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2010年2月4日木曜日

原罪について

5世紀以降、「原罪」は、信ずべき「教義」とされ、人生観、社会観に甚大な影響を及ぼしてきました。しかし、大きな疑問が残ります。そもそも原罪(の教義)とは、何でしょうか。何世紀にもわたって、我々は、実態のない「教義(ドグマ)」に取り憑かれていたのではないでしょうか。この疑問に答えるには、先ず、「教義」とは、一体何か。次に、教義とされる「原罪」とは、何を指すのかを検討する必要があると思います。
教義については、一応「どこでも、いつでも、だれによっても信じられてきたこと」というレランのウィンケンティウス(450頃歿)の定義?を拠り所に考えたいと思います。通常、「創世記」3章が原罪教義の根拠とされていますが、肝心のイスラエルの民も後のユダヤ教徒もこの箇所を原罪の啓示だとは受け取っていないようです。さらにローマ書5章(特に12節)も原罪の根拠とされていますが、原初教会や、東方教会は、そこから、我々が考えるような原罪観を読み取ってはいません。結局、「原罪論」は、西方教会で、アウグスティヌスらの権威によって、教義のように考えられえ来ました。しかし、ウィンケンティウス的な意味では、原罪は、「教義」とは言えないと思います。
近世的な意味で、原罪が「教義決定」されたのは、16世紀のトレント公会議ですが、その内容については、今一明確ではありません。ただはっきりしているのは、「恩寵(成聖の聖寵)が欠如している人間本性(の状態)」が原罪と言われています。その他の点については明確な決定は見られないようです。つまり、それらは、「教義」ではなく、教義に関する神学的解説と言うべきでしょう。
原罪論にとって最大の焦点は、「原罪の遺伝」と言うことでしょう。何が、どのようにして遺伝するとされるのでしょうか。先ず、原罪は、罪でしょうか。罪とは何か、と言うことは横において、「恩寵が欠如している状態」を「罪」と言うのは、あくまでも類比的であって、固有の意味で罪とはいえません。罪とは本来、意志行為における歪・瑕疵であってその結果としての状態は、罪とは言えません。ただ罪の結果だから類比的に罪といわれるのです。換言すれば、ペルソナの行為のうちにのみ罪があります。(ペルソナについては割愛)従って、人祖(がいたとして)の罪そのものが遺伝することはありえないのです。もちろん、罪の結果として恩寵が欠如した人間本性が遺伝すると言うことは、考えられますが、遺伝されたものは、罪ではないし、従って、そのために罰を受けると言うことはありえないわけです。要するに、「人祖の罪」を原罪と規定すれば、それが「子孫」に遺伝することは考えられませんし、「人祖の罪の結果」を原罪と規定すれば、遺伝する事はあり得ますが、この罪は類比的であり、固有の罪とは言えず、そのために罰せられるのは不合理です。
以上は、「原罪」の考察であって、この世界に罪も悪も不合理も何もないと言う意味ではありません。恩寵も救済も不要だと言うことでもありません。ただそれらは、原罪の教義からは直接に切り離して、別途に考察しなければならないと考えます。

