マリアが我々の実母である事実を認めることは、単に我々のマリア信心のあり方を左右
するだけではなく、我々のキリスト者としてのあり方全体を定めるものである。何故なら
ば、上述のようにキリスト者とは、単にキリストを模倣するだけでなく、キリストそのも
のを生命としてこれを生きようとする者、もっと適切には、生かされようとする者である
からである。即ち、キリスト者としての生き方には二つの大きな様相が考えられる。(a)キ
リストのまねび;キリストを自分の理想として眼前に描き、その行動にできるだけ厳密に
与ろうとする生きざまである。これは、客観的であり、把握し易いが、形式主義、律法主
義に陥る危険がある。(b)キリストに生かされる;キリストを内的な生命の原理としてこれ
に全てを委ねて生きる態度である。これは、霊的な活力の漲る充実した生きざまであるが
、熱狂主義、主観主義、独善主義に陥る危険がある。従って、この両者が調和を持って統
合されるのが理想的である。キリストが超自然の生命であるとは、その様な意味である。
キリスト者の生きざまが、この様にして、所謂第二のキリストになる、ことを目指すとす
れば、当然キリストの最も基本的あり方、即ち、マリアの子である事実を真っ先に実現す
べきであろう。子の親に対する関係、その根本的態度は、「孝行」あるいは「孝愛」とい
う言葉で最もよく表現できる。但し、ここで「孝愛」と言うのは、基本的な態度を言うの
であって、単なる感情を指しているのではない。従ってキリストと共にマリアの子である
、とは、キリストのマリアに対する子としての関係・孝愛に参与することに他ならない。
無論、キリストに就いての理解は、多様であるべきであるから、必ずしも万人がこの孝愛
を一定の仕方で、実践する必要はないが、一つの健全な道として推奨されるべきであろう
。それ故、我々の霊生道は、「マリアの子」の霊生道であるのが望ましい。これは単なる
スローガンではなく、霊的生活の全方向を決定的に規定するものである。つまり、マリア
の子としてのイエスに同化することである。
2009年8月28日金曜日
2009年8月26日水曜日
マリアはどのようにして神的生命を私に伝えたか(3)
全ての人間には、対キリスト関係を成立させる何等かの行為が生じるとして、で
は、マリアは、この行為に対してどの様な役割を果たすのであろうか。残念ながら、この点に関しても、聖書的な直接の根拠はない。少なくとも、マリアがキリストの母であることを示すのと同程度に明確に示す根拠はない。従って、我々は、この点に関しては、伝承と神学的な考察に頼らざるを得ない。「マリア信仰」ではなく、「信心」と言う理由の一つは、ここにある。
神学的考察に就いては、様々な立場からの推論が、可能であるが、ここでは、マリアが、キリストの母である、との信仰から出発して、その意味を探ってみる。さて、我々の信仰に依れば、マリアをキリストの母として選んだのは、神の意志である。神の意志が、無目的、偶発的に起こることは考えられない。選びには、何等かの目的があるはずである。我々は、これを「使命」と呼ぶ。それ故、マリアにも、キリストに関して、使命が与えられているはずである。そしてその使命は、当然キリストの母となる、と言うことである。所で、母に取って、最大の使命は、正にその「子」を生み、養育し、完成させると言うことである[マリアは、いつこの使命を自覚したか?遅くとも復活後]。所で、ペルソナは、二つ以上の焦点を共有する楕円形としてイメージすることが出来るから、個々の人間ペルソナは、少なくともキリストをもう一つの焦点とする楕円形で有り得る。これを別言すると、ペルソナとは、単に物理・生理的な個人を指すだけではなく、いわば二つ(以上)の焦点を共有し合う人間集団をも指している。この意味で、古来言われている「神秘体キリスト」は、十分理解できる概念である。即ち、我々の問題にかえって、若しマリアの使命が、キリストを生み、養育することにあるならば、それは、単に歴史的なナザレのイエスの出産と養育だけではなく、全人類を包含する神秘体キリストの出産と養育をも含むはずである。従って、上に述べた、個々の人間の対キリスト関係(この関係によって「共同体としてのキリスト」が生じる)を基礎付ける人間行為(これ自体神の恩寵である)にマリアが直接に関与すること(この関与の性格は、何か。確かに必然的ではないが、「より適切」つまり神の摂理の中で、その方がより良い)を神が許したと考えても、決して矛盾ではない。繰り返して言うが、勿論我々は、この事実に就いての直接の啓示を持たない。しかし、こう考えることは、啓示を裏切ることにはならないはずである。
こうしてマリアは、イエスの懐妊の瞬間から人間の命の母となっただけで無く、我々一人一人がキリストの命に現実に「生きる」に当たって母としての参与を行った。この参与は、マリアの「使命」の中に潜勢的に現在する。その限りに於てマリアは、一人の例外もなく全ての人間の母である。それも前述のように単に比喩的意味ではなく、固有の意味で母である、と言うことも許されよう。
要するに、マリアが我々の母である、との結論は、救済史に於けるイエス・キリストの分析を媒介として、マリアは、イエスの母である、との前提から神学的・論理的に引き出される結論である。
は、マリアは、この行為に対してどの様な役割を果たすのであろうか。残念ながら、この点に関しても、聖書的な直接の根拠はない。少なくとも、マリアがキリストの母であることを示すのと同程度に明確に示す根拠はない。従って、我々は、この点に関しては、伝承と神学的な考察に頼らざるを得ない。「マリア信仰」ではなく、「信心」と言う理由の一つは、ここにある。
神学的考察に就いては、様々な立場からの推論が、可能であるが、ここでは、マリアが、キリストの母である、との信仰から出発して、その意味を探ってみる。さて、我々の信仰に依れば、マリアをキリストの母として選んだのは、神の意志である。神の意志が、無目的、偶発的に起こることは考えられない。選びには、何等かの目的があるはずである。我々は、これを「使命」と呼ぶ。それ故、マリアにも、キリストに関して、使命が与えられているはずである。そしてその使命は、当然キリストの母となる、と言うことである。所で、母に取って、最大の使命は、正にその「子」を生み、養育し、完成させると言うことである[マリアは、いつこの使命を自覚したか?遅くとも復活後]。所で、ペルソナは、二つ以上の焦点を共有する楕円形としてイメージすることが出来るから、個々の人間ペルソナは、少なくともキリストをもう一つの焦点とする楕円形で有り得る。これを別言すると、ペルソナとは、単に物理・生理的な個人を指すだけではなく、いわば二つ(以上)の焦点を共有し合う人間集団をも指している。この意味で、古来言われている「神秘体キリスト」は、十分理解できる概念である。即ち、我々の問題にかえって、若しマリアの使命が、キリストを生み、養育することにあるならば、それは、単に歴史的なナザレのイエスの出産と養育だけではなく、全人類を包含する神秘体キリストの出産と養育をも含むはずである。従って、上に述べた、個々の人間の対キリスト関係(この関係によって「共同体としてのキリスト」が生じる)を基礎付ける人間行為(これ自体神の恩寵である)にマリアが直接に関与すること(この関与の性格は、何か。確かに必然的ではないが、「より適切」つまり神の摂理の中で、その方がより良い)を神が許したと考えても、決して矛盾ではない。繰り返して言うが、勿論我々は、この事実に就いての直接の啓示を持たない。しかし、こう考えることは、啓示を裏切ることにはならないはずである。
