ページ

2010年6月12日土曜日

祭司性

信徒の司祭職について

A祭司について
1)本性の祭司性
人間本性:個体本性と対他本性(ペルソナ)「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)。二つの本性があるのでなく、一つの本性がそれ自体として捉えられる場合と、他者に対する者として捉えられる場合。あらゆる被造物は、他者によって支えられねば、実在できない(ens ab alio) 。しかし、人間の対他本性は、それ以上に、他者に向かって開かれ、他者によって完成される。他者とは、自己以外のあらゆるペルソナであるが、最終的には、神的ペルソナである。ペルソナとしての三一神であるが人間ペルソナは、この神的ペルソナである他者と対峙することで神性と交流・合一する。つまり、神的ペルソナと人間ペルソナが神性を共有する。この対峙は、動的なもので原初の秘義(万物創造・アルファ)から終末の秘義(万物完成・オーメガ)に至る巨大法輪である。この無限ダイナミズムの内にペルソナとしての全人間共同体とペルソナとしての三一神との合一が成就して行く。このような活らきを根拠に人間本性の内に本性的祭司性が形成されている。
2)祭司性の機能(はたらき)←祭り
他者からの働き掛けとしての機能・仲保mediator―――他者への機能・供儀victima・sacrificium 
祭司性の機能は、人間本性に根差すもので、文化、民俗などによってその表現形態は多種多様である。具体的事項については、世界宗教史参照。神道。
3) 身分statusと用務officium
これらは本来社会的区別で、絶対ではないが、相対的に恒常性を保つ。典型的身分は、いわゆる「血筋」で生物的つながりを土台とする。次に「世襲」。様々な手段を使って世襲が図られる。職人、政治家など。用務は、人とは直接関わりはないが、身分化される可能性は常にある。このことは、祭司性に関しても妥当する。バラモン、神官、僧侶。
B簡潔な史的一瞥
1) 古イスラエルの祭司性:アーロンの系譜、生贄をささげる←神殿。
唯一神とイスラエル民との媒体(仲保者・供え物)。古イスラエルの信念では、唯一神と選民との間には、超えることのできない深淵がある。それ故、神の方から仲保者を立てる必要があり(アブラハム、モーセ)、選民は仲介を求めて犠牲を捧げる必要がある。こうして、祭司階層が生まれ、神の言葉を預かる預言と犠牲として動物の生贄victimaが行われた。さらにこれらの行為を実行するため民を纏める統括権も付与された(牧権・王権)。旧約の祭司は、イスラエルの民laosから身分的に区別された人々で、民の罪の贖罪のために犠牲をささげた。大祭司に集約された組織的祭司性である。
2) 新約の祭司性
新約の祭司性は、本性的祭司性を可見的土台とする受肉の秘義(ho logos sarx egeneto)である。この秘義は、神のペルソナが人の子イエスとして受胎することに始まり、イエスの十字架死と復活にいたる全生涯として時・空の場に現存する。さらにこの現存は、受肉のペルソナ・イエスが復活の秘義によって時間性、空間性を可能態として保持しつつ三一神の永遠の交わりの中に合流する。人となったペルソナ・イエスは、全人類を自己に統合・合一させることで、宇宙キリスト・全キリストtotus Christusとなる。これをパウロは、イエスを頭とする「キリストの体」と表現する。こうして全キリストとなった人類は、復活の主キリストによって存在の深淵と罪の深淵とを克服して、三一神と合一し超宇宙的大法輪が完成する。
それ故、新約の祭司性の機能は、根源的には、受肉のペルソナ・イエスであり、延長的には、全キリストつまり(秘跡によって)キリストに結ばれたあらゆるキリスト者である。要するに受肉のイエスは、神と人間(+全宇宙)とを結合する存在であり、イエスの機能を例示すれば、御父の意志を表わす預言、人類を統合する「王」、自身を捧げることで人間を神と合一せしめる祭祀である。