2010年1月31日日曜日

全世界に行って

「全世界に行って福音を宣べなさい。」イエスが実際に言葉に出して言われたのか定かではありませんが、そのように望んでおられたであろうことは、ほぼ確かだと思います。普通、福音を宣べると言うと、信仰宣言のようなものを人々に告げ知らせると言うイメージがありますが、選挙カーや街宣車が何回か廻っただけで宣布は全うされた、と言うようなものではないと思います。福音はどんなに貴重であっても、宝石のような『もの』ではありませんから、受け取る側の気持ちのようなものも十分考慮しなければなりません。脅しや力尽くで押し付けても本当に福音を宣べた事にはなりません。キリスト教の歴史を振り返ってみますと、部族や地域全体が族長や有力者の意向で「集団改宗」が行われたことがありました。悪いことではないでしょうが、本当に福音が伝えられたのか聊か心配です。キリスト教圏とされるヨーロッパの現状を見ますと、やはり本当に福音は宣べ伝えられたのかと首を傾げざるを得ません。特に広大なイスラーム圏、ヒンズー圏、仏教圏その他の存在を見れば、イエスの遺志は殆ど満たされていないと考えざるを得ません。
では、問題はどこにあったのでしょうか。やはり、キリスト教が、受け入れ側の必要に正しく答えていないからではないかと思います。パウロは、福音の伝達を乳幼児の成長に合わせて行うたとえを述べています。つまり、もたらす側の柔軟さ、配慮を求めています。では、キリスト教は、何時そのようなパウロの態度から離れて行ったのでしょうか。わたしは、キリスト教がローマ帝国の権力に公認され、さらには、この権力と癒着してしまった、いや、権力を自分のものとしてしまったことに原因があると考えています。イエスの福音が、強大で巨大な権力構造に変質してしまったのです。ローマ帝国は滅びても、この権力構造は、生き延び、宗教的世界帝国を目指すようになりました。もちろん長い歴史の間には、良い、悪いは別として様々な変遷があったことは事実でしょう。しかし、イエスの望んだ、仕えるための共同体よりも、支配するための権力機構としてのキリスト宗教が温存されました。つまり、宗教的、とか、超自然的とかの修飾語が着いていても結局は「力」の及ぶ範囲にしか福音が実際に伝わっていないと言う現状に問題があるのではないか。今は、ローマ的権力機構から脱却して神愛による交わりの共同体としてのエクレシアを目指して努力すべきではないでしょうか。

2010年1月28日木曜日

マリア論01

カトリック神学において、聖母マリアに関する神学、つまり、「マリア論」と呼ばれる神学の分野は、それだけで完結した独立の神学ではなく、飽くまでも「キリスト論」の中の一分野として考察されねばならない。それ故、常にキリスト論の「枠内」に留まらねばならないが、それは、マリア論が消極的な学問であると言う意味ではない。いわば、キリスト論を最終目的とした上で、固有の方法論と作業とによって、マリアに関する神秘の意志を積極的に深く理解し、できる限りこれを実践に活かすように努めるのが吾々のマリア論の主旨である。 それ故、マリア論の出発点は、神秘からの啓示の真理、特にキリストについての啓示の真理であり、また、その到達点も同じく啓示の真理である。マリア論は、決して「新規な」教義を創り出すことを目的とするものではない。しかしながら、教義を創り出すことと、啓示の真理を新しい側面から眺め直すこととは、必ずしも同じ事ではない。この意味で、マリア論が、真理の新しい側面を、それぞれの時代の人々の理解力に適した形で新たに明らかにするのは、当然の作業である。時に、マリア論が新しい教義を推進しているかのように見えるのは、このためである。

2009年12月28日月曜日

神道とカトリックの対話:むすび

むすび
 吾々の理性は、上述のように、本来、唯一神論的傾向がある。宇宙の根源的な原理が多であるとは、考えられない。従って、唯一でなければならないはずであるが、この場合の「一」は、果たして、宇宙を超越する根源的原理の述語で有り得るだろうか。上述のように、同一次元において「多」と対立する限りでの「一」、「多」の単位としての「一」でないことは、明白である。すべての「数」の源泉ではあっても、それ自体、「数」を無限に越える者である。この意味では、唯一神論は、形而上学的次元においても厳密に言えば、誤りである。結局吾々は、この原理を表わす適切な概念を持ちえないわけである。敢えて表現しようとするならば、「零」、「ゼロ」とするべきであろう。吾々としては、キリスト教神学の神観を唯一神論ではなく、零神論として捉えたいと考えている。
 さて、キリスト教の信仰に深く帰依している一老神学徒として、意を十分に尽くし得ないまま、神道の「神観」について、所見を述べた。吾々は、神道もキリスト教も帰する所、同一であるなどとは考えていない。また、両者は、何時か融合すべきである、或いはそれを目指して努力すべきであるとも信じない。根本的に不完全、相対的である現存在世界にあって、神道もキリスト教も今後とも共生し、現世における人々の幸せのために、共働して行くべきであると信じる。融合しないと言うことは、全く無関係に併存すると言うことを意味しない。健全な本物の対話を通して、互いに理解し合い、それによって自己改革を絶えず継続することで、それぞれの神与の現世的使命を相応しく果たすことができるであろう。そのためには、神学次元での対話が、欠くことのできない要件となるはずである。

