に適正な資格、適正な権威があるかどうかを検証する必要がある。併し乍ら、ここに述べたことは、飽く迄も抽象的な理論の領域の問題であって、実際の具体的な場合には、事態はもっと複雑であることは言うまでもない。即ち、先ず信仰の理論があって、それに基づいて、論理的に信仰が成立するのではなく、実際は、その逆である。それゆえ、必ずしも常に凡ゆる信仰が適切に解明し尽くされるとは限らない。
さて、宗教体験とは、宗教的なものについての経験であるが、上述の様に、宗教体験と宗教知識とは本質的に異なる訳ではない。確かに信仰者と宗教学者とは同じではないが、その対象としているものは、同一の事実である。その意味で、経験は、そのものとして分析や伝達が至難であるが、その対象の分析から幾分間接的に経験を明らかにすることは、不可能ではない。
宗教をこの様に定めるならば、所謂「宗教体験」もしくは「宗教経験」は、言わば日常生活の中で通常に見られる出来事である。宗教体験を何か高尚な神秘的経験にだけ限るのは、一種の知的驕りではないだろうか。勿論神秘体験も宗教体験には違いないが、その極く一部に過ぎない。従って、宗教体験は、所謂教団の枠を超えて見られる普遍的な現象でもある。では、何故この様な宗教体験、もしくは現象が世界の至る所で、およそ人間の居る所に見られるのであろうか。我々は、その根拠を人間本性に基づく本能の内に見たい。つまり、人間には「宗教本能」とも呼ぶべき本能がある。この本能の基本的現われは、人間の願望、欲求は直接する対象によって完全に規定し尽くされる(充足され尽くされる)ことなく、絶えずこの対象を超えて求め続けるところにある。「本能」そのものの分析は、ここでは行なわないが、その表現は、極めて多様であり、かつ風土と歴史とから著しい影響を受けることを指摘するに留める。それでは、この様な宗教本能と所謂既成の「宗教」とは、どの様な関係に立っているのか。これを理解するため先ず、上述の宗教本能の「対象」について見て置かねばならない。先に我々は、この対象を、非常に広い意味で捉えて来た。何等かの意味で、宗教本能が求めるもの、本能を満たすものは、総てその対象であると言うことが出来る。今これらの対象を現実との関わりから見れば、この対象に本能とは独立に現実に実在する「何か」が対応している場合と、そうではなく言わば本能の「自己励起」とも言うべきものに過ぎない場合とが考えられる。前者の場合は、更にこの「何か」は、原理的に人間の理性に基づく手段によって検証可能であるとされる場合と検証不可能とされる場合とがある。後者の場合には、この「何か」を検証するには、上に述べたようにこの「何か」自体が与えてくれるとされる検証の手がかり(例えば「信仰」)が必要になる。即ち、この「信仰」によって具体的なある特定の宗教本能の体験が、実は、超越する「神秘」の「体験」であったことを知るのである。但しこの場合、「体験」と言う概念は、能動的、つまり我々の方から「神秘」に働き掛けるのではなく、受動的、つまり「神秘」の方から我々の能力なり、活動を採り上げると言うことを意味するものである。即ち、「神秘」は、その超越的自由によって、望むときに、望むところで、我々に介入することが出来る筈である。こうして厳密な意味での「神秘体験」は、人間の一般的な宗教本能を前提とし、かつこれを完成するのである。宗教本能は、人間の自然性に基づく本能であるから、それ独自の力では勿論本来の意味での「神秘体験」を生み出すことは、絶対に在り得ない。しかし、上述の様にもし「神秘」が望むならこの宗教本能を採り上げて「神秘体験」を起こすことは不可能ではないであろう。
こうして、少なくとも理論的には、過去に於いても、現在も、さらに亦未来にも真正の「宗教体験」が在り得る筈である。所で、この様な宗教体験は、個人の次元で起こることも在り得るし、また集団の次元で起こることも在り得る。亦この体験は、一過性のことも在り得るし、また第三者自身の(最広義の)宗教体験を媒介として追体験の形で広く時間空間にわたって伝播して行くことも在り得る。勿論この第三者自身の宗教体験が前述の意味での真正の「神秘体験」であることも当然考えられる。ただ何れの場合にせよ、宗教体験は、言わば「裸のまま」ある、のではなく、必ず広い意味での概念化を経て保持され、伝播されるものである。ここに体験そのものとその概念化との間の「ずれ」の可能性と、そして概念が必然的に蒙らねばならない歴史、文化的な制約の問題とが現われる訳である。所謂既成の宗教は、以上のような諸々の要素が複雑に絡み合って発展して来たものであり、宗教本能に対しては、言わばこれを土壌、培養液としながら、自らの「組織」を拡大し、他方では、これに理性的な規制を強要し、自らの内にこれを統御しようと試みるのである。
