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2009年5月29日金曜日

基層神道

 弥生時代人の宗教現象もしくは信仰が少なくとも素材としての基層神道の中核を形成する。問題は、果して実際にこの様な太古の人々の信仰内容が仮に実在していたとして、我々は、それを知ることが出来るかと言うことである。それゆえ、極めて不備ではあるが、何等かの形で実証的な問題を取り扱わざるを得ない。 さて、我々が先ず明かにしなければならないのは、所謂「基層神道」なるものの実在である。換言すれば、遅くとも弥生文化時代の後半から中央統一政権の成立--成立の年代を正確に定めるのは難しいが、ほぼ三世紀末頃と考えたい--に至る時期の一般庶民の信仰内容が実在したとして、それを知る手段が果たしてあるだろうか。周知の様に信仰内容の様な抽象的な事柄は主として言語、文字を媒体とする概念によらねば、精確に、詳細に伝達するのは至難である。従って、固有の文献が未発見であるこの時期の宗教・信仰について精確に知るのは困難であるが、我々は、次ぎの様な方法(手段)を総合的に駆使することによって幾分なりとも実態に近づいて行けるものと信じている。すなわち、1)所謂古典の分析(文献学的アプローチ)、 2) 当代にまで遡れるとされている神社の由緒の検討、3)同じく太古からとされている神事の研究、 4) 所謂民俗信仰の分析、5)周辺民族の当代の文献、宗教思想、民話の研究(比較神話学的アプローチ)、 6) 考古学、民俗学、人類社会学などの成果による補完、そして最後に7)現在の信仰との対比、などがある。
 さて、古典の分析を考える場合、最初に挙げるべきは、矢張り『古事記』、『日本書紀』(以下記・紀と略称)であろう。
1)記・紀に就いての考察
 先ず記・紀に収録された神話に現れる信仰内容を分析することになるが、本題に入る前に、少なくともこの我々の分析のための主要な源泉の一つである『記・紀』に就いて我々が、どの様に考えているかを明らかにして置く必要があろう。
 我々が考察の対象としている弥生時代、特にその後期に、いわゆる「倭(大和)民族」の存在を考えることが妥当であるかどうかは別として、この列島に複数の人間集団が住み着いていた事は事実である。各々の集団は、自らを一つの「民族」として自覚することはまだなかったであろうが、他の集団が多少とも自らの集団と種々の点で違っている事は意識したに違いない。これらの集団を大別すれば、ほぼ北方系と南方系の二つに分けることができよう。これらの二系統は、各々まとまった二つの集団群としてある時点で同時に併立し、一方が他方を征服、もしくは併呑した、と言うよりは、むしろ、長い時間をかけて、各々の小集団単位で、特に結婚などを媒介として、複雑に接触、融合して行ったと見た方がよいだろう。この場合、全体として南方系の方が、時間的にも早く列島に住み着き、数の上でも優勢であったと言えるのではないか。これに対して、いわば合目的的な組織化や、‘政治’の面では、かえって北方系の方が優位にあったと言えそうである。こうして、ある一つの地縁的、血縁的共同体もしくは氏族を取り上げれば、多くの場合、二つの系統が多少ともその中に混交して居るのが見られる筈である。言うまでもなく、これらの共同体もしくは氏族は、更に他のものと複雑に接触融合して行ったのは自然である。これを信仰の面にのみ限って見れば、各々の集団には、多少とも北方系と南方系の要素を交えた複雑な信仰系が、勿論実修を伴って、成立し、その集団の政治的消長と共に、推移した。やがて、これらの氏族群の中から、一ないし数氏族が強大化し、恐らく現在の奈良南部(現桜井市周辺か?)を中心に「統一政権」を樹立することになる。政治的な統一の偉業を果たした集団が土着のものであるか、あるいは比較的近来に外から移住してきたものであるかは、我々の問題にとってそれほど本質的なことではない。