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2010年1月31日日曜日

全世界に行って

「全世界に行って福音を宣べなさい。」イエスが実際に言葉に出して言われたのか定かではありませんが、そのように望んでおられたであろうことは、ほぼ確かだと思います。普通、福音を宣べると言うと、信仰宣言のようなものを人々に告げ知らせると言うイメージがありますが、選挙カーや街宣車が何回か廻っただけで宣布は全うされた、と言うようなものではないと思います。福音はどんなに貴重であっても、宝石のような『もの』ではありませんから、受け取る側の気持ちのようなものも十分考慮しなければなりません。脅しや力尽くで押し付けても本当に福音を宣べた事にはなりません。キリスト教の歴史を振り返ってみますと、部族や地域全体が族長や有力者の意向で「集団改宗」が行われたことがありました。悪いことではないでしょうが、本当に福音が伝えられたのか聊か心配です。キリスト教圏とされるヨーロッパの現状を見ますと、やはり本当に福音は宣べ伝えられたのかと首を傾げざるを得ません。特に広大なイスラーム圏、ヒンズー圏、仏教圏その他の存在を見れば、イエスの遺志は殆ど満たされていないと考えざるを得ません。
では、問題はどこにあったのでしょうか。やはり、キリスト教が、受け入れ側の必要に正しく答えていないからではないかと思います。パウロは、福音の伝達を乳幼児の成長に合わせて行うたとえを述べています。つまり、もたらす側の柔軟さ、配慮を求めています。では、キリスト教は、何時そのようなパウロの態度から離れて行ったのでしょうか。わたしは、キリスト教がローマ帝国の権力に公認され、さらには、この権力と癒着してしまった、いや、権力を自分のものとしてしまったことに原因があると考えています。イエスの福音が、強大で巨大な権力構造に変質してしまったのです。ローマ帝国は滅びても、この権力構造は、生き延び、宗教的世界帝国を目指すようになりました。もちろん長い歴史の間には、良い、悪いは別として様々な変遷があったことは事実でしょう。しかし、イエスの望んだ、仕えるための共同体よりも、支配するための権力機構としてのキリスト宗教が温存されました。つまり、宗教的、とか、超自然的とかの修飾語が着いていても結局は「力」の及ぶ範囲にしか福音が実際に伝わっていないと言う現状に問題があるのではないか。今は、ローマ的権力機構から脱却して神愛による交わりの共同体としてのエクレシアを目指して努力すべきではないでしょうか。

2010年1月28日木曜日

マリア論01

カトリック神学において、聖母マリアに関する神学、つまり、「マリア論」と呼ばれる神学の分野は、それだけで完結した独立の神学ではなく、飽くまでも「キリスト論」の中の一分野として考察されねばならない。それ故、常にキリスト論の「枠内」に留まらねばならないが、それは、マリア論が消極的な学問であると言う意味ではない。いわば、キリスト論を最終目的とした上で、固有の方法論と作業とによって、マリアに関する神秘の意志を積極的に深く理解し、できる限りこれを実践に活かすように努めるのが吾々のマリア論の主旨である。 それ故、マリア論の出発点は、神秘からの啓示の真理、特にキリストについての啓示の真理であり、また、その到達点も同じく啓示の真理である。マリア論は、決して「新規な」教義を創り出すことを目的とするものではない。しかしながら、教義を創り出すことと、啓示の真理を新しい側面から眺め直すこととは、必ずしも同じ事ではない。この意味で、マリア論が、真理の新しい側面を、それぞれの時代の人々の理解力に適した形で新たに明らかにするのは、当然の作業である。時に、マリア論が新しい教義を推進しているかのように見えるのは、このためである。