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2009年12月1日火曜日

神道とカトリックの対話11

上田賢治先生は、第2の問題点として次のように述べておられる。
「第二にI氏は、存在世界の本質を問うて神に至る時、それを「多」とすることは理性の立場から見て不可能であり、現実の在りようは、判断の停止か、究極的なる「一」を求めるしかない筈だと主張される。確かに筆者は、相対性の自覚が絶対観念の存在を前提しなければならないことを述べた。我が国の神話編成時代には、既に儒・道・仏の思想さへ伝えられていたと考えられるからであり、そして更には、もし絶対の観念を持たなければ、相対的な自己を絶対化して、相対の調和を発想することさえ不可能であったに違いないだろうからである。しかし筆者が神道哲学の拠り所とする神話には、一神としての絶対は語られていない。神話は、所与或は既存としての混沌から多神の出現を語り、混沌そのものを神化或は絶対化していないのである。神世七代の最後に出現された伊邪那岐・伊邪那美の両神は、国生みの始めに失敗し、事後指針を天神に問うたところ、天神は卜占に拠ることを指示しておられる。これは延喜式祝詞の中、最も重要な祝詞に使われる表現「天津神諸々の命もちて」から推すと、最貴とされる天神も一柱ではなく、多であるからこそその意志が御卜によって示されたのだと考えられる。究極的一は、一神ではなく多なのである。
 このような発想の成立しうる根拠が一体どこに由来するのか。筆者は現在のところ、それはやはり日本人の存在理解の在り方そのものに発しているとしか表現の仕様がないと考えている。事実日本語、本来の「やまとことば」には、存在を表す言葉として「ある」一語しかなく、西洋語の如く、例えば英語のエギィジステンスとビーイングの区別、或はドイツ語のダーザインとザインのような意味分別は発想されていない。「ある」ということは現存在的に在ることであって、それを超越するものなど発想されてはいないのである。多がある以上、理性的・論理的には究極の一が求められねばならないとするのは、やはり一神教を前提とする論理であって、神道のそれではない。或はユークリット幾何学と非ユークリット幾何学との相違であるとでも言うべきか。」
 ここでも、吾々が述べたのは、「それ(神?)を「多」とすることは理性の立場から見て不可能」である、と言うことではなかった。また、相対を理解するには絶対の「観念」が必要であると主張したのでもなかった。確かに「筆者が神道哲学の拠り所とする神話」の神々は、すべて相対的であって「一神としての絶対は語られていない」ことは、言うまでもない。天照大御神も、天御中主神すらも所謂ゴッド的絶対超越神としては語られてはいない。吾々が問題としたのは、個別、固有の神格を持っておられる神々やゴッドが、現実にどの様に拝まれているかということではなく、神学が「学」である限り、「存在世界の本質」を不問に付して置くままでは済まないのではないかと言うことであった。これは確かに存在論の問題であるが、何らかの存在論を必須の手段として用いないでは、神学は、学、つまり原因に基づく確実な認識の体系としては成り立たず、精々神に関する思弁的、思索的エッセーに留まってしまうのではないか、と吾々は考えている。ところで、学の視点から言えば、存在世界の究極の根元は、言葉に出して言うなら、「一」であり、少なくとも「多」ではあり得ないだろう、と吾々は、主張した。これは、上田賢治先生が言われるように「一神教を前提とする論理」ではなく、既に述べたように、否矛盾律を根本原理とする人間知性の基本的構造に基づくことである。但し、この「一」を直ちに、「ヤハウェ」、「ゴッド」と同一化した所に、ユダヤ教やキリスト教の齟齬があった。そして、この齟齬は、ユダヤ・キリスト教が育った唯一神論的思考様式に由来するものと思われる。私見では、究極の根元を「一」と表した瞬間に、それはもう正確でなくなっている。何故なら、吾々の言葉では、「一」は、「二、三、・・」に対する「一」であって、相対化されているからである。それ故、「言挙げ」しないことが最も賢明な態度であるかもしれない。この点で、神道神学の方が、キリスト教神学よりも「方法論的に」優れていると言えるのかも知れない。
 しかしながら、神学は、学である限り、不完全ではあるが(それを十分意識した上で)、言葉を用いないわけに行かない。この場合、存在世界の究極の根元は、極端に言えば、遠藤周作が言うように、「玉ねぎ」でも何でも良いわけであるが、「無」とか「空」とか「零」と言うのが最も穏当であろう。
 とにかく、形而上学的・論理的次元では、上述の様に、所謂「絶対者」が二つ以上あるとは考え難い。しかし、神道神学は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。そもそも「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。また、絶対者、完全無欠者、超越者などを表わしているのでもない。神道の神は、形而上学的、論理学的概念と言うよりはむしろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、吾々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場においてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような所謂 adoratio つまり唯一絶対の Theos に対する全存在を挙げての排他的帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。多神観は、形而上学の次元で絶対存在者が幾つもあると言うことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本旨ではなかろうか。宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることは既に述べた。実際に、一般のキリスト教徒が「ゴッド」を礼拝している場合、その「ゴッド」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものを直接の認識対象とすることが可能であろうか。結局、実際には、複数の相対的概念を結合して間接的に「神」を考え、それを「ゴッド」と言表しているのである。形而上学、哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教においても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
 要するに、多神観は、神学の主要な領域である抽象的、形式的、論理的、思弁的な形而上学の次元では、究極の原理として厳密な意味では成立し難いが、宗教次元ではむしろ人間の自然に適した妥当な態度である。畢竟、人間が救われるのは、「理性」や「哲学」によってではなく、ペルソナとしての神、人間を無条件に愛する神によるのである。この神の「客観的属性」がどのようなものとして概念化されるか、「私」の救いに取っては、それほど重要事ではない。つまり、冷厳な論理的首尾一貫性、整合性を認識するのが救いではなく、人間の現状を暖かく癒し、高めてくれる神との合一が救いなのである。
 とは言っても、人間は、最終的には理性に立たざるを得ない。判断中止は常に可能であるが、思考を続ける限り、理性の立場を自ら堀崩すことはできない。それ故、理性の範囲内では、万物の根源原因は、もしあるとすれば、それは、一であって、多であることはできない。少なくとも人間の理性はその様に構造されている。従って、吾々は、「多神観」もしくは「多神論」を万物の最終的説明根拠に置くことはできない。宗教実践の次元で、多神観を容認するのが本質である神道も、神学の次元、形而上学の次元に踏み込む限り、この問題は、避けて通れないだろう。或いは、キリスト教などのように、事実上の多神観を唯一神論の「神統譜」の中に統合するか、或いは、仏教などのように、「一即多」の汎神論的理論を展開するか、或いは、思考中断を敢えて選択するか、のいずれかでは無かろうか。ここに神道神学が、学として解明を求められている問題点の一つがあると思われる。