とにかくこの様な集団は、当然の趨勢として自らの偉業をイデオロギー的に補強しようとする。すなわち、自家の伝承の信仰物語を中心に、服属、もしくは統合した諸氏族の信仰物語を適当に取捨選択、修正して一つの神統譜を造り上げようとした。こうした高度に政治的な理念の下に編集されたのが、『古事記』であり、『日本書紀』である。従って、記・紀の主要な編集目的の一つは、これを生み出した集団の政治権力の正当化、つまり統治権の合法性を内外に宣言することにあったのであろうが、この目的を編集主体は、諸々の信仰系をある意味で統制することによって、遂行している。つまり、新しく信仰を造り上げるのではなく、既存の信仰を一定の理念に基づいて、取捨選択、修正することによって、所期の目的を達成しようとした。この場合、既存の信仰には、単に自己の氏族もしくは氏族群のそれだけではなく、政治的に統合されたかつての有力氏族の(合目的的に修正された)信仰をも含むことは言うまでもない。それ故、以上の手続きを逆に辿って行けば、間接的ではあるが、素材としての元の信仰に到達できるはずである。元の信仰が何時まで遡れるかは、厳密な考証を加えて見なければ予断は出来ないが、少なくとも記・紀が書かれた時点よりも可なり古いと言うことは言えるであろう。

2)記・紀信仰集団に就いて
 次に、記・紀を生み出した信仰集団に就いて一言して置く。我々の考えでは、一般に受け入れられた、宗教的典籍は、単にそれを実際に書き記した人物の外に、それを支えている或信仰集団の存在を予想する。つまり、この様な典籍は、著者個人(群)のものであると同時に、その個人(群)が信仰的に所属するところの集団が生み出したものでもある。勿論、この様な集団の内実を具体的に明示するのは、必ずしも常に容易ではないし、又この集団の全構成員が等質の信仰を抱いていたとも限らない。しかし、大まかに言って、同一の信仰を共有しているとは言えるだろう。それ故、逆にある宗教的典籍から遡って、それを生み出した信仰集団を考えることは、無謀ではない。こうして我々は、記・紀を生み出した信仰集団を考え、これを仮に「記・紀信仰集団」と名付けることにする。既に述べたように、現存する、もしくは散逸した宗教的典籍を生み出したかどうかは別として、上記のような信仰集団が、幾つもあったに相違ないが、これらの集団は、少なくとも他の集団の信仰を積極的に排除しようとしない限り、いわば、末端の部分で多少異なる信仰を持っていたとしても、又互いに地域的に多少離れていたとしても、広い意味で同一の信仰集団に属するとして差し支えないであろう。従って、例えば九世紀以降の日本の文化的指導層が、記・紀を自らの文化的遺産と認める限りにおいて、彼らも同一の信仰集団に属すると言える。更にこれらの信仰集団の構成員に就いて言えば、出身地、言語、文化などに多少の違いはあったであろうが、それらは、信仰を根本的に分割するものであるとは考えられてはいなかったようである。従って、勿論、彼らにもいわゆる「外つくに」の意識はあったであろうが、それは、今日の「外国」の意識ではなく、身内ではない隣り「むら」、と言うほどの感じであっただろう。少なくとも、列島以外の近隣の信仰が、全く異質のもの、とは考えられていなかったようである。これらの点で、更にもっと厳格に組織化された例えば後の所謂「仏教教団」の様なものとは異なっている。要するに、我々の言いたいのは、少なくとも信仰に関する限り、列島を孤立的に考えるのではなく、主として朝鮮半島を中心に周辺の諸地域をもほぼ同質の信仰圏と見なすべきである、と言うことである。即ち、記・紀の信仰を知ることによって、時間的にも空間的にもその前後の可成り広範な人間集団の信仰を推定することが出来る、亦逆に同一信仰圏内のある地域の信仰を知れば、記・紀の信仰の内容を一層明らかにすることが出来ると言うことである。換言すれば、「記・紀信仰集団」は、地理的に列島内にのみ限るべきではなく、中核は飽くまでも列島内であるにしても、影響する範囲は、周辺の諸地域にも跨るものとして捉えるべきであろう。