こうしてマリアは、イエスの懐妊の瞬間から人間の命の母となっただけで無く、我々一人一人がキリストの命に現実に「生きる」に当たって母としての参与を行った。この参与は、マリアの「使命」の中に潜勢的に現在する。その限りに於てマリアは、一人の例外もなく全ての人間の母である。それも前述のように単に比喩的意味ではなく、固有の意味で母である、と言うことも許されよう。
要するに、マリアが我々の母である、との結論は、救済史に於けるイエス・キリストの分析を媒介として、マリアは、イエスの母である、との前提から神学的・論理的に引き出される結論である。
2009年8月25日火曜日
マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(2)
以上述べたことから、マリアは、イエスを宿すことによって、「根源的な意味での人間の」命キリストの母となった、と言える。しかし、「量的にも完成された命」としてのキリストの母と言えるためには、マリアが、人間の救いとしてのイエスの生涯、特にその十字架上での死去に決定的な役割を果たしたことを明らかにしなければならない。残念ながら、我々は、この点に関しても明示的な啓示を与えられていない。従ってこの問題は、神学的な議論の段階にある。ここで様々な理論に深入りする余裕はないが、例えば、愛する者の苦しみを共に苦しむ「同伴苦」compassioの考え方が有力な示唆を与えている。
上に述べたように、救いがキリストに対する我々の関係に成り立つとすれば、キリストの受胎の瞬間に全人類は、根本的に救いの状況に入れられた、と言うことが出来る。しかしながら、これだけでは、我々人間に対するキリストの対人間関係の成立が説明されただけで、個々の人間のキリストに対する関係は、未だ説明できていない。いのちは、外から押し付けられるのではなく、内在し、同化するものだから、人間の側からの少なくとも「受ける」働きがなければならない。「受ける」は、人間の場合ペルソナの行為、つまり、少なくとも「断わる」可能性を含む、知性と意志の活動である。つまり、知ることと愛することである。では、上記の関係の基礎としての行為は、人が史的イエス・キリストを知って、愛し始めたときに成立するとすべきであろうか。若し、この様な「概念化された」行為にのみ限定するならば、史的イエス・キリストに対する関係を持てる人は、極く限られた少数の人だけになって仕舞うであろう。このことを、神の普遍的救済意志に調和させるのは、非常に難しい。所で、「至福直観」[神自身が一切の媒介なしに直接に人間の能力を取り上げる、従ってここでは選択の自由はなく必然的である]の場合を除いて、善そのものである神は、常に「造られたもの」を媒介として我々に御自身を提供される。「造られたもの」は、まさにその被造性の故に有限であり、善を相対化する。つまり悪の要因を含む。存在論的にみれば、悪とは、善の欠如に他ならないからである。これは、勿論キリストの「人間性」に就いても言えることである。従って、史的イエスは、万人にとって必ずしも常に「善」として立ち現れるとは限らない。ある人が、キリストを「悪」と見なして「善」のために、拒否することも有り得る。逆に「史的イエス」以外のものが、善そのものへの道として真摯に捉えられることもまた可能である。
一方、あらゆる行為は、元来神からのものである。ある意味で神との合作であるとも言える。特に、イエスは、同時に神の御子であるから、どの様な被造物もその固有の力によってイエスを(概念的にではなく、実存的、体験的に)知り、愛することはできない(ちなみに、愛の対象は、ペルソナ自体である)。神の特別の助けが必要である。即ち、神が人間の行為を取り上げて、それを、それが本来備えていなかった高次の次元に高めて、知り、かつ愛することが出来るようにして下さる必要がある。所で、あらゆる人間の行為は、神の眼からみれば(と言うことが出来るとすれば)、いわば「無」に等しく本来的な価値を持たない(被造物は、徹頭徹尾全面的に神に依存するものである)。従って、ある行為が、別の行為よりも良く神の愛の対象になると言うことはない。人間の側からみれば、各々の行為の価値は、実在的に異なるが、神の側からは、そうではない。全てが神の純粋の「恵み」である。それ故、「罪」を除いて、人間の行為は、全て神の特別の助けの対象となり得る。「罪」とは、第一義的には、法則の侵犯ではなく、愛、生命(としての「イエス・キリスト」)の受け入れを拒否することである。法則の侵犯は、その具体的現れである。それ故、「罪」つまり「受ける」ことの拒否が、「受け入れ」とは、なり得ないからである。
更に、人間の認識行為には、直観的要因と、概念化の要因とが区別できることも知られている。概念化は、本来複合的であり、身体的要素、従って文化・社会的要素に左右される。それ故、人間は、多少異なる概念に依って、同一の事物を認識することも可能であるその具体的な一例は、多国語による認識である。確かに言語は、概念の表象であるから、言語の相違は、必ずしも概念の違いを意味しないが(例えば、「本」と「book」が表象する「概念」は同じであろう)、全体的、体系的視野の中では、概念そのものの相違も有り得る。つまり、同一の「直観的」内容が、それぞれの言語に特有のそれぞれに異なった概念系によって捉えられることも有り得る。以上のことを勘案すれば、対キリスト関係を成立させるには、必ずしも史的イエス・キリストに対する概念化された認識と愛を必要とするものではないと言える。つまり、全ての人間の自由意志による最初の行為(人間固有の行為)を、神が取り上げて、それが行為として史的キリストを志向している限り、或はもっと厳密に言えば、史的キリストが表している「神秘」を志向している限り、それがどの様に概念化されていようとも、これを用いて、対キリスト関係を成立せしめられることも神に取っては、不可能ではない。勿論、個々の具体的な場合に、どの行為が「最初の行為であるか、或は、存在の次元で史的キリストを志向しているのかどうか、又、それによっ」て実際に関係が成立したかどうか、などをア・プリオリに断定することは、出来ない。その識別の具体的方法として我々に与えられているのが「秘跡」である。ここに「秘跡」の持つ一つの大きな意味がある。
