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2009年12月28日月曜日

神道とカトリックの対話:むすび

むすび
 吾々の理性は、上述のように、本来、唯一神論的傾向がある。宇宙の根源的な原理が多であるとは、考えられない。従って、唯一でなければならないはずであるが、この場合の「一」は、果たして、宇宙を超越する根源的原理の述語で有り得るだろうか。上述のように、同一次元において「多」と対立する限りでの「一」、「多」の単位としての「一」でないことは、明白である。すべての「数」の源泉ではあっても、それ自体、「数」を無限に越える者である。この意味では、唯一神論は、形而上学的次元においても厳密に言えば、誤りである。結局吾々は、この原理を表わす適切な概念を持ちえないわけである。敢えて表現しようとするならば、「零」、「ゼロ」とするべきであろう。吾々としては、キリスト教神学の神観を唯一神論ではなく、零神論として捉えたいと考えている。
 さて、キリスト教の信仰に深く帰依している一老神学徒として、意を十分に尽くし得ないまま、神道の「神観」について、所見を述べた。吾々は、神道もキリスト教も帰する所、同一であるなどとは考えていない。また、両者は、何時か融合すべきである、或いはそれを目指して努力すべきであるとも信じない。根本的に不完全、相対的である現存在世界にあって、神道もキリスト教も今後とも共生し、現世における人々の幸せのために、共働して行くべきであると信じる。融合しないと言うことは、全く無関係に併存すると言うことを意味しない。健全な本物の対話を通して、互いに理解し合い、それによって自己改革を絶えず継続することで、それぞれの神与の現世的使命を相応しく果たすことができるであろう。そのためには、神学次元での対話が、欠くことのできない要件となるはずである。