3)記・紀神話の解釈について
 記・紀に現れた信仰内容を考える前にそもそも記・紀に述べられていることは何か、それをどう受け取るべきかに就いて考えて置かねばならない。記・紀に述べられていること、特にその「神代」と呼ばれる部分は、客観的な歴史的事実である、或はその忠実な記録であるとする見解があった事は周知である。この様な見解が、時の国家権力によって強引に押し付けられたと言う不幸な事態も原因となって、この様な国家権力が弱体化されると共に今度は、逆の考え方、つまり記・紀は、非科学的な荒唐無稽の、歴史的には全く無価値な書物であるとする主張が幅を利かせた。我々は、この両者の何れの見解にも与する事は出来ない。そもそも民族の古典である書物の、所謂ジャンルを簡単にあれかこれかに、而も自分の都合の良い様に決めてしまうのは、敢えて言えば、冒涜であろう。むしろ古典は、古代の人々の真摯な生活経験が生み出した様々なジャンルの要素が複雑に総合されて成り立っているものであるから、一つ一つの要素を慎重に検討し、理解して行かなければならない。
 さて、我々に特に関係の深いのは、所謂「神代」に関する記・紀の部分である。「神代」そのものに関する種々の論議はさておいて、我々は、この部分全体を「神話」であると理解する。神話と言うと、非科学的で、非論理的な空想物語と思われがちであるが、ここで言う神話は、一つの文学的な表現方法を指すのであって、ある集団の共通の実存的な体験を象徴的な言葉で表したものである。体験の表現であるから、その体験は、単に心理的なものに過ぎない事もあれば、或は、客観的な出来事が対応している場合もある。しかしそれが現実にある集団の実存体験であったと言う限りにおいて、単なる心理的な現象である場合でさえ、時の流れの中に位置付け得る何らかの歴史的核心を持っていると言える。但し、歴史的核心と言っても、或歴史的出来事が単純に説話化されていると言うような簡単な意味ではない。核心に迫るには、可なりの努力が必要であり、恐らく核心に到達できない場合も多いに違いない。また、神話は、必ずしも普通に言われる意味での宗教の次元にのみ属するとは限らない。しかし、深刻な実存体験は、殆ど常に、広い意味での宗教的体験に関わるから、神話と宗教体験は密接な関係がある。この意味で、神話は、ある集団の信仰を直接もしくは間接に表現するものである、と言うことが出来る。但し、この信仰が客観的な事実を指し示しているかどうかは、ア・プリオリに断定することは出来ない。例えば、伊邪那岐神(伊弉諾尊)、伊邪那美神(伊弉冉尊)の国生み神話は、当代の人々の経験にある多くの国々(ここで言う国は、勿論近代の民族国家ではなく、一定の経験的な地域を指す)が、これら二神によって生み出されたとする信仰を表現しているが、それが実際に生理学的な国の出産を記録しているものなのか、或は、或歴史上の事実の象徴化された記録なのか、にわかに断定は出来ない。断定するには、各々の分野の固有の手続きを経た上で、厳密な検証を行わねばならない。例えば、国生みの信仰から、この様にして生まれた或國を信仰の対象として崇めることは、同一の信仰の領域の問題として妥当であるが、歴史的な検証を経ないで、この國の政治的主権が、例えば二神の子孫と信じられている歴史上の人物に必然的に帰属すると結論するのは、不当である。即ち、政治的統治権は、歴史的に基礎付られるべきであって、信仰によって基礎付られてはならないのである。特に現代の日本におけるように信仰が多様化している所では、この配慮は大切である。