上に述べたように、救いがキリストに対する我々の関係に成り立つとすれば、キリストの受胎の瞬間に全人類は、根本的に救いの状況に入れられた、と言うことが出来る。しかしながら、これだけでは、我々人間に対するキリストの対人間関係の成立が説明されただけで、個々の人間のキリストに対する関係は、未だ説明できていない。いのちは、外から押し付けられるのではなく、内在し、同化するものだから、人間の側からの少なくとも「受ける」働きがなければならない。「受ける」は、人間の場合ペルソナの行為、つまり、少なくとも「断わる」可能性を含む、知性と意志の活動である。つまり、知ることと愛することである。では、上記の関係の基礎としての行為は、人が史的イエス・キリストを知って、愛し始めたときに成立するとすべきであろうか。若し、この様な「概念化された」行為にのみ限定するならば、史的イエス・キリストに対する関係を持てる人は、極く限られた少数の人だけになって仕舞うであろう。このことを、神の普遍的救済意志に調和させるのは、非常に難しい。所で、「至福直観」[神自身が一切の媒介なしに直接に人間の能力を取り上げる、従ってここでは選択の自由はなく必然的である]の場合を除いて、善そのものである神は、常に「造られたもの」を媒介として我々に御自身を提供される。「造られたもの」は、まさにその被造性の故に有限であり、善を相対化する。つまり悪の要因を含む。存在論的にみれば、悪とは、善の欠如に他ならないからである。これは、勿論キリストの「人間性」に就いても言えることである。従って、史的イエスは、万人にとって必ずしも常に「善」として立ち現れるとは限らない。ある人が、キリストを「悪」と見なして「善」のために、拒否することも有り得る。逆に「史的イエス」以外のものが、善そのものへの道として真摯に捉えられることもまた可能である。
一方、あらゆる行為は、元来神からのものである。ある意味で神との合作であるとも言える。特に、イエスは、同時に神の御子であるから、どの様な被造物もその固有の力によってイエスを(概念的にではなく、実存的、体験的に)知り、愛することはできない(ちなみに、愛の対象は、ペルソナ自体である)。神の特別の助けが必要である。即ち、神が人間の行為を取り上げて、それを、それが本来備えていなかった高次の次元に高めて、知り、かつ愛することが出来るようにして下さる必要がある。所で、あらゆる人間の行為は、神の眼からみれば(と言うことが出来るとすれば)、いわば「無」に等しく本来的な価値を持たない(被造物は、徹頭徹尾全面的に神に依存するものである)。従って、ある行為が、別の行為よりも良く神の愛の対象になると言うことはない。人間の側からみれば、各々の行為の価値は、実在的に異なるが、神の側からは、そうではない。全てが神の純粋の「恵み」である。それ故、「罪」を除いて、人間の行為は、全て神の特別の助けの対象となり得る。「罪」とは、第一義的には、法則の侵犯ではなく、愛、生命(としての「イエス・キリスト」)の受け入れを拒否することである。法則の侵犯は、その具体的現れである。それ故、「罪」つまり「受ける」ことの拒否が、「受け入れ」とは、なり得ないからである。
更に、人間の認識行為には、直観的要因と、概念化の要因とが区別できることも知られている。概念化は、本来複合的であり、身体的要素、従って文化・社会的要素に左右される。それ故、人間は、多少異なる概念に依って、同一の事物を認識することも可能であるその具体的な一例は、多国語による認識である。確かに言語は、概念の表象であるから、言語の相違は、必ずしも概念の違いを意味しないが(例えば、「本」と「book」が表象する「概念」は同じであろう)、全体的、体系的視野の中では、概念そのものの相違も有り得る。つまり、同一の「直観的」内容が、それぞれの言語に特有のそれぞれに異なった概念系によって捉えられることも有り得る。以上のことを勘案すれば、対キリスト関係を成立させるには、必ずしも史的イエス・キリストに対する概念化された認識と愛を必要とするものではないと言える。つまり、全ての人間の自由意志による最初の行為(人間固有の行為)を、神が取り上げて、それが行為として史的キリストを志向している限り、或はもっと厳密に言えば、史的キリストが表している「神秘」を志向している限り、それがどの様に概念化されていようとも、これを用いて、対キリスト関係を成立せしめられることも神に取っては、不可能ではない。勿論、個々の具体的な場合に、どの行為が「最初の行為であるか、或は、存在の次元で史的キリストを志向しているのかどうか、又、それによっ」て実際に関係が成立したかどうか、などをア・プリオリに断定することは、出来ない。その識別の具体的方法として我々に与えられているのが「秘跡」である。ここに「秘跡」の持つ一つの大きな意味がある。
2009年8月19日水曜日
マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(1)
マリアの子イエスが、人間一人一人の命であることは、上述の様に理解することが出来る。では、マリアは、どの様な意味で人間一人一人の母であると言えるだろうか。既に述べたように、命を伝達する女性が、母と呼ばれる。それ故、問題は、どの様にして、マリアは、我々の命であるキリストを我々に伝達したかである。
先ず、マリアがキリストを生んだことに依って、我々の命としてのキリストをも生んだと直ちに言えるであろうか。即ち、イエスは、生まれながらにして「人間の命」であると言えるであろうか。別言すると、イエスが「人間の命」となったのは、何時の時点か。つまり、受胎の時か、或は、生涯のある時点、例えば死の時か、もしくは、復活の時か。キリストがどの時点で「人間の命」となったかによって、我々に対するマリアの母性も変わって来る。このことを明らかにするためには、いわゆる「救い」におけるイエス・キリストの「役割」を見る必要がある。既に述べたように、人間は、史的キリストと連帯することで、神秘と合一し、それによって我々の「救い」が成就するが、このことは、どの様にして可能となるのか。今、逆の観点からこの合一を阻むものを見てみると、それには、二つのことがある。人間の被造物としての有限性と神の愛の受け入れを拒否する人間の意志の反抗としての罪とである。有限性も罪も人間の側からの自発的行為でこれを克服することは、出来ない。