2009年7月30日木曜日
宗教本能
あらゆる存在は、実在を目指し、すでに保有していればこれを確保し、より一層これを確実にしようとする。生物一般については、この様な「欲求」は、自己保存の本能と呼ばれるが、広義に眺めれば、これは生物だけに限られるのではなく、あらゆる存在者について妥当する。即ち、この「欲求」は、現状変更に対する「抵抗」として現われる。人間の場合この欲求は、「対象を超えた対象」への欲求として現われる。即ち、人間の欲求には、それぞれそれにふさわしい充足をもたらす対象があり、この点で他の生物と共通している。しかし人間は、この様ないわば「即場の」対象に依ってだけ充足されてしまうのではなく、絶えず、それを超えて何かを求めている。この様な「何か」が現実に存在するのかどうか、或は、存在するとして、果して手にはいるのかどうか、などは別として、この様な欲求のあることは、明らかである。この様な欲求は、存在者としての人間の本性から由来するものであるから、一つの「本能」である。これを広義で「宗教本能」または「幸福本能」と呼ぶことにする。これは、本能つまり本性に由来する欲求であるから、当人が意識するしないに関わらず、あらゆる人間に普遍的にみられるものであり、また、人間の条件に左右されるものである。この様な欲求が、時に満たされることのあるのは、経験の教える事実である。この場合、現実に何からの「対象を超える対象」に依って直接もしくは間接に満たされたのか、或は、単なる幻想であったのか、今は問わない。とにかくこの欲求の「充足」を、これも広い意味で「宗教体験」と呼ぶ。つまり、宗教体験には、現実の体験と、幻想とがあり得るわけである。宗教体験は、人間の体験として、人間が本性上共同体的である限り、たとえ幻想であるにせよ、必ず「文化」の中で生起し、「文化」の中で表現される。 即ち、人間は、個人としても、集団としても、ある時に、ある宗教体験をすることがある。抑々宗教、体験、と言う概念そのものが多義的であるから、ある程度の概念規定が必要であろう。宗教の詳細な分析は、やや小論の範囲を超えるので、ここでは言葉の意味の説明にのみ留めたい。「宗教」の「定義」は種々試みられて来た。その場合、当然のことかも知れないが、既存の“大”宗教、特にキリスト教を基準として考えられることが多かった。しかし、小論の論旨からすれば、この様な「定義」は、狭小に過ぎるので、所謂擬似宗教をも含めることの出来る様な極めて広範柔軟な概念を採用する。従って、ここで言う宗教とは、非常に広義であって、各々の現象の究極的原因(それが実在するか否か、あるいは共時的に意識されているか否かは別として)にかかわる事象一般を指す。それゆえ、理屈を言えば、所謂無神論も、否定された究極の原因にかかわると言う意味で、一つの宗教体験である。又、大自然や人情の機微などに直面した時の人々の心の態度も、それが究極的原因に対する関わりを潜在的に含有する限りに於いて、宗教的であると言うことが出来る。勿論、宗教的のものとして主観に意識されていない場合もあり、寧ろその方が多いかも知れない。要するに、宗教とは、“究極的なものを求める過程に於いて、何等かの仕方で、自己の経験の範囲を超えるものと信じられているものによって自己の願望を満たそうとし、そのため、これを可能とすると見なされる「手段」を用いる人間の文化現象の総体”である。