2009年12月1日火曜日

神道とカトリックの対話11

上田賢治先生は、第2の問題点として次のように述べておられる。
「第二にI氏は、存在世界の本質を問うて神に至る時、それを「多」とすることは理性の立場から見て不可能であり、現実の在りようは、判断の停止か、究極的なる「一」を求めるしかない筈だと主張される。確かに筆者は、相対性の自覚が絶対観念の存在を前提しなければならないことを述べた。我が国の神話編成時代には、既に儒・道・仏の思想さへ伝えられていたと考えられるからであり、そして更には、もし絶対の観念を持たなければ、相対的な自己を絶対化して、相対の調和を発想することさえ不可能であったに違いないだろうからである。しかし筆者が神道哲学の拠り所とする神話には、一神としての絶対は語られていない。神話は、所与或は既存としての混沌から多神の出現を語り、混沌そのものを神化或は絶対化していないのである。神世七代の最後に出現された伊邪那岐・伊邪那美の両神は、国生みの始めに失敗し、事後指針を天神に問うたところ、天神は卜占に拠ることを指示しておられる。これは延喜式祝詞の中、最も重要な祝詞に使われる表現「天津神諸々の命もちて」から推すと、最貴とされる天神も一柱ではなく、多であるからこそその意志が御卜によって示されたのだと考えられる。究極的一は、一神ではなく多なのである。
 このような発想の成立しうる根拠が一体どこに由来するのか。筆者は現在のところ、それはやはり日本人の存在理解の在り方そのものに発しているとしか表現の仕様がないと考えている。事実日本語、本来の「やまとことば」には、存在を表す言葉として「ある」一語しかなく、西洋語の如く、例えば英語のエギィジステンスとビーイングの区別、或はドイツ語のダーザインとザインのような意味分別は発想されていない。「ある」ということは現存在的に在ることであって、それを超越するものなど発想されてはいないのである。多がある以上、理性的・論理的には究極の一が求められねばならないとするのは、やはり一神教を前提とする論理であって、神道のそれではない。或はユークリット幾何学と非ユークリット幾何学との相違であるとでも言うべきか。」
 ここでも、吾々が述べたのは、「それ(神?)を「多」とすることは理性の立場から見て不可能」である、と言うことではなかった。また、相対を理解するには絶対の「観念」が必要であると主張したのでもなかった。確かに「筆者が神道哲学の拠り所とする神話」の神々は、すべて相対的であって「一神としての絶対は語られていない」ことは、言うまでもない。天照大御神も、天御中主神すらも所謂ゴッド的絶対超越神としては語られてはいない。吾々が問題としたのは、個別、固有の神格を持っておられる神々やゴッドが、現実にどの様に拝まれているかということではなく、神学が「学」である限り、「存在世界の本質」を不問に付して置くままでは済まないのではないかと言うことであった。これは確かに存在論の問題であるが、何らかの存在論を必須の手段として用いないでは、神学は、学、つまり原因に基づく確実な認識の体系としては成り立たず、精々神に関する思弁的、思索的エッセーに留まってしまうのではないか、と吾々は考えている。ところで、学の視点から言えば、存在世界の究極の根元は、言葉に出して言うなら、「一」であり、少なくとも「多」ではあり得ないだろう、と吾々は、主張した。これは、上田賢治先生が言われるように「一神教を前提とする論理」ではなく、既に述べたように、否矛盾律を根本原理とする人間知性の基本的構造に基づくことである。但し、この「一」を直ちに、「ヤハウェ」、「ゴッド」と同一化した所に、ユダヤ教やキリスト教の齟齬があった。そして、この齟齬は、ユダヤ・キリスト教が育った唯一神論的思考様式に由来するものと思われる。私見では、究極の根元を「一」と表した瞬間に、それはもう正確でなくなっている。何故なら、吾々の言葉では、「一」は、「二、三、・・」に対する「一」であって、相対化されているからである。それ故、「言挙げ」しないことが最も賢明な態度であるかもしれない。この点で、神道神学の方が、キリスト教神学よりも「方法論的に」優れていると言えるのかも知れない。