ただ神からの無条件、無償の恩寵として克服を授けられる以外に有り得ない。つまり神の側からの全く自由な行為である。神の自由行為であるから、神がそれにどの様な条件を付けられるのも、或は、付けられないのもまた全く神の自由である。従って、神が、この合一の一つの方法として御子の受肉を決められ、ただこの決定だけによって合一を成就されたとしても、それは、根本的には、神の全くの自由行為である。この意味で、イエスの受胎の瞬間が、この神の自由行為の人間に対する表示であり、この時点でイエスは、根本的に人間の命となった、と理解して良いだろう。しかしながら、一方、信仰によって、我々は、イエスが、「我々人間のため、我々の救いのため」に来られたことを知っている。だとすれば、イエスの人間としての生涯が、何等かの仕方で神の自由行為に参与することを神は望まれた、と考えるべきであろう。もしそうなら、イエスの人間としての諸々の行為、就中その最高潮としてのイエスの死が、人間の神との合一の可能性の原因、不可欠ではないにしても、最も適切な原因として神から定められたと言うことが出来る。この意味で、イエスの十字架上での死によって、人間の有限性が克服され、罪が完全に撃ち破られ、人間は、神と合一し得る者となった、と言える。即ち、この時点で、イエスは、単に「根本的に」だけではなく、人間の次元に於いても、「人間の命」となったのである。これを便宜上、「根本的な命」に対して「量的にも完成された命」と呼んでおく。
先ず、マリアがキリストを生んだことに依って、我々の命としてのキリストをも生んだと直ちに言えるであろうか。即ち、イエスは、生まれながらにして「人間の命」であると言えるであろうか。別言すると、イエスが「人間の命」となったのは、何時の時点か。つまり、受胎の時か、或は、生涯のある時点、例えば死の時か、もしくは、復活の時か。キリストがどの時点で「人間の命」となったかによって、我々に対するマリアの母性も変わって来る。このことを明らかにするためには、いわゆる「救い」におけるイエス・キリストの「役割」を見る必要がある。既に述べたように、人間は、史的キリストと連帯することで、神秘と合一し、それによって我々の「救い」が成就するが、このことは、どの様にして可能となるのか。今、逆の観点からこの合一を阻むものを見てみると、それには、二つのことがある。人間の被造物としての有限性と神の愛の受け入れを拒否する人間の意志の反抗としての罪とである。有限性も罪も人間の側からの自発的行為でこれを克服することは、出来ない。ただ神からの無条件、無償の恩寵として克服を授けられる以外に有り得ない。つまり神の側からの全く自由な行為である。神の自由行為であるから、神がそれにどの様な条件を付けられるのも、或は、付けられないのもまた全く神の自由である。従って、神が、この合一の一つの方法として御子の受肉を決められ、ただこの決定だけによって合一を成就されたとしても、それは、根本的には、神の全くの自由行為である。この意味で、イエスの受胎の瞬間が、この神の自由行為の人間に対する表示であり、この時点でイエスは、根本的に人間の命となった、と理解して良いだろう。しかしながら、一方、信仰によって、我々は、イエスが、「我々人間のため、我々の救いのため」に来られたことを知っている。だとすれば、イエスの人間としての生涯が、何等かの仕方で神の自由行為に参与することを神は望まれた、と考えるべきであろう。もしそうなら、イエスの人間としての諸々の行為、就中その最高潮としてのイエスの死が、人間の神との合一の可能性の原因、不可欠ではないにしても、最も適切な原因として神から定められたと言うことが出来る。この意味で、イエスの十字架上での死によって、人間の有限性が克服され、罪が完全に撃ち破られ、人間は、神と合一し得る者となった、と言える。即ち、この時点で、イエスは、単に「根本的に」だけではなく、人間の次元に於いても、「人間の命」となったのである。これを便宜上、「根本的な命」に対して「量的にも完成された命」と呼んでおく。
2009年8月18日火曜日
人間の命としてのキリスト
イエス・キリストが、我々人間のいのちであることをもう少し詳しく考えよう。上述のように、命とは、統合と活動とをもたらす内在的原理である。我々の経験する限り、最高の活動は、知ることと愛することである。本来活動は、単なる「動き」ではなく、存在と存在とを結び付ける広い意味での「媒体」であり、そして知的存在者を真の意味で結合するのは、認識と愛だからである。従って、活動には、常に何等かの「対象」が(実在するかどうかは別として)想定されている。更に、単なる想像の産物ではなく、真の意味での結合が起こり得るためには、「対象」と「活動」との間に、何等かの仕方での「釣合」がなければならない。既に述べたように、人間の究極の幸せは、神秘との合一によって達せられる。つまり、この合一こそ人間の究極の目的であり、あらゆる人間の活動は、この目的に向けられた「手段」である。この意味で、人間の生理的生命も、活動である限りこの目的への一つの「手段」と考えることが出来る。所で、神秘は、それ以外の一切のものを無限に越えるものとして理解されるから、如何なる活動(認識・愛)も神秘に「釣り合う」ことは有り得ない。「釣合」が可能であるためには、(例えば)人間の活動が、「他から」の原理によっていわば、高められ、補完される必要がある。もしこの様な「原理」があれば(我々はそれがあることを信仰によって知っている)、それは、新たな統合と活動とをもたらす原理、つまり「生命」であると言うことが出来る。
既に述べたように、ナザレのイエスは、人間(=ペルソナ)となった神の御子(=ペルソナ)である。御子の「資格」では、三一神の内的生命(知恵・愛)そのものであり、人間の「資格」では、我々一人一人と存在的に連帯し得る。それ故、我々一人一人は、この連帯を通して三一神の内的生命にある意味で参与する。つまり、人間は、御子に準じて神に愛され、且つ御子に準じて神を(能動的に)知り、愛し得る者となる。こうして、神と人間との「合一」、従って人間の究極の目的・幸せは、イエスを媒介とする我々の活動によって達成され得るのである。それ故、イエス・キリストは、言葉の最も完全な意味に於て我々一人一人の「生命」そのものである。我々は、この様に不完全に表現されたこの事実の内容を信仰に依って受け入れるのである。