凡そ人間の活動は総て広い意味で欲求を満たす行動であるが、この欲求を満たすことの出来るものが対象と呼ばれる。所で、これら対象と見なされているものには自ずと二つの区別、もしくは種類がある。一つは、行為を行う者の自己の能力なり、経験なりで--直接に、今すぐにではなくとも--達成出来ると考えられている対象、もう一つは、この様な範囲の外--少なくともその獲得方法に関して--にあると見なされている対象である。人間が前者の意味での対象だけでは満たされ尽くさないことは、言わば自明である。従って、後者の意味での対象をも手に入れようとする「努力」が必ず表われるが、この努力は、意識的であることも、意識されていないこともある。併し、何れにしても前提からしてこれらの努力は、独力では達成出来ないことも自明である。こうして宗教が究極的なものを求める限りその概念には、願望の対象だけではなく、この願望を満たしてくれる自己以外の何等かのモノと言う考えが、必然的に含まれることになる。このモノが人間の(思考)活動にのみ依存するものか、あるいは、それとは独立に実在するものか、又その本性、数、働きなどがどんなものか、などは、差し当たっては問わない。
凡そ人間の活動は総て広い意味で欲求を満たす行動であるが、この欲求を満たすことの出来るものが対象と呼ばれる。所で、これら対象と見なされているものには自ずと二つの区別、もしくは種類がある。一つは、行為を行う者の自己の能力なり、経験なりで--直接に、今すぐにではなくとも--達成出来ると考えられている対象、もう一つは、この様な範囲の外--少なくともその獲得方法に関して--にあると見なされている対象である。人間が前者の意味での対象だけでは満たされ尽くさないことは、言わば自明である。従って、後者の意味での対象をも手に入れようとする「努力」が必ず表われるが、この努力は、意識的であることも、意識されていないこともある。併し、何れにしても前提からしてこれらの努力は、独力では達成出来ないことも自明である。こうして宗教が究極的なものを求める限りその概念には、願望の対象だけではなく、この願望を満たしてくれる自己以外の何等かのモノと言う考えが、必然的に含まれることになる。このモノが人間の(思考)活動にのみ依存するものか、あるいは、それとは独立に実在するものか、又その本性、数、働きなどがどんなものか、などは、差し当たっては問わない。
2009年7月29日水曜日
神々の実在に就いて
「概念化された」神道の神々が果して実際に人々の思考作用を離れて実在するものかどうか、実在するとすればそれはどの様な性質の者なのか、検討しなければならない。
先ず神々は、「絶対者」とは考えられていなので、論理的にその実在を(テオスの場合のように)証明することはできない。証明できるのは、その可能性のみである。そして、我々は、矛盾概念でない限りその実在は常に可能であると考えることが出来る。即ち、我々の場合は、神々の実在は、可能である。つまり、我々人間の経験を越える何等かの存在態、或は、神道的に言えば、明界に対する幽界が実在するとしても矛盾ではない。但しその実在そのものは、別の証明を要する。この場合、カトリック神学の側からは、伝統的ではあるが、あくまでも伝統に過ぎない宇宙観に基づいて、「幽界」の実在を云々すべきではない。少なくとも我々は、人間の経験を越える問題に就いて未知の事が非常に多いことを認めねばならない。他方神道の側からは、神々に就いて言われていることは、飽くまでも「神話」であることを忘れてはならない。神話が言わんとしている所を洞察すると共に、幽界に就いては、余りにも知られる所の少ない事に留意すべきである。
次に、個々の神々の具体的な実在に就いてであるが、一般に信仰とその対象に関しては、論理的には、対象が信仰に先行し、その逆ではない。従って、信仰の事実から、その対象の実在を論証することはできない。しかし、健全な(何を以って健全とするかは難しいが)信仰には、その説明根拠として何等かの実在的な対象が対応していると考える方が妥当である。従って、我々は、ある神に対する健全な信仰には、その対象の性質は未知ながらも、何等かの実在的対象が対応しているものと考える。即ち、神道の信仰は、総て幻想である、とア・プリオリに断定することは為すべきではない。勿論、安易にキリスト教的概念、例えば、神の力、天使、聖人、悪魔などを持ち出して神道の神々は、その様なものの「日本的な」概念化であると説明することも避けるべきであろう。現時点においては、神道の神々の「実在」は、実証的には、未だ、断定を下すための手段に欠けると言うに止めざるを得ない。