 しかしながら、神学は、学である限り、不完全ではあるが(それを十分意識した上で)、言葉を用いないわけに行かない。この場合、存在世界の究極の根元は、極端に言えば、遠藤周作が言うように、「玉ねぎ」でも何でも良いわけであるが、「無」とか「空」とか「零」と言うのが最も穏当であろう。
 とにかく、形而上学的・論理的次元では、上述の様に、所謂「絶対者」が二つ以上あるとは考え難い。しかし、神道神学は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。そもそも「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。また、絶対者、完全無欠者、超越者などを表わしているのでもない。神道の神は、形而上学的、論理学的概念と言うよりはむしろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、吾々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場においてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような所謂 adoratio つまり唯一絶対の Theos に対する全存在を挙げての排他的帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。多神観は、形而上学の次元で絶対存在者が幾つもあると言うことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本旨ではなかろうか。宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることは既に述べた。実際に、一般のキリスト教徒が「ゴッド」を礼拝している場合、その「ゴッド」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものを直接の認識対象とすることが可能であろうか。結局、実際には、複数の相対的概念を結合して間接的に「神」を考え、それを「ゴッド」と言表しているのである。形而上学、哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教においても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
 要するに、多神観は、神学の主要な領域である抽象的、形式的、論理的、思弁的な形而上学の次元では、究極の原理として厳密な意味では成立し難いが、宗教次元ではむしろ人間の自然に適した妥当な態度である。畢竟、人間が救われるのは、「理性」や「哲学」によってではなく、ペルソナとしての神、人間を無条件に愛する神によるのである。この神の「客観的属性」がどのようなものとして概念化されるか、「私」の救いに取っては、それほど重要事ではない。つまり、冷厳な論理的首尾一貫性、整合性を認識するのが救いではなく、人間の現状を暖かく癒し、高めてくれる神との合一が救いなのである。
 とは言っても、人間は、最終的には理性に立たざるを得ない。判断中止は常に可能であるが、思考を続ける限り、理性の立場を自ら堀崩すことはできない。それ故、理性の範囲内では、万物の根源原因は、もしあるとすれば、それは、一であって、多であることはできない。少なくとも人間の理性はその様に構造されている。従って、吾々は、「多神観」もしくは「多神論」を万物の最終的説明根拠に置くことはできない。宗教実践の次元で、多神観を容認するのが本質である神道も、神学の次元、形而上学の次元に踏み込む限り、この問題は、避けて通れないだろう。或いは、キリスト教などのように、事実上の多神観を唯一神論の「神統譜」の中に統合するか、或いは、仏教などのように、「一即多」の汎神論的理論を展開するか、或いは、思考中断を敢えて選択するか、のいずれかでは無かろうか。ここに神道神学が、学として解明を求められている問題点の一つがあると思われる。