所で、イエス・キリストが人間の命であるとして、説明しなければならないもう一つの問題点は、二千年前に史上に存在し、今は我々の五官・感覚ではその現存が捉え得ない史的人物が、どの様にして我々個人の内在的原理であると考えることが出来るか、と言うことであろう。即ち、①自分ではない他の人間がどの様にして、我々に内在し得るのか、②しかもこの人物と我々の間には、二千年の時間の隔たりがある。これに対して、勿論我々は、所謂「自然科学的」な答えを出すことは、出来ない。自然科学的なデーターが無いからである。しかし、ただ、そう信じている、と言うだけでも十分ではない。少なくともこの信仰の内容は、何なのか、信仰を媒介にして与えられた事実を前提に、その意味するところを説明し、多少とも理解しようと試みることは、可能であり、理性を備えた人間にふさわしいことであると言えよう。
我々は、この問題を理解するための基礎としてペルソナの概念に訴える。一般にペルソナと言うと、「知性的実体」と定義されるように、存在論的に他から切り離され孤立した「個体」が考えられがちであるが、実は、ペルソナは、本来実体概念と言うよりは関係概念である。凡そこの世に存在するもので、孤立・遊離したものは考えられないと言う事実の他に、ペルソナは、その「本質」に於て、他に対して開かれ、他に依存する対他存在である。ちなみに、神のペルソナは、「自存する関係」relatio persistensとして理解されて来た。これを仮に図で示せば、人間ペルソナは、自我を中心とする同心円ではなく、二つ以上の「焦点」をもつ楕円形、若しくはその複合形で表され得る。従って、物理的、生理的個体がそのままペルソナであるのではなく、少なくとも、この様な個体が二つ以上関係し合うことで、ペルソナは、成り立っている。物理的、生理的個体は、ペルソナという関係が成り立っている主体、もしくは基体である。多少乱暴な比喩だが、生物学で言う「宿主」的なものに当たる。この意味で、ペルソナは、本質的に社会的である。即ち、二つ以上の「個体としてのペルソナ」が、結合して、行動のための一つの「共同主体としてのペルソナ」を形成する。勿論この結合のあり方、度合は、様々で有り得る。
所で、既に述べたように、「内在」という概念は、単に空間的な内外を言うのではない。空間とは、併存iuxtapositioを本質とする物質の属性である。従って、物質でないものに就いては、空間的な内外を言うことは本来無意味である。それ故、若し「内在」と言う言葉に、何等かの意味をもたせようとすれば、「本性に従って」secundum naturam、或は「本性を越えて」praeter naturamと言う区別を導入しなければならないだろう。この様に理解すれば、たとえ物理、生理的に或「個体としてのペルソナ」に現在しなくとも、そのペルソナの本性を構成する限りに於て、つまり、そのペルソナの本性に従う限りに於て、或一つの別の「個体としてのペルソナ・自我」は、この前者のペルソナに内在すると言うことが出来る。例えば、互いに本当に愛し合っている二人は、どんなに遠く離れていても、一つのペルソナを構成すると言える。しかしながら、人間ペルソナの場合、身体は、ペルソナの本質構成要素であるから、この身体を媒介にして何等かの仕方での物理的、生理的現在が求められる。即ち、上述の「共同主体としてのペルソナ」が、現実の人間次元で行動するには、それを構成する「個体としてのペルソナ」たちも何らかの仕方で、現実の次元で現存し合わねばならない。一方が、他方の想像力(空想の愛人)、もしくは記憶力(追憶の死者)によってのみ「現在」するのでは十分ではない。物理的に今、ここに現存するか、或は例えば、物理的手段(電気、音響)を媒介に現存する必要がある。
上に述べたことから、イエス・キリストが、人間「個体ペルソナ」として、他の人間の場合と同様に、我々の一人一人と共に「共同主体としてのペルソナ」を構成し、こうして我々の内在原理(=いのち)であり得ることは、明かである。問題は、二千年前に死去したこの「人間ペルソナ」が、どの様にして我々一人一人に現実の次元で現存し得るのか、である。ここで、いわゆる神の「遍在」を直接に持ち出すのでは、答えとはならない。それは、「受肉の玄義」を飛び越えることになろう。所で、キリストが、若し他の歴史的人物と同様に単なる過去の人に過ぎないのであれば、上述の人間次元での「共同主体としてのペルソナ」は、ある人の記憶にのみ依存する思考上の存在に過ぎなくなるであろう。しかしながら、我々は、信仰に依って、イエス・キリストが復活した事実を知っている。我々の理解では、復活とは、神の直接の働きによって、ある人が、その全存在を挙げて(ペルソナ全体として)神(秘)の「次元」へ移行されることである。復活によて、この人は、(人間ペルソナであるから)時空性を保有したまま、時間と空間との制約を克服し、これらを超越して今、ここに現存している(どの様にしてかは、我々には分からない)ことを意味する。こうして、逆説的な表現ではあるが、復活した人は、人間でありながら時間と空間とを越えて今、ここに現存する、と言えるのである。復活のキリストも(と言うより全ての人は、キリストのこの復活に参与する)、時空に制約されることなく、それを越えて、今、ここに現存する(存在は、本来時空に制約されないものであるが、ある種類の存在者は、物質をその本質構成要素としているので、事実上時間と空間の条件の下にのみ実在するのである)。復活のキリストの現存は、認識論的には、信仰に依存するが、存在論的には、信仰に先行する。
要するに、十字架上で殺され、「三日目に」復活したナザレトのイエスその人が、今、ここに居て、私の生命原理を構成しているのである。
既に述べたように、ナザレのイエスは、人間(=ペルソナ)となった神の御子(=ペルソナ)である。御子の「資格」では、三一神の内的生命(知恵・愛)そのものであり、人間の「資格」では、我々一人一人と存在的に連帯し得る。それ故、我々一人一人は、この連帯を通して三一神の内的生命にある意味で参与する。つまり、人間は、御子に準じて神に愛され、且つ御子に準じて神を(能動的に)知り、愛し得る者となる。こうして、神と人間との「合一」、従って人間の究極の目的・幸せは、イエスを媒介とする我々の活動によって達成され得るのである。それ故、イエス・キリストは、言葉の最も完全な意味に於て我々一人一人の「生命」そのものである。我々は、この様に不完全に表現されたこの事実の内容を信仰に依って受け入れるのである。
所で、イエス・キリストが人間の命であるとして、説明しなければならないもう一つの問題点は、二千年前に史上に存在し、今は我々の五官・感覚ではその現存が捉え得ない史的人物が、どの様にして我々個人の内在的原理であると考えることが出来るか、と言うことであろう。即ち、①自分ではない他の人間がどの様にして、我々に内在し得るのか、②しかもこの人物と我々の間には、二千年の時間の隔たりがある。これに対して、勿論我々は、所謂「自然科学的」な答えを出すことは、出来ない。自然科学的なデーターが無いからである。しかし、ただ、そう信じている、と言うだけでも十分ではない。少なくともこの信仰の内容は、何なのか、信仰を媒介にして与えられた事実を前提に、その意味するところを説明し、多少とも理解しようと試みることは、可能であり、理性を備えた人間にふさわしいことであると言えよう。