先ず神々は、「絶対者」とは考えられていなので、論理的にその実在を(テオスの場合のように)証明することはできない。証明できるのは、その可能性のみである。そして、我々は、矛盾概念でない限りその実在は常に可能であると考えることが出来る。即ち、我々の場合は、神々の実在は、可能である。つまり、我々人間の経験を越える何等かの存在態、或は、神道的に言えば、明界に対する幽界が実在するとしても矛盾ではない。但しその実在そのものは、別の証明を要する。この場合、カトリック神学の側からは、伝統的ではあるが、あくまでも伝統に過ぎない宇宙観に基づいて、「幽界」の実在を云々すべきではない。少なくとも我々は、人間の経験を越える問題に就いて未知の事が非常に多いことを認めねばならない。他方神道の側からは、神々に就いて言われていることは、飽くまでも「神話」であることを忘れてはならない。神話が言わんとしている所を洞察すると共に、幽界に就いては、余りにも知られる所の少ない事に留意すべきである。
次に、個々の神々の具体的な実在に就いてであるが、一般に信仰とその対象に関しては、論理的には、対象が信仰に先行し、その逆ではない。従って、信仰の事実から、その対象の実在を論証することはできない。しかし、健全な(何を以って健全とするかは難しいが)信仰には、その説明根拠として何等かの実在的な対象が対応していると考える方が妥当である。従って、我々は、ある神に対する健全な信仰には、その対象の性質は未知ながらも、何等かの実在的対象が対応しているものと考える。即ち、神道の信仰は、総て幻想である、とア・プリオリに断定することは為すべきではない。勿論、安易にキリスト教的概念、例えば、神の力、天使、聖人、悪魔などを持ち出して神道の神々は、その様なものの「日本的な」概念化であると説明することも避けるべきであろう。現時点においては、神道の神々の「実在」は、実証的には、未だ、断定を下すための手段に欠けると言うに止めざるを得ない。
2009年7月28日火曜日
多神観
神道の神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、寧ろ積極的に肯定している。歴史的には、基層神道の信仰も多神的であることは、議論の余地はない。
上田賢治は、神道が、多神教である論拠を以下のように挙げている。
「第一に、神道信仰は、・・・記紀に示された信仰心意の原理に背馳しないものでなければならない。・・神道信仰のアイデンティティ―を保証するものは、記紀時代、すでに成立していた民族自発の発想・信仰原理に基づくものであり、それからの展開として神社祭祀の現実にも継承されていなければならない。・・第二に、神道神話には、全智にして全能なることを属性とする神は出現せず、祭祀の現実においても、・・多数神(延喜神名式--九二七年--には三千一百三十二座)が、同時に奉幣の待遇を受けて来た。p.26-27.(神話の神々は不完全であった)
一神にして多くの神名を持つ神の問題・・神道の神理解は、・・尋常ならずすぐれた徳(働き)あるものに向けられており、・・人間がその実体を全体として把握しうる対象ではない。我々が神の存在を知りうるのは、神からの働きを受けてのことであり、その故に神の御名は、我々がその働きに対して奉ったものに外ならない。もし統合的に神を理解し、思念する志向が中心的傾向を占めていたのなら、大穴牟遅も八千矛ノ神も、共に大国主の御名で祀られていた筈である。ところが事実は逆に、大穴牟遅ノ神はあくまでも大穴牟遅ノ神として奉斎されて来たのである。この事実は、一神教化への傾向よりも、むしろ多神教化への志向こそ、神道本来の姿であった・・。p.27-28.
最後に、古典神話には、超越神、従って創造神も語られていない・・。・・神道神話は、・・世界を所与からの発展、或いは展開として理解しており、神はその所与から、存在を存在たらしめ、発展させる力としての本質が顕現する形で語られている。p.28.
神道の神が「ナル」神であり、或は「生れる」神であるが故に、多神となる、というのが筆者のこの問題についての理解である。p.28.
