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2009年11月2日月曜日

神道とカトリックの対話10

上田賢治先生は、Iに対して以下のようなご批判を述べられた。
「(神道の多元論的真理観に対する)I氏の批判は、凡そ二点に集約されると思われる。
 その第一は、・・信仰者の信仰実修、・・神道者の神理解に関する問題である。氏によると、宗教はすべて心理現象的には、多神論的であるのが当然で、イスラエルにおけるヤーヴェや西洋キリスト教におけるゴッドが、唯一絶対の思考枠を示すものとして理解されたことに、むしろ誤りがあったとされる。敷衍すれば、ヤーヴェやゴッドの概念は信仰対象の当体或は実体を示すのではないと言うことであろうか。そこで同氏は刃を返し、神道の神社に祀られた神々を信ずる人々の場合も、その心理的な態度において、キリスト者の神、仏者の仏に向けられた心情と何の変わるところがあろうかと言われる。つまり、民衆のレベルにおいて、神社の神はすべてゴッドではないのかと主張されているのである。その論の補強を目指してか、氏はまた神道の神と雖も、信仰の実際面では現実世界を超越した神性を備えたものとして、理解されているのではないかと問うておられる。
 確かに具体の姿を持たぬ普遍はないという意味では、キリスト教にもイギリスのキリスト教があり、ドイツにはドイツのキリスト教があることを、否定することは出来ないように思われる。しかし神道の場合には、果たしてどうであろうか。神社における祭りは、各御祭神の鎮祭・勧請の経由、御神格の相違によって、同じ祈年・感謝・守護の祈りであるとしても、原則的に、祝詞に表明された神名の役割と祈る側との姿勢には、形式的同一・類似のあることはともかく、内容的な一致を求めることは出来ないと言ってよいだろう。一般氏子崇敬者・・の場合においてさえ、その祭りが特定神または特定の神々に向けられたものであり、かつ特定の地域を対象とする祭であることの意識が、失われていないのが一般であるように思われる。それは参拝者が、御祭神の名を知らぬ場合においてさえ同様である、としてよいだろう。かつて折口信夫が、神道も実際には一神教である、と述べたことがあり、その主意はI氏の指摘しておられる論点と非常に近い。しかし筆者は反問したい。彼らは何故隣村の鎮守・産土を祀らず、自己の村に固執するのかと。そして我々は明治末の強権による神社統合が失敗した事実をも忘れてはならないであろう。やはり神道の祈りは、キリスト者が世界中の諸教会でそれぞれの様式に従って祈っているのとは、根本的に異なったものだと思われる。
 I氏はまた、神道の神と雖も、信仰の実際面において、現実世界を超越した神性を備えたものと理解されているのではないか、と問うておられる。しかし筆者は、これについても肯定的には応答しえない。もしそれを認めれば、日本人がその歴史を通じて、自己の居住地に、鎮守・産土・乃至は氏神社を持ちながら、なぜ様々な霊威を次々に勧請し、先在の神社に対する祭祀を廃することもなく、神社別の祭りに関わって来たかを説明することが不可能となるからである。神道の神々は、現実の具体と切り離された一般的超越性を保持してはおられない。その意味で、ゴッドとは言えない御存在なのである。例えば、極めて現実的な御利益を求めてのご祈祷祈願の場合でも、日本人は一社の神威がそれを満たし得ないと知ると、直ちに他社、特にその祈願内容に御利益ありと伝えられる神威を求めて、遠近を問わず、参拝祈祷寄進の行動を示すに違いない。そこにどうして、キリスト教のゴッドをイメージすることなど出来るであろうか。共通性を見出そうとすることこそ、むしろ先入主観による誤りであると言ってよいのであろう。」
 しかしながら、先ず、吾々が言いたかったのは、「ヤーヴェやゴッドの概念は信仰対象の当体或は実体を示すのではない」と言うことではなく、ゴッドと言う概念も、概念としては、相対的であり、絶対者ではないにも関わらず、例えばキリスト教において、信仰実修の次元でも絶対化されているところに問題があるということであった。従って、神学的には、唯一神論的に説明はされているが、実践上は、キリスト教徒の信仰は、例えば、聖人崇拝などに現れるように、相対的であり、多神論的である。それ故、この面を取り上げれば、キリスト教徒の場合も、その心理的態度において、神道の信徒の場合とそれほど変わらないのではないか、と述べたのであった。「神社の神はすべてゴッド」の「ゴッド」も上述のように相対化された限りにおける「ゴッド」の意味であって、「神道の神と雖も、・・現実世界を超越した神性を備えたものとして、理解されているのではないか」と言うことも、決して、神道の神々が、現実には、唯一神論的ゴッドと同じように、何時でも、何処でも普遍的に崇拝されていると主張したわけではない。所謂「帰依」の心は、その時点に限れば、心理的に絶対的なものに向けられるので、この点で、神道者もキリスト者も同じではないかとの意味であった。それ故、神道の神々が、一神教化されているという意味では決してなかった。「祭りが特定神または特定の神々に向けられたものであり、かつ特定の地域を対象とする祭であることの意識が、失われていないのが一般」であり、「日本人がその歴史を通じて、自己の居住地に、鎮守・産土・乃至は氏神社を持ちながら、なぜ様々な霊威を次々に勧請し、先在の神社に対する祭祀を廃することもなく、神社別の祭りに関わって来た」し、「神道の神々は、現実の具体と切り離された一般的超越性を保持してはおられない」ことも正にその通りであって、「筆者」ご自身の「反問」に自ら答えられた答えに、吾々は、全く同意見であって、「民衆のレベル」で、神道の神々と所謂ゴッドとが共通であるなどとは考えていない。このことは、次のご批判に対する吾々の弁明で一層明らかになると思う。