我々は、この問題を理解するための基礎としてペルソナの概念に訴える。一般にペルソナと言うと、「知性的実体」と定義されるように、存在論的に他から切り離され孤立した「個体」が考えられがちであるが、実は、ペルソナは、本来実体概念と言うよりは関係概念である。凡そこの世に存在するもので、孤立・遊離したものは考えられないと言う事実の他に、ペルソナは、その「本質」に於て、他に対して開かれ、他に依存する対他存在である。ちなみに、神のペルソナは、「自存する関係」relatio persistensとして理解されて来た。これを仮に図で示せば、人間ペルソナは、自我を中心とする同心円ではなく、二つ以上の「焦点」をもつ楕円形、若しくはその複合形で表され得る。従って、物理的、生理的個体がそのままペルソナであるのではなく、少なくとも、この様な個体が二つ以上関係し合うことで、ペルソナは、成り立っている。物理的、生理的個体は、ペルソナという関係が成り立っている主体、もしくは基体である。多少乱暴な比喩だが、生物学で言う「宿主」的なものに当たる。この意味で、ペルソナは、本質的に社会的である。即ち、二つ以上の「個体としてのペルソナ」が、結合して、行動のための一つの「共同主体としてのペルソナ」を形成する。勿論この結合のあり方、度合は、様々で有り得る。
所で、既に述べたように、「内在」という概念は、単に空間的な内外を言うのではない。空間とは、併存iuxtapositioを本質とする物質の属性である。従って、物質でないものに就いては、空間的な内外を言うことは本来無意味である。それ故、若し「内在」と言う言葉に、何等かの意味をもたせようとすれば、「本性に従って」secundum naturam、或は「本性を越えて」praeter naturamと言う区別を導入しなければならないだろう。この様に理解すれば、たとえ物理、生理的に或「個体としてのペルソナ」に現在しなくとも、そのペルソナの本性を構成する限りに於て、つまり、そのペルソナの本性に従う限りに於て、或一つの別の「個体としてのペルソナ・自我」は、この前者のペルソナに内在すると言うことが出来る。例えば、互いに本当に愛し合っている二人は、どんなに遠く離れていても、一つのペルソナを構成すると言える。しかしながら、人間ペルソナの場合、身体は、ペルソナの本質構成要素であるから、この身体を媒介にして何等かの仕方での物理的、生理的現在が求められる。即ち、上述の「共同主体としてのペルソナ」が、現実の人間次元で行動するには、それを構成する「個体としてのペルソナ」たちも何らかの仕方で、現実の次元で現存し合わねばならない。一方が、他方の想像力(空想の愛人)、もしくは記憶力(追憶の死者)によってのみ「現在」するのでは十分ではない。物理的に今、ここに現存するか、或は例えば、物理的手段(電気、音響)を媒介に現存する必要がある。
上に述べたことから、イエス・キリストが、人間「個体ペルソナ」として、他の人間の場合と同様に、我々の一人一人と共に「共同主体としてのペルソナ」を構成し、こうして我々の内在原理(=いのち)であり得ることは、明かである。問題は、二千年前に死去したこの「人間ペルソナ」が、どの様にして我々一人一人に現実の次元で現存し得るのか、である。ここで、いわゆる神の「遍在」を直接に持ち出すのでは、答えとはならない。それは、「受肉の玄義」を飛び越えることになろう。所で、キリストが、若し他の歴史的人物と同様に単なる過去の人に過ぎないのであれば、上述の人間次元での「共同主体としてのペルソナ」は、ある人の記憶にのみ依存する思考上の存在に過ぎなくなるであろう。しかしながら、我々は、信仰に依って、イエス・キリストが復活した事実を知っている。我々の理解では、復活とは、神の直接の働きによって、ある人が、その全存在を挙げて(ペルソナ全体として)神(秘)の「次元」へ移行されることである。復活によて、この人は、(人間ペルソナであるから)時空性を保有したまま、時間と空間との制約を克服し、これらを超越して今、ここに現存している(どの様にしてかは、我々には分からない)ことを意味する。こうして、逆説的な表現ではあるが、復活した人は、人間でありながら時間と空間とを越えて今、ここに現存する、と言えるのである。復活のキリストも(と言うより全ての人は、キリストのこの復活に参与する)、時空に制約されることなく、それを越えて、今、ここに現存する(存在は、本来時空に制約されないものであるが、ある種類の存在者は、物質をその本質構成要素としているので、事実上時間と空間の条件の下にのみ実在するのである)。復活のキリストの現存は、認識論的には、信仰に依存するが、存在論的には、信仰に先行する。
要するに、十字架上で殺され、「三日目に」復活したナザレトのイエスその人が、今、ここに居て、私の生命原理を構成しているのである。
2009年8月17日月曜日
母性について
マリアが神の母であるということに関して、カトリックの信仰理解としては、ほぼ一致した見解がある。問題は、マリアは、我々人間に対しても実際の母と言えるのか、我々に対しても母性を持っているか、いるとすればどの様な根拠でそうなのか、と言うことである。即ち、マリアと我々との間の関係を基礎付ける土台(行為)は何か。マリアが我々一人一人を生理・物理的に生んだのでないことは自明である。従って所謂生理学的な実母・実子関係がないのは明かである。では、マリアが我々の母であると言うのは、単に敬虔な比喩的言い回しに過ぎないのであろうか。主観的な信仰の世界でだけ通用する言い方なのであろうか。
我々の主張は、我々人間に対するマリアの母性は、単なる敬虔な比喩や、信じている間だけ成り立つ思想ではなく、仮令その事実は、信仰を媒介としてのみ知り得るとしても、一つの客観的現実の事実である、との主張である。それでは、この主張の根拠は、何であろうか。
先に母性を「ペルソナに人間性を伝達する」ことに成り立つ関係として捉えた。しかし、これは人間の場合にしか当てはまらない狭い規定である。犬や猫などにも「母性」はある意味で認められる。それ故、これらをも含めて広く生物一般に言えるためには、もっと広く、「生命を伝達する」行為に成り立つ関係と規定しなければならない。こうしてある個体に生命を伝達する女性生物が母である、と広く考えて置く。