要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうのではないかと思われる。以上のような考えを踏まえて、ここで、所謂多神観の意義について若干の考察を加える必要があろう。従来の西欧流キリスト教思想では多神観、特に多神教は、宗教の堕落した形態と考えられていた。健全な理性なら当然、「唯一神テオス」は一つと考える筈である。絶対者、完全者が二つ以上ある訳がないからである。確かにその通りだが、我々は、ここで形而上学的、論理学的な次元と宗教上・心理上の次元とを区別して考える必要がある。後者は、主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が強調される。あくまでも「実践」が主であるから、この次元・領域に於いては、「真理」は、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、前者の形而上学的、論理学的思弁の次元は、「存在」と「認識」の領域である。ここでは、主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りに於いて、「真理」は、ただ一つである。主体は、或意味で客体によって規定されるからである。
前者の次元では、前述の様に、「テオス」が二つ以上あるとは考え難い。しかし所謂「多神教」は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。抑々「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。絶対者、完全者、超越者などを表わしているのではない。それは、形而上学的、論理学的概念と言うよりは寧ろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、我々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場に於いてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような唯一絶対の神に対する全存在を挙げての帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。 それ故、多神観は、形而上学・論理学の次元で「絶対存在者」が幾つあるかと言うようなことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本音であろう。宗教・心理上の次元では、宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることである。実際一般のキリスト教教徒が「神」を礼拝している場合、その「神」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものの概念を有つことが可能であろうか。結局、実際には、複数の概念を結合して「神」を考えているのである。哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教に於いても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
信仰実践の次元に於いて、人間の営みは、本来多神教的、或いは、筆者の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教に於いても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神教的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、唯一神的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神的傾向」がしからしめているのである。
「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神ではなかったかと思われる。この点については、石田友雄、『ユダヤ教史』、p.22-26.及び、以下の引用文をも参照すると良いだろう。
「・・聖書資料をよく検討してみると、族長たちが礼拝していた神とモーセに顕現したヤハウェが、実際には同一神でなかったことがわかる。何よりも、“アブラハムの神”“イツハクの神”“ヤコブの神”という特有の呼び名が、族長の神--より厳密には族長たちの神々--の本質を表わしている。・・守護神礼拝は、多分に一神礼拝的性格を持っている。族長たちが、モーセ時代以降の激しい異教排撃と無関係なことは、彼らが一神教徒ではなく、一神礼拝者であったことを示していると思われる。」(石田友雄、『ユダヤ教史』、p.23-24.)
「旧約の宗教は主として時間の軸に沿って展開するのだが、..私は、天幕の中に神の名を唱えつつ、天幕の無の空間に神の霊が満ちたという、そういう経験が繰り返されたと推定し、それが族長時代のひじょうに重要なことではなかっただろうかと考える。..族長時代にはあるかぎられた空間が霊的空間として重要な意味をもったと考えたい。..祭儀というのは空間的なものである。聖なる空間、霊的空間、神霊の満ちる場所ということは現代の我々には分かりにくいが、族長の信仰なり..を具体的に考える上で、そういうものを想定することが重要..。一番深い問題は神の名と一定の空間における神の現在との関係であろう。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.55-57.)
「旧約の神は一般的、抽象的ではなく具体的なのである。..万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること..。旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、..それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。..旧約の神はすべての自然物の中に来たり給うし、我々の体の中にも来たり給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味で我々を越えている。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.64-66.)
「「存在する者」とか「存在せしめる者」とか、さらに現代的に「実存者」という意味だ、というが、問題はこの時代に「存在」とか「実存」とかいう概念が正確に原語の意味に応ずるか、..。やはりある経験的・論理的な意味を少なくとも反省の段階ではヤハウェという名前に中に含めただろう..。ヘブライ語、アラム語に出てくる「ハーヤー」「ハヴァー」は、動詞の起因話態としては他に例がないので、「あらしめる者」という起因的な意味はむりであろう..。「「ある」を神の存在性、不動性、恒常性という抽象的意味から解すべきではなく--これは西欧的な神の属性の考え方である--、..「..君とともにあるであろう」という具体的な神の同伴、現在から解すべきであろう。..モーセとイスラエル全体に対しての歴史の中での、神とともにある霊的リアリティが中心だ、..歴史の中での神の活動を含む。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.67-68.)
「..イスラエル人はカナンに入ってから周囲のカナン人の世界にふれたのだから、複数的に神を考える思考に当然ふれていた。「創世記」一章の「我々のかたちのように人を造ろう」という場合のような「我々」というのは複数である。カナン的な考え方を前提していわれているので、天の宮廷を考えて神的存在という意味で「我々」といっているのだ、..(アルトの説)」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.133.)
「・・われわれ日本人は、絶対者としての神をいわばノエーマ的にではなく、ノエーシス的に把捉しているといってよかろう。したがって、神社の祭神は、時代の宗教思潮の変遷に伴って、また、しばしば変遷するであろう。」(西田長男、『日本神道史研究』、9、p.420-421.)