 ついでに言えば、天皇家の現状の適法性は、神話に依存するのではなく、歴史的な伝統に基づくものである。一般に、その端緒が何であれ、長期間に亘って比較的平和裡に公共の秩序を維持している権力は、合法と認められるべきだからである。要するに神話は、飽くまでも信仰を表すものであって、その信仰の内容が妥当性を有するのは、この信仰を共有する人々の間においてだけであって、それが、客観的な事実かどうかは、各々の分野で、個々具体的に検証する必要がある。ただし信仰そのものは、本来検証を必要とするものではなく、それが必要なのは、実は、信仰以外の各分野自身なのである。何れにしろ、神道の神学の一つの目的は神道の信仰の解明であるから、記・紀の神話がどんな信仰を表現しているかが重要であって、それが、歴史もしくは政治その他の分野でどの様に理解されているかによって、直接に左右されるものではない。

2009年5月27日水曜日

神道とは

§1.「神道」の史的展望:
 「神道」と言う言葉によって表示されている事態を簡潔に定義することは、難しい。それは、この事態が極めて流動的であり、時代と共に柔軟に変遷しているように見えるからである。
 さて、今日、日本列島と呼ばれている島弧群の地形がほぼ現在の形に近づいたのは、鮮新世(約500万年前-200万年前)に入ってからだと言われている。また、四面が海で囲まれる様になったのが、沖積世(約一万年前-現在)になってから、そして九州と四国が本州から離れて夫々島の形になったのは、約八千年前であると言われる。この列島に明確な石器や遺構のはっきりした遺跡やヒトの化石があらわれるのは、新人(ホモ・サピエンス)の段階で、いまから三、四万年前の氷河時代(ウルム期)である。恐らくこの悠久の時の流れの間に、無数の個人や、そして特に個人の小集団が、あるいは陸路で、あるいは、それが絶たれた後は島伝いや海流に乗って、波状に列島に渡来し、次々と各地に住み着いて行ったのであろう。これらの集団は、この列島に堆積し、併存し、混合し、日本民族の複雑で多様な身体的形質、言語的、文化的性格を形成した。また後から渡来した集団も、先住の種族を駆逐し、殲滅するというようなことはなく、先住民との混血、混合は、日本列島の地域ごとに多様であった。
 これらの個人もしくは集団の出自は、元より多種多様であり、一々これを個別的に同定することは不可能であるが、彼等が、身体的形質、言語、文化現象などに残した痕跡から、その大まかな趨勢を知るのは、必ずしも不可能ではない。しかし、それらは飽く迄も間接的な推論の域を出難いので、論者の解釈の相違によって種々の結論のあることはやむを得ない。小論の目的は、宗教現象の解明であるから、主として言語学的な痕跡から一応の作業仮説を立てて置きたい。例えば、村山七郎氏によれば、「日本語は南島系言語のうえにアルタイ=ツングース系の言語が重なり、後者の文法形式が下層言語(B[南島語系要素=引用者])に及んで成立したものとみられる。日本語は文法形式においてアルタイ=ツングース的、語彙において南島語的、より少なくアルタイ=ツングース的といえる。」 勿論、このことから直ちに諸集団の出自を断定することは差し控えるべきであるが、少なくとも渡来集団は同一種のみではなく、南方的要素と北方的要素が様々な仕方で長い年月をかけて(一部は既に渡来以前に)融合して行ったと言うことは出来よう。大体の傾向としては、先ず南方的要素が列島全体を覆い、その上に北方的要素が重層したと考えて良いのではないかと思われる。
 ほぼ一万年にわたって継続したと推定される縄文時代の精神・宗教現象について正確に知るのは至難である。所謂縄文時代人が、その全期間を通じて同一の「人種」に属していたものかどうか、これも確認は至難であろうが、恐らくは、前述のように、様々な小集団が北から、南から何回にも亘って列島に渡来し、徐々に融合を重ねて行ったものであろう。従って、ある一つの、例えば北方系の大集団が、他の、例えば南方系の大集団を、駆逐もしくは征服したのではなく、仮令地域的には小規模の征服や支配・服属関係があったにしろ、全体としては、寧ろ、融合、同化が主であったのではなかろうか。闘争の形跡は、縄文時代よりも、むしろ弥生時代に顕著であると言われている。こうして全体として見た場合、南方系の方が、幾分優勢であったと言うことであろう。