2009年11月2日月曜日

神道とカトリックの対話10

上田賢治先生は、Iに対して以下のようなご批判を述べられた。
「(神道の多元論的真理観に対する)I氏の批判は、凡そ二点に集約されると思われる。
 その第一は、・・信仰者の信仰実修、・・神道者の神理解に関する問題である。氏によると、宗教はすべて心理現象的には、多神論的であるのが当然で、イスラエルにおけるヤーヴェや西洋キリスト教におけるゴッドが、唯一絶対の思考枠を示すものとして理解されたことに、むしろ誤りがあったとされる。敷衍すれば、ヤーヴェやゴッドの概念は信仰対象の当体或は実体を示すのではないと言うことであろうか。そこで同氏は刃を返し、神道の神社に祀られた神々を信ずる人々の場合も、その心理的な態度において、キリスト者の神、仏者の仏に向けられた心情と何の変わるところがあろうかと言われる。つまり、民衆のレベルにおいて、神社の神はすべてゴッドではないのかと主張されているのである。その論の補強を目指してか、氏はまた神道の神と雖も、信仰の実際面では現実世界を超越した神性を備えたものとして、理解されているのではないかと問うておられる。
 確かに具体の姿を持たぬ普遍はないという意味では、キリスト教にもイギリスのキリスト教があり、ドイツにはドイツのキリスト教があることを、否定することは出来ないように思われる。しかし神道の場合には、果たしてどうであろうか。神社における祭りは、各御祭神の鎮祭・勧請の経由、御神格の相違によって、同じ祈年・感謝・守護の祈りであるとしても、原則的に、祝詞に表明された神名の役割と祈る側との姿勢には、形式的同一・類似のあることはともかく、内容的な一致を求めることは出来ないと言ってよいだろう。一般氏子崇敬者・・の場合においてさえ、その祭りが特定神または特定の神々に向けられたものであり、かつ特定の地域を対象とする祭であることの意識が、失われていないのが一般であるように思われる。それは参拝者が、御祭神の名を知らぬ場合においてさえ同様である、としてよいだろう。かつて折口信夫が、神道も実際には一神教である、と述べたことがあり、その主意はI氏の指摘しておられる論点と非常に近い。しかし筆者は反問したい。彼らは何故隣村の鎮守・産土を祀らず、自己の村に固執するのかと。そして我々は明治末の強権による神社統合が失敗した事実をも忘れてはならないであろう。やはり神道の祈りは、キリスト者が世界中の諸教会でそれぞれの様式に従って祈っているのとは、根本的に異なったものだと思われる。
 I氏はまた、神道の神と雖も、信仰の実際面において、現実世界を超越した神性を備えたものと理解されているのではないか、と問うておられる。しかし筆者は、これについても肯定的には応答しえない。もしそれを認めれば、日本人がその歴史を通じて、自己の居住地に、鎮守・産土・乃至は氏神社を持ちながら、なぜ様々な霊威を次々に勧請し、先在の神社に対する祭祀を廃することもなく、神社別の祭りに関わって来たかを説明することが不可能となるからである。神道の神々は、現実の具体と切り離された一般的超越性を保持してはおられない。その意味で、ゴッドとは言えない御存在なのである。例えば、極めて現実的な御利益を求めてのご祈祷祈願の場合でも、日本人は一社の神威がそれを満たし得ないと知ると、直ちに他社、特にその祈願内容に御利益ありと伝えられる神威を求めて、遠近を問わず、参拝祈祷寄進の行動を示すに違いない。そこにどうして、キリスト教のゴッドをイメージすることなど出来るであろうか。共通性を見出そうとすることこそ、むしろ先入主観による誤りであると言ってよいのであろう。」
 しかしながら、先ず、吾々が言いたかったのは、「ヤーヴェやゴッドの概念は信仰対象の当体或は実体を示すのではない」と言うことではなく、ゴッドと言う概念も、概念としては、相対的であり、絶対者ではないにも関わらず、例えばキリスト教において、信仰実修の次元でも絶対化されているところに問題があるということであった。従って、神学的には、唯一神論的に説明はされているが、実践上は、キリスト教徒の信仰は、例えば、聖人崇拝などに現れるように、相対的であり、多神論的である。それ故、この面を取り上げれば、キリスト教徒の場合も、その心理的態度において、神道の信徒の場合とそれほど変わらないのではないか、と述べたのであった。「神社の神はすべてゴッド」の「ゴッド」も上述のように相対化された限りにおける「ゴッド」の意味であって、「神道の神と雖も、・・現実世界を超越した神性を備えたものとして、理解されているのではないか」と言うことも、決して、神道の神々が、現実には、唯一神論的ゴッドと同じように、何時でも、何処でも普遍的に崇拝されていると主張したわけではない。所謂「帰依」の心は、その時点に限れば、心理的に絶対的なものに向けられるので、この点で、神道者もキリスト者も同じではないかとの意味であった。それ故、神道の神々が、一神教化されているという意味では決してなかった。「祭りが特定神または特定の神々に向けられたものであり、かつ特定の地域を対象とする祭であることの意識が、失われていないのが一般」であり、「日本人がその歴史を通じて、自己の居住地に、鎮守・産土・乃至は氏神社を持ちながら、なぜ様々な霊威を次々に勧請し、先在の神社に対する祭祀を廃することもなく、神社別の祭りに関わって来た」し、「神道の神々は、現実の具体と切り離された一般的超越性を保持してはおられない」ことも正にその通りであって、「筆者」ご自身の「反問」に自ら答えられた答えに、吾々は、全く同意見であって、「民衆のレベル」で、神道の神々と所謂ゴッドとが共通であるなどとは考えていない。このことは、次のご批判に対する吾々の弁明で一層明らかになると思う。