何れにせよ、我々自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、ヨーロッパの人にはみられないことだろうか。ただ、このような「多神的な信仰」が、「唯一神的傾向」で現れるか、「多神教的傾向」で現れるかは、また別の問題である。
以上のような事実は、我々の実際生活に於ける多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、寧ろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元に於いても宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神的」であっても、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などが捧げられる。形而上学的に言えば絶対者では在り得ない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論が在り得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(一神教の場合でさえ)在り得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。
上田賢治は、神道が、多神教である論拠を以下のように挙げている。
「第一に、神道信仰は、・・・記紀に示された信仰心意の原理に背馳しないものでなければならない。・・神道信仰のアイデンティティ―を保証するものは、記紀時代、すでに成立していた民族自発の発想・信仰原理に基づくものであり、それからの展開として神社祭祀の現実にも継承されていなければならない。・・第二に、神道神話には、全智にして全能なることを属性とする神は出現せず、祭祀の現実においても、・・多数神(延喜神名式--九二七年--には三千一百三十二座)が、同時に奉幣の待遇を受けて来た。p.26-27.(神話の神々は不完全であった)
一神にして多くの神名を持つ神の問題・・神道の神理解は、・・尋常ならずすぐれた徳(働き)あるものに向けられており、・・人間がその実体を全体として把握しうる対象ではない。我々が神の存在を知りうるのは、神からの働きを受けてのことであり、その故に神の御名は、我々がその働きに対して奉ったものに外ならない。もし統合的に神を理解し、思念する志向が中心的傾向を占めていたのなら、大穴牟遅も八千矛ノ神も、共に大国主の御名で祀られていた筈である。ところが事実は逆に、大穴牟遅ノ神はあくまでも大穴牟遅ノ神として奉斎されて来たのである。この事実は、一神教化への傾向よりも、むしろ多神教化への志向こそ、神道本来の姿であった・・。p.27-28.
最後に、古典神話には、超越神、従って創造神も語られていない・・。・・神道神話は、・・世界を所与からの発展、或いは展開として理解しており、神はその所与から、存在を存在たらしめ、発展させる力としての本質が顕現する形で語られている。p.28.
神道の神が「ナル」神であり、或は「生れる」神であるが故に、多神となる、というのが筆者のこの問題についての理解である。p.28.
要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうのではないかと思われる。以上のような考えを踏まえて、ここで、所謂多神観の意義について若干の考察を加える必要があろう。従来の西欧流キリスト教思想では多神観、特に多神教は、宗教の堕落した形態と考えられていた。健全な理性なら当然、「唯一神テオス」は一つと考える筈である。絶対者、完全者が二つ以上ある訳がないからである。確かにその通りだが、我々は、ここで形而上学的、論理学的な次元と宗教上・心理上の次元とを区別して考える必要がある。後者は、主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が強調される。あくまでも「実践」が主であるから、この次元・領域に於いては、「真理」は、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、前者の形而上学的、論理学的思弁の次元は、「存在」と「認識」の領域である。ここでは、主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りに於いて、「真理」は、ただ一つである。主体は、或意味で客体によって規定されるからである。
前者の次元では、前述の様に、「テオス」が二つ以上あるとは考え難い。しかし所謂「多神教」は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。抑々「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。絶対者、完全者、超越者などを表わしているのではない。それは、形而上学的、論理学的概念と言うよりは寧ろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、我々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場に於いてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような唯一絶対の神に対する全存在を挙げての帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。 それ故、多神観は、形而上学・論理学の次元で「絶対存在者」が幾つあるかと言うようなことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本音であろう。宗教・心理上の次元では、宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることである。実際一般のキリスト教教徒が「神」を礼拝している場合、その「神」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものの概念を有つことが可能であろうか。結局、実際には、複数の概念を結合して「神」を考えているのである。哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教に於いても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
信仰実践の次元に於いて、人間の営みは、本来多神教的、或いは、筆者の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教に於いても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神教的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、唯一神的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神的傾向」がしからしめているのである。
「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神ではなかったかと思われる。この点については、石田友雄、『ユダヤ教史』、p.22-26.及び、以下の引用文をも参照すると良いだろう。
「・・聖書資料をよく検討してみると、族長たちが礼拝していた神とモーセに顕現したヤハウェが、実際には同一神でなかったことがわかる。何よりも、“アブラハムの神”“イツハクの神”“ヤコブの神”という特有の呼び名が、族長の神--より厳密には族長たちの神々--の本質を表わしている。・・守護神礼拝は、多分に一神礼拝的性格を持っている。族長たちが、モーセ時代以降の激しい異教排撃と無関係なことは、彼らが一神教徒ではなく、一神礼拝者であったことを示していると思われる。」(石田友雄、『ユダヤ教史』、p.23-24.)