 人間には、その具体的な現われは様々であるにしても、一般に「宗教本能」があることは、ほぼ確かである。また人間の本性が「社会的」存在である限り、この宗教本能も集団を媒介として表現されるのが通常であろう。従って、少なくとも生活に根ざす人間集団がある所には、最広義での宗教現象も存在すると言えるのではないか。従って、南北系の何れを問わず、前述の各々の小集団は、既にその出発地に於て何等かの宗教的な信念をその集団内で共有していたであろう。それは極く素朴な感情に過ぎず、勿論論理的な形では未だ表現されてはいなかったかも知れない。しかし、非常に広い意味で「制度としての宗教」であったに違いない。即ち、単なる感情の高ぶりではなく、或程度継続した考え方、繰り返し可能な行動、象徴として以外は殆ど無意味な行為などを伴う集団的な「宗教現象」であったであろう。この様な「信念・宗教」は、列島にもたらされることによって、新たな風土に順応し、回りの諸集団との接触によって何等かの変容を蒙り、総合され、ここにいわば、「縄文人の宗教」とも言うべきものを形成して行った。その内容は詳かにはなしえないが、しかし、基本的には狩猟採集文化を営み、比較的に組織化の進んだ集落をなして住み、文化遺物も豊かであり、人口密度は全期間を通して太平洋側の東日本が西日本よりも圧倒的に高く、弥生時代と逆の傾向を示すと言われている事などを手がかりに、幾分縄文人の宗教状態を推定するのは不可能ではないだろう。
 所謂弥生文化が、紀元前三、二世紀に起こり、その下限は、紀元二、三世紀であるとするのは、大体の定説である。また地域的に北九州で始まり、稲作特に水稲農業と結び付いていたことも立証されている。しかし、具体的にどの様にして縄文文化から弥生文化へ移行して行ったのかと言う点については不明な点が多い。別の観点から言えば、元来列島に存在していなかったとされるイネが、どの様にして列島に伝わり、やがて稲作農業が一部を除くほぼ列島全域に普及するに至ったかと言うことを具体的に跡付けるのは困難である。稲作農業が普及するには、ただ米だけがもたらされると言うのでは十分ではない。時間的には少なくとも一ケ年を要する技術のシステム全体が必要であるから、所謂知識だけの技術導入のみではなく、実際に稲作をしていた人々の集団の導入も同時に考えられねばならないであろう。恐らく稲作農業を営む複数の集団が技術と共に主として北九州方面に渡来し、稲作に適し、しかも人口が比較的希薄であった西日本に広がり、その過程で、先住の所謂縄文人と融合して行ったのであろう。勿論、在来人の方からも積極的に技術を取り入れ、これを独自に発展させ得る主体的な条件を備えていたものと思われる。また稲作農業を営む諸集団は、ある日突然に現われた全く異質の集団と考えるよりも、少なくとも部分的には、元々何らかの意味で在来人と関わりのあった人々と見た方がよさそうである。
 こうして、多少の地域差はあったが、在来の縄文人をも含めて比較的短期間に弥生文化への移行が達成された。約五~六〇〇年に及ぶとされる弥生文化の内容については、特に史料的に不明な点が多々あるが、大勢としては、一つの纏まりを有する文化であり、「経済・社会・文化の基本的な面で」歴史時代の所謂日本人と「共通性をもっ」ていることは否めない。従ってこの時期をもって今日の「日本民族」の形成期とする江上氏らの説は、妥当であるとしなければなるまい。
 即ち、弥生時代の文化が現代の日本文化とほぼ同質であることは、一般に認められている所で、現代の日本民族は、弥生時代にほぼその根幹が成立したと考えて大過はあるまい。言うまでもなく「民族」と言う近代的概念がそのまま太古に当て嵌る分けでもなく、また「根幹」自体が、雑多な要素を含むのは周知のことである。又、弥生時代の人間集団にも何等かの形態の「宗教/信仰」が存在していたことはほぼ確実で、この事実は、考古学的な研究によっても証明されている。