一般に、多義的な語の場合、様々なものに述語出来るが、大きく分けて、固有の意味で言われる場合と、比喩的な意味で言われる場合とに区別できる。前者は、思考する者の思考作用に依存しないでもこの語の本質的要因が、述語されるものの内に実在している場合であり、後者は、この作用に依存して、つまりこの作用が働いている間だけ成立する場合、即ち、本質的要因は述語されるものの内に実際にはないが、思考する者から恰もあるように「見なされる」場合である。これを「母」の場合に当てはめると、我々の思考作用に先立って或主体の内に母性の本質的要因が実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」と呼ばれ得る。では、この本質的要因とは、何か。先に見たように、母とは、生命を伝達する女性を言う。それ故、「いのちを伝える」が、母性を構成する本質的要因である。従ってこの「命を伝える」という事実が、我々の思考作用に依存しないで、或主体に実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」であると言うことが出来る。逆に我々の思考作用に依存して、つまり我々がそう見なすからと言う理由だけで、「命を伝える」と言うことが考えられる場合は、この主体は、比喩的な意味でのみ「母」であると言われる。
さて、周知の様に「命」と言う概念も、非常に多義的(正確には類比的)である。あるものは、固有の意味で、あるものは比喩の意味で用いられる。もちろんここでは、固有の意味での「母」が問題であるから、「命」が比喩的な意味で使われる場合は、予め除外する。しかし、固有の意味であっても、伝達される命の種類は、唯一ではなく、多様であるから、伝えられるいのちの種類に依って固有の母性も多様であり得る。
所で、固有の意味で生命とは、あるものの全体的統一と活動を支えている内在的原理であると言える。個体を成立させ、活動させている内在的原理である。内在とは、空間の次元では、ある一定の範囲の中にあることを言うが、空間の次元を越えるものに就いては、本来、内外と言うことは成り立たない。我々自身が、空間に制約されているから、これを越えるものに就いては、固有の意味で言表出来ないわけである。従って、間接的に、不完全にこれを言い表すことになる。こうして、内在とは、あるものの本性に従って、若しくは本性に矛盾しないで、そのものの構成にかかわることであり、外在とは、そのものに取って、異質であること、「他者」であることを言う、と決めておかねばならない。例えば、自動車に活動をもたらすエンジンは、空間的には車体の内部にあるが、無機物の人為的な集約である「自動車」の、本来静止する「本性」にとって異質であり、ある意味で本性を強制するものであるから内在とは、言わない。従って、エンジンは、比喩的な意味ではいのちと言われるが、固有の意味では「命」、つまり内在原理ではない。
さて、人間は、複合的な存在であるから、内在的原理としての命にも多様な種類がある。生物的生命、動物的生命、精神的生命、霊的生命などなど、そして最終的には、神的生命がある。今我々皆が現に体験している内在的原理は、恐らく精神的生命までであろう。それらを我々は、多少とも実感している。実感はしないがある種の論証に依って我々の内にはもう一つの生命があることを信じて(知って)いる。それは、所謂「霊的生命」、「超自然の生命」と呼ばれているものである。この生命は実感はしないが、信仰に依ってその実在が確かめられているから、単に比喩の意味ではなく、固有の意味で命である。ちなみに、信仰は、実在に就いての認識を媒介する原理であって、主観的認識を発生させる主観的作用原理ではない。
我々は、この神的生命・超自然的生命がイエス・キリスト自身であることを信仰に依って知っている。史的次元では、イエス・キリストは、単なる個体的人物に過ぎないが、救済史的次元では、彼は、その懐妊から栄光の昇天に至る全生涯に依って人間の内的生命となったと我々は、信仰によって、理解する。
我々の主張は、我々人間に対するマリアの母性は、単なる敬虔な比喩や、信じている間だけ成り立つ思想ではなく、仮令その事実は、信仰を媒介としてのみ知り得るとしても、一つの客観的現実の事実である、との主張である。それでは、この主張の根拠は、何であろうか。
先に母性を「ペルソナに人間性を伝達する」ことに成り立つ関係として捉えた。しかし、これは人間の場合にしか当てはまらない狭い規定である。犬や猫などにも「母性」はある意味で認められる。それ故、これらをも含めて広く生物一般に言えるためには、もっと広く、「生命を伝達する」行為に成り立つ関係と規定しなければならない。こうしてある個体に生命を伝達する女性生物が母である、と広く考えて置く。
一般に、多義的な語の場合、様々なものに述語出来るが、大きく分けて、固有の意味で言われる場合と、比喩的な意味で言われる場合とに区別できる。前者は、思考する者の思考作用に依存しないでもこの語の本質的要因が、述語されるものの内に実在している場合であり、後者は、この作用に依存して、つまりこの作用が働いている間だけ成立する場合、即ち、本質的要因は述語されるものの内に実際にはないが、思考する者から恰もあるように「見なされる」場合である。これを「母」の場合に当てはめると、我々の思考作用に先立って或主体の内に母性の本質的要因が実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」と呼ばれ得る。では、この本質的要因とは、何か。先に見たように、母とは、生命を伝達する女性を言う。それ故、「いのちを伝える」が、母性を構成する本質的要因である。従ってこの「命を伝える」という事実が、我々の思考作用に依存しないで、或主体に実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」であると言うことが出来る。逆に我々の思考作用に依存して、つまり我々がそう見なすからと言う理由だけで、「命を伝える」と言うことが考えられる場合は、この主体は、比喩的な意味でのみ「母」であると言われる。
さて、周知の様に「命」と言う概念も、非常に多義的(正確には類比的)である。あるものは、固有の意味で、あるものは比喩の意味で用いられる。もちろんここでは、固有の意味での「母」が問題であるから、「命」が比喩的な意味で使われる場合は、予め除外する。しかし、固有の意味であっても、伝達される命の種類は、唯一ではなく、多様であるから、伝えられるいのちの種類に依って固有の母性も多様であり得る。