「旧約の宗教は主として時間の軸に沿って展開するのだが、..私は、天幕の中に神の名を唱えつつ、天幕の無の空間に神の霊が満ちたという、そういう経験が繰り返されたと推定し、それが族長時代のひじょうに重要なことではなかっただろうかと考える。..族長時代にはあるかぎられた空間が霊的空間として重要な意味をもったと考えたい。..祭儀というのは空間的なものである。聖なる空間、霊的空間、神霊の満ちる場所ということは現代の我々には分かりにくいが、族長の信仰なり..を具体的に考える上で、そういうものを想定することが重要..。一番深い問題は神の名と一定の空間における神の現在との関係であろう。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.55-57.)
「旧約の神は一般的、抽象的ではなく具体的なのである。..万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること..。旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、..それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。..旧約の神はすべての自然物の中に来たり給うし、我々の体の中にも来たり給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味で我々を越えている。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.64-66.)
「「存在する者」とか「存在せしめる者」とか、さらに現代的に「実存者」という意味だ、というが、問題はこの時代に「存在」とか「実存」とかいう概念が正確に原語の意味に応ずるか、..。やはりある経験的・論理的な意味を少なくとも反省の段階ではヤハウェという名前に中に含めただろう..。ヘブライ語、アラム語に出てくる「ハーヤー」「ハヴァー」は、動詞の起因話態としては他に例がないので、「あらしめる者」という起因的な意味はむりであろう..。「「ある」を神の存在性、不動性、恒常性という抽象的意味から解すべきではなく--これは西欧的な神の属性の考え方である--、..「..君とともにあるであろう」という具体的な神の同伴、現在から解すべきであろう。..モーセとイスラエル全体に対しての歴史の中での、神とともにある霊的リアリティが中心だ、..歴史の中での神の活動を含む。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.67-68.)
「..イスラエル人はカナンに入ってから周囲のカナン人の世界にふれたのだから、複数的に神を考える思考に当然ふれていた。「創世記」一章の「我々のかたちのように人を造ろう」という場合のような「我々」というのは複数である。カナン的な考え方を前提していわれているので、天の宮廷を考えて神的存在という意味で「我々」といっているのだ、..(アルトの説)」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.133.)
「・・われわれ日本人は、絶対者としての神をいわばノエーマ的にではなく、ノエーシス的に把捉しているといってよかろう。したがって、神社の祭神は、時代の宗教思潮の変遷に伴って、また、しばしば変遷するであろう。」(西田長男、『日本神道史研究』、9、p.420-421.)
何れにせよ、我々自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、ヨーロッパの人にはみられないことだろうか。ただ、このような「多神的な信仰」が、「唯一神的傾向」で現れるか、「多神教的傾向」で現れるかは、また別の問題である。
以上のような事実は、我々の実際生活に於ける多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、寧ろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元に於いても宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神的」であっても、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などが捧げられる。形而上学的に言えば絶対者では在り得ない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論が在り得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(一神教の場合でさえ)在り得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。
2009年7月27日月曜日
内在的神観
我々の経験するものは、すべて、相対的であり、動的である。永久不動のものは、経験を否定して、或は経験の彼方でしか与えられない。神をそのまま相対的、動的に捉えることは、それを世界内存在者として捉えることに他ならない。単に、神が世界に働きかけると言うだけでなく、神は、世界の一部である。勿論、これは、世界と神が即同一であるということ、即ち、いわゆる汎神論を意味するものではない。超越的神観が、容易に無神論へ逸脱する傾向を持つのに対して、内在的神観は、特に倫理的汎神論へ逸脱する可能性が強いことは、否定できない。
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