 凡そ文化は、通常の場合、無から突然に発生するものではなく、常に「その前段階」を予想するものであるから、この時期に日本の、特にその精神文化が総て忽然と(天界から降って)発生したと考えることは無理であろうが、少なくともこの文化の中核となるものが、この時期に徐々に熟成されて行ったと見て良い。この事は、宗教についても妥当する。凡そ、人間は、総て宗教本能を持ち、これは何等かの集団の中で表現されることが多いから、人間集団のあるところ最も広い意味での宗教現象が見られる筈である。それゆえこの列島に人間集団が住み着き始めた時点から、宗教現象があったに違いないが、その実態を知るために我々に残された資料は余りにも乏しい。しかし、弥生文化の時代になると、そろそろ「日本民族の宗教」について論じても必ずしも可笑しくはない時期に来たと言うことは許されよう。即ち、少なくとも稲作農耕文化が列島に普及した頃から、可成りの纏まりのある、文化的にほぼ類似の人間集団を対象として考える事が出来るであろう。この様な集団がどのようにして成立したのか、その構成機構はどのようであったか、詳らかにするのは、困難であるが、一応作業仮設として我々の考察の出発点とすることは許されよう。
 さて、特に弥生時代の後半には水利を中心に大小の河川に添って比較的纏まりのある集落が発達したことが知られている。恐らくこれらの集落はそれぞれの「長(おさ)」を中心とした比較的纏まった集団をなし、固有の(と言うことは必ずしも他とは異質のと言う意味ではない)“信仰系”を持っていたであろう。あるいは、むしろ逆にこの様な“信仰系”の統合者が集団の長を兼ね集落を維持していたのであろう。この様な“信仰系”を担う集団は、記憶が失われた遠い昔からほぼ同一の地域に発展を遂げて来たものもあろうが、また別の(海外を含む)地域から新に移住して来たものもあろう。それら“信仰系”は、比較的初期の段階では夫々相対的に独立して独自の発展を遂げると共に、やがて他の集団や「外来」の集団と接触を重ね、これらの人々のもたらす「外来」の要素をも吸収して豊かなものとなったであろう。しかし、一方ではそれを担う集団と消長を共にし、集団の「政治的」な統・廃合に伴って“信仰系”の統・廃合も行なわれたことであろう。こうして列島内の諸集団が政治的に統合され、後に「天皇家」と呼ばれる様になる宗族によって中央統一政権が成立すると、宗教・信仰も天皇家の“信仰系”を中心に少なくとも形態的にはほぼ纏まった単一の「宗教」となった。我々は、以上の様な経過を『古事記』や『日本書紀』などの「古典」を通してもほぼ推察することが出来る。また逆に言えば、この様にして形成された宗教集団が記・紀などを生み出した訳である。所で、上述の様な信仰系の統・廃合は、現代的な所謂「思想統制」として(部分的にはあったとしても)意図的に且つ排他的に遂行された訳ではなかったであろうから、上記の文献自体やもろもろの『風土記』などからも伺われる様に、様々な異質の“信仰系”が生き残り、特に民俗信仰の形で基層をなしてきた。神道を考える場合この大切な事実を見落としてはならないであろう。
 以上の様に諸信仰系の統合は、ある時点以降は天皇家を中心とする所謂王朝貴族によって進められて行ったことが確かめられるが、勿論総ての要素が統合され尽くした訳ではない。しかし、形の上では所謂律令制国家の成立と共に一応完成し、多くの神社は国家の奉幣に預かるものとなった。こうして「神道」は、公(おおやけ)の祭りを遂行する主体となった。この時期の神道を、クニによって統合されてないものをも含めて律令制神道と仮に呼んで置く。これには、道教、儒教、陰陽道、(山岳)修験道などの影響が考えられるのはもちろんである。こうして歴史時代に入ると共に「神道」は、ほぼ均質の日本民族固有の宗教として、日本人の精神構造を支えながら、様々な外来の思想・宗教と交渉しながら現代に生き延びて行くのである。 