所で、固有の意味で生命とは、あるものの全体的統一と活動を支えている内在的原理であると言える。個体を成立させ、活動させている内在的原理である。内在とは、空間の次元では、ある一定の範囲の中にあることを言うが、空間の次元を越えるものに就いては、本来、内外と言うことは成り立たない。我々自身が、空間に制約されているから、これを越えるものに就いては、固有の意味で言表出来ないわけである。従って、間接的に、不完全にこれを言い表すことになる。こうして、内在とは、あるものの本性に従って、若しくは本性に矛盾しないで、そのものの構成にかかわることであり、外在とは、そのものに取って、異質であること、「他者」であることを言う、と決めておかねばならない。例えば、自動車に活動をもたらすエンジンは、空間的には車体の内部にあるが、無機物の人為的な集約である「自動車」の、本来静止する「本性」にとって異質であり、ある意味で本性を強制するものであるから内在とは、言わない。従って、エンジンは、比喩的な意味ではいのちと言われるが、固有の意味では「命」、つまり内在原理ではない。
さて、人間は、複合的な存在であるから、内在的原理としての命にも多様な種類がある。生物的生命、動物的生命、精神的生命、霊的生命などなど、そして最終的には、神的生命がある。今我々皆が現に体験している内在的原理は、恐らく精神的生命までであろう。それらを我々は、多少とも実感している。実感はしないがある種の論証に依って我々の内にはもう一つの生命があることを信じて(知って)いる。それは、所謂「霊的生命」、「超自然の生命」と呼ばれているものである。この生命は実感はしないが、信仰に依ってその実在が確かめられているから、単に比喩の意味ではなく、固有の意味で命である。ちなみに、信仰は、実在に就いての認識を媒介する原理であって、主観的認識を発生させる主観的作用原理ではない。
我々は、この神的生命・超自然的生命がイエス・キリスト自身であることを信仰に依って知っている。史的次元では、イエス・キリストは、単なる個体的人物に過ぎないが、救済史的次元では、彼は、その懐妊から栄光の昇天に至る全生涯に依って人間の内的生命となったと我々は、信仰によって、理解する。
2009年8月14日金曜日
マリア被昇天祭
マリアの被昇天の祭日をできるだけ納得して祝うには、信仰と信心との区別を考えてみる必要がある。信仰は、「神の子イエス・キリストに帰依し奉る」と言ういわば神から授けられた心の態度で、自由に左右することはできない。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」(『歎異抄』2:1)との心情に通じるもので、神からのものであるかどうかは、別として、他人が容喙できない絶対的なものが信仰である。
これに対して信心は、信仰を深めていくための様々な方便である。多くの場合、伝統に深く根ざしている。また、単に理知の問題だけではなく、むしろ感情や嗜好に訴えるところが多い。信心は、信仰のように絶対的なものではないから、信仰に正しく益するかどうかを基準に客観的に判断する必要がある。この場合信仰に益するかどうかは、本人の事情に大きく関係するから、軽々に他の人の信心を批判すべきではない。逆に、特定の信心を、たとえ伝統に根ざしているからと言って、他の人に強制してはならない。
さて、聖母の被昇天祭は、1950年に教義として決められてからは、単なる信心ではなくなった。信仰内容の一部となったわけである。しかし、この祭日が永い伝統に育まれた信心であったこともまた事実で、いわば信心としての側面を残していることも否めない。つまり、祭日としてどのように祝うかは、信仰の問題ではなく、信心の問題である。実行的には、この祭日をどのようにふさわしく祝うかは、今後の吾々の課題である。豊かな伝統を勘案しながらすばらしい信心を開発したい。幸い、この時期はお盆にあたる。お盆は、一般には、仏教の行事だと思われているが、本来仏教の行事ではない。釈尊の教えが東漸する間に、土着の信仰、特に先祖崇拝の信情と習合して、わが国独自の信心物語が人々の心を魅了して、仏教の大切な年間行事として定着した。詳細は省くが、要するに家のご先祖様、特に直近の亡くなった親族の霊をお迎えして数日間留まっていただき、その間に御もてなしをして孝養を尽くす。そして最後の日に盛大に幽界へとお見送りし、来年の再会を約束する。ご先祖の霊との親しい交わりによって、現世に生きる我々のペルソナ性が固められ、高められる。客観的な事実ではないかもしれないが、主観的な豊かさもらうことは確かである。
聖母被昇天の信心物語は、来世観が異なるため、表現の仕方は異なるが、吾々の霊的母性である聖母に対する、そして、聖母を介して、吾々の先祖や親族に対する心情は、主観的には、盆の心と通底しているのではなかろうか。今後、お盆の行事と被昇天の行事とを習合して行くことが望まれる。
これに対して信心は、信仰を深めていくための様々な方便である。多くの場合、伝統に深く根ざしている。また、単に理知の問題だけではなく、むしろ感情や嗜好に訴えるところが多い。信心は、信仰のように絶対的なものではないから、信仰に正しく益するかどうかを基準に客観的に判断する必要がある。この場合信仰に益するかどうかは、本人の事情に大きく関係するから、軽々に他の人の信心を批判すべきではない。逆に、特定の信心を、たとえ伝統に根ざしているからと言って、他の人に強制してはならない。
さて、聖母の被昇天祭は、1950年に教義として決められてからは、単なる信心ではなくなった。信仰内容の一部となったわけである。しかし、この祭日が永い伝統に育まれた信心であったこともまた事実で、いわば信心としての側面を残していることも否めない。つまり、祭日としてどのように祝うかは、信仰の問題ではなく、信心の問題である。実行的には、この祭日をどのようにふさわしく祝うかは、今後の吾々の課題である。豊かな伝統を勘案しながらすばらしい信心を開発したい。幸い、この時期はお盆にあたる。お盆は、一般には、仏教の行事だと思われているが、本来仏教の行事ではない。釈尊の教えが東漸する間に、土着の信仰、特に先祖崇拝の信情と習合して、わが国独自の信心物語が人々の心を魅了して、仏教の大切な年間行事として定着した。詳細は省くが、要するに家のご先祖様、特に直近の亡くなった親族の霊をお迎えして数日間留まっていただき、その間に御もてなしをして孝養を尽くす。そして最後の日に盛大に幽界へとお見送りし、来年の再会を約束する。ご先祖の霊との親しい交わりによって、現世に生きる我々のペルソナ性が固められ、高められる。客観的な事実ではないかもしれないが、主観的な豊かさもらうことは確かである。
聖母被昇天の信心物語は、来世観が異なるため、表現の仕方は異なるが、吾々の霊的母性である聖母に対する、そして、聖母を介して、吾々の先祖や親族に対する心情は、主観的には、盆の心と通底しているのではなかろうか。今後、お盆の行事と被昇天の行事とを習合して行くことが望まれる。
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