少なくとも洗礼の秘跡によってキリストと一つになり、もう一人のキリストalter Christusとなるキリスト者は、上に例示されたものを主とするキリストの全機能を分有する。これがすべてのキリスト者の祭司性である。ちなみに祭祀の具体的あり方は、固定化されていない。あらゆる形態が可能である。一般に祭司の機能は、犠牲の奉献と言われるが、それは大切ではあるが、多くの内の一つに過ぎない。邦語の「犠牲」は、sacrificiumの訳語と思われるが、元のラテン語は、語源的には、sacrum facere聖化すると言う意味で「神と我々との合一を実現するためになされるあらゆること」がsacrificiumである。従って人間を含む動物の生贄victimaは、sacrificiumとしての祭祀の一つに過ぎない。神との合一を目指すあらゆる活動は、個人的にも、共同体的にも、sacrificiumであり、祭司職であり得る。 
3)新約聖書には、身分的に民laosから区別された「祭司hiereys」は、少なくとも言葉としては出てこない。祭司は、異教ないしユダヤ教の祭司についてのみ言われる。例外は、「ヘブル書」の大祭司キリストと「ペトロの手紙I」が新約の民全体を総称的に王的祭司団basileion hierateyma(2:9)と呼ぶことであろう。[ちなみにこのbasileionを形容詞でなく、名詞とする解釈もある。フランシスコ会訳は、こう解して「王室・祭司」と二つに分けている。新共同訳は「王の系統を引く祭司」と訳す。何れにせよ個人が祭司と呼ばれるのでなく、教会共同体が祭司と呼ばれる。]
4)宗教史的に言えば、キリストの教会には、ユダヤ教的な祭司階級は存在せず、いわゆる(平)信徒共同体である。その理由は、「ヘブル書」によれば、大祭司キリストが、あらゆる祭司職を徹底的に完成してしまったからである。しかし、教会は根源的には、本性的祭司性をもち、この祭司性は、すべてのキリスト者が入信の秘跡(洗礼・堅信・エウカリスティア)を通してキリストに合一することでイエス自身の祭司性として現実態actus, energeiaとなる。これをキリスト者の共通祭司性とよび、その機能を共通祭司職と言う。
5)教会は、キリストの体、全キリストとして多くの活動がある。それらはすべて受肉のキリストの使命つまり神と全宇宙との(再)合一の完成を目指す。これらの活動energeemataは、仕えるdiakoniaiとして総括され(マルコ10:45)、またこの活動の成就のために神の特殊の恵みkharismataが与えられる。Diakoniaとkharismaは、対概念である。「賜物kharismataにはいろいろありますが、・・務めdiakoniaiにはいろいろありますが、・・働きenergeemataにはいろいろありますが・・」(コリI 12:4-6)
多くのディアコニアの中から、キリストの祭司職を集約的かつ専従的に果たすディアコニア(とカリスマ)が顕在化してくる。それは当時の仕来たりに応じて、監督者episkopos、長老presbyteros、奉仕者diakonosに分化し、叙階の秘跡ordinatioによって固定化され、信徒共同体とは身分的に区別された祭司団を形成する。共通祭司職から区別するため、役務的祭司職sacerdotium ministerialeと言う。なお、邦訳では、監督者、長老、奉仕者(執事)は、順に、司教、司祭、助祭と訳される。
C)共通祭司職(信徒の祭司職)の例示
1)共通祭司職は、神と全人類との合一、その(時間的ではない)前段階としての全人類の一致を目指す受肉のキリストの祭司職への参与であり、具体的には非常に多様な形で表現される。パウロは、その手紙の中で幾つかのディアコニアを例示している(たとえば、コリントI、12章、エフェソ4章)。これらすべては、「福音」の伝達に集約できるが、福音とは、ペルソナとしてのイエス自身のことであり(「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテア2:20))、この伝達のことを「使徒活動」と言う。こうして、新約の祭司職は、福音化(使徒職)に統合された。祭司職の中心課題は福音化(福音宣教)である。福音とは、すべて信じるものを救う神の力(=十字架の言葉)である。使徒の言葉と行為とにおける十字架の現前と復活の喜びが福音の神髄である。
祭司職の具体的行為は、sacrificiumをささげることであるが、奉げられる者(犠牲)とは、主が最初の弟子に「人間たちの漁師にする」と言われたその「人間たち(異邦人?)」である。
2)結びとして;キリストのからだである教会を立てる。神の家の建築素材であるキリスト者そして、聖化としての聖霊の活動への参与。その具体的表現は、状況によるので、予め固定することはできない。不断に進化して行くべきものである。