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2009年11月1日日曜日

神道とカトリックの対話9

多神観
 以上のような性格を備えた神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、むしろ積極的に肯定している。この点に関して、上田賢治先生は、南山大学南山宗教文化研究所でのシンポジウムで次のように主張しておられる。「筆者(上田氏)は神道神学に関する従前の業績において、神道信仰の特色は・・単純多神、つまり多元論的真理観を本旨とするところにあると主張してきた。」確かに、歴史的にも、神道の信仰が多神論的であることは、議論の余地はない。本来の神道の「カミ」は、飽くまでも本居宣長の理解に近い「カミ」であって、キリスト教的大文字の Theos ではない。従って、本質的に相対的で、多神論的である。 この様な神観の妥当性は、宗教史的な観点からも、裏付けられよう。私見では、宗教は、本来多神論的であると思われる。特に古代の宗教は、実践的であり、多神論的である。要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神論的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうと主張されている。
 以上を受けて、キリスト教神学の観点から多神観の意義について若干の考察を加えよう。従来の西欧流キリスト教思想では、多神観とくに多神教は、宗教の堕落した形態であると考えられていた。健全な理性なら当然唯一神は、一つでなければならない筈である。絶対者、完全無欠者が二つ以上ある訳がないからである。これが、彼らの理論であった。
 しかしながら、吾々は、この様な言明を即時に受け入れ、肯定する前に、上述の宗教上の次元と形而上学的、論理学的な次元とを区別して考える必要があると考える。
宗教上の次元
 信仰実践の次元においては、既に延べたように、人間の営みは、本来多神論的、或いは、吾々の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教においても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神論的、或いは、多中心的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、これらの多神論的表現には唯一神論的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神論的傾向」がしからしめているのである。
 「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神を表すものではなかったかと思われる。何れにせよ、自分自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、西欧のキリスト者にはみられないことだろうか。そうではあるまい。吾々は、この説を裏付ける証言、特に目撃証言を数多く持っている。ただ、このような「多神論的な信仰実践」が、「唯一神論的思考様式」の枠組の中で捉えられるか、「多神論的思考様式」の枠組の中で表現されるかは、また別の問題である。
 以上のような事実は、吾々の実際生活における多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、むしろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元においても、宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神論的」であっても、信じる人々は、即時的、つまり祈願している時点で、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などを捧げている。形而上学的に言えば絶対者ではない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論があり得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(唯一神教の場合でさえ)あり得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。