2009年11月1日日曜日

神道とカトリックの対話9

多神観
 以上のような性格を備えた神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、むしろ積極的に肯定している。この点に関して、上田賢治先生は、南山大学南山宗教文化研究所でのシンポジウムで次のように主張しておられる。「筆者(上田氏)は神道神学に関する従前の業績において、神道信仰の特色は・・単純多神、つまり多元論的真理観を本旨とするところにあると主張してきた。」確かに、歴史的にも、神道の信仰が多神論的であることは、議論の余地はない。本来の神道の「カミ」は、飽くまでも本居宣長の理解に近い「カミ」であって、キリスト教的大文字の Theos ではない。従って、本質的に相対的で、多神論的である。 この様な神観の妥当性は、宗教史的な観点からも、裏付けられよう。私見では、宗教は、本来多神論的であると思われる。特に古代の宗教は、実践的であり、多神論的である。要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神論的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうと主張されている。
 以上を受けて、キリスト教神学の観点から多神観の意義について若干の考察を加えよう。従来の西欧流キリスト教思想では、多神観とくに多神教は、宗教の堕落した形態であると考えられていた。健全な理性なら当然唯一神は、一つでなければならない筈である。絶対者、完全無欠者が二つ以上ある訳がないからである。これが、彼らの理論であった。
 しかしながら、吾々は、この様な言明を即時に受け入れ、肯定する前に、上述の宗教上の次元と形而上学的、論理学的な次元とを区別して考える必要があると考える。
宗教上の次元
 信仰実践の次元においては、既に延べたように、人間の営みは、本来多神論的、或いは、吾々の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教においても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神論的、或いは、多中心的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、これらの多神論的表現には唯一神論的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神論的傾向」がしからしめているのである。
 「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神を表すものではなかったかと思われる。何れにせよ、自分自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、西欧のキリスト者にはみられないことだろうか。そうではあるまい。吾々は、この説を裏付ける証言、特に目撃証言を数多く持っている。ただ、このような「多神論的な信仰実践」が、「唯一神論的思考様式」の枠組の中で捉えられるか、「多神論的思考様式」の枠組の中で表現されるかは、また別の問題である。
 以上のような事実は、吾々の実際生活における多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、むしろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元においても、宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神論的」であっても、信じる人々は、即時的、つまり祈願している時点で、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などを捧げている。形而上学的に言えば絶対者ではない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論があり得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(唯一神教の場合でさえ)あり得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。