2009年11月1日日曜日

神道とカトリックの対話9

多神観
 以上のような性格を備えた神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、むしろ積極的に肯定している。この点に関して、上田賢治先生は、南山大学南山宗教文化研究所でのシンポジウムで次のように主張しておられる。「筆者(上田氏)は神道神学に関する従前の業績において、神道信仰の特色は・・単純多神、つまり多元論的真理観を本旨とするところにあると主張してきた。」確かに、歴史的にも、神道の信仰が多神論的であることは、議論の余地はない。本来の神道の「カミ」は、飽くまでも本居宣長の理解に近い「カミ」であって、キリスト教的大文字の Theos ではない。従って、本質的に相対的で、多神論的である。 この様な神観の妥当性は、宗教史的な観点からも、裏付けられよう。私見では、宗教は、本来多神論的であると思われる。特に古代の宗教は、実践的であり、多神論的である。要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神論的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうと主張されている。
 以上を受けて、キリスト教神学の観点から多神観の意義について若干の考察を加えよう。従来の西欧流キリスト教思想では、多神観とくに多神教は、宗教の堕落した形態であると考えられていた。健全な理性なら当然唯一神は、一つでなければならない筈である。絶対者、完全無欠者が二つ以上ある訳がないからである。これが、彼らの理論であった。
 しかしながら、吾々は、この様な言明を即時に受け入れ、肯定する前に、上述の宗教上の次元と形而上学的、論理学的な次元とを区別して考える必要があると考える。
宗教上の次元
 信仰実践の次元においては、既に延べたように、人間の営みは、本来多神論的、或いは、吾々の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教においても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神論的、或いは、多中心的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、これらの多神論的表現には唯一神論的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神論的傾向」がしからしめているのである。
 「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神を表すものではなかったかと思われる。何れにせよ、自分自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、西欧のキリスト者にはみられないことだろうか。そうではあるまい。吾々は、この説を裏付ける証言、特に目撃証言を数多く持っている。ただ、このような「多神論的な信仰実践」が、「唯一神論的思考様式」の枠組の中で捉えられるか、「多神論的思考様式」の枠組の中で表現されるかは、また別の問題である。
 以上のような事実は、吾々の実際生活における多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、むしろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元においても、宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神論的」であっても、信じる人々は、即時的、つまり祈願している時点で、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などを捧げている。形而上学的に言えば絶対者ではない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論があり得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(唯一神教の場合でさえ)あり得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。