とにかく、この生命体は、時代と共にその当時の様々な思想、宗教の栄養を吸収して発展成長してきた。実は、これら総てを言わば「乗り熟 (こな) して」来たもの、更に未来に渡って「乗り熟して」行くもの、つまり、この様な「受容原理」を担う「基体」を我々は広く神道と呼びたい。従って、歴史の上に現われる「神道」のどれか一つの形態のみを取り上げて、それだけが純正な神道であると主張するのは、一面に偏した誤りである。逆に、総ての「外来」の要素を完全に排除して単純に古来の思想・信仰に戻りさえすれば、真正の神道であると考えるのも正しくない。神道は、今正に生きている生命体だからである。それゆえ、我々の作業は、太古の時代から現在に至るまでこの列島で生き続けて来ているこの神道と呼ばれる「受容原理」の実態は、一体何であるのかを出来るかぎり概念的に明らかにすることである。この「受容原理」の中核は、二千年以上に亘る歴史の様々な変動にも拘らず、常に「倭(やまと)民族」としての自己同一性を動的に保持してきた生命原理である。そしてこの中核の更に中心を成すものが、広義での宗教信仰もしくは信念である。即ち、この様な信念は、単に「民族」の始点にあっただけではなく、今日も種々形を変えながらも日本文化を深層において規定し続けているのである。この主体的受容原理(の基体)を歴史に表れた様々な神道の形態と区別して「基層神道」と呼ぶことにする。単に時間的な意味で根源的であるだけでなく、時代を通じて様々な思想・文化をその根底において現在も支え続けているとの意味である。即ち、「基層神道」とは、倭民族と共に成立し、倭民族の歴史を通じて現代にまで生き続けてきた宗教的信仰のことである。

2009年5月24日日曜日

神道の史的概観

一般神道(「・・神道とは日本に発生し、主として日本人の間に展開した伝統的な宗教的実践と、それれを支えている生活態度及び理念をいう、・・」(岸本編、『世界の宗教』、p.228)
日本人は、自然の働きに神を感じ、自然と調和し、また自然に働きかけて生業を営み、豊かな風土を作り上げて生きてきた。共同体を中心とした生活の中で、日本人は生命力や神霊に満ちた自然の働きや祖先によって生かされていることを思い、自然や祖先に対する感謝・祈願の祭を行ってきた。これが神道の基本である。神話は、世界が混沌から生成され、神が国を生んで作り固めて(修理固成)、日本という国土が生まれたところから始る。神によるこの業を、神の子である人間が受け継いでいく話として語られており、アマテラスオオミカミがこうした営みをいよいよ栄えるものとして祝福している。ここに神道の本質がある。神道とは、この現実世界が人間や自然の自らの働きによって不断に生成発展することを説く現世主義の宗教である。(ひろさちや他、『神道の聖典』、鈴木出版、1993、p.40)
 第1項 古神道(古墳時代から仏教伝来まで)(538年以前)
i.自然神
ii.人間神
iii.観念神
農耕儀礼;祈年[トシゴイノ]祭、新嘗祭
禊祓[ミソギハラエ]
世界観:垂直的、水平的。
現世中心的楽天主義
iv.古神道の展開
a.皇室による神話統合。
b.神人分離←同床共殿
c.神祇制度確立:権力による信仰の強制でなく、諸氏族の氏神を尊重、守り神として迎え入れる。(養老令、延喜式[927]→神祇式[最初の10巻]、その9、10巻は、神名[ジンミョウ]帳→式内社)
2月祈年[トシゴイ]祭、3月鎮花[ハナシズメ]祭、4月神衣[カンミソ]祭、三枝[サイグサ]祭、大忌[オオイミ]祭、風神[カゼノカミ]祭、6月月次[ツキナミ]祭、道饗[ミチアエ]祭、鎮火[ヒシズメ]祭、7月大忌祭、風神祭、9月神衣祭、神嘗[カンニエ]祭、11月相嘗[アイニエ]祭、鎮魂[タマシズメ]祭、大嘗[オオニエ]祭、12月月次祭、道饗祭、鎮火祭、6・12月晦日大祓。(神祇官の恒例祭祀)

 第2項 神道理論の展開
1 神仏習合
 奈良時代に仏教主導の下に、神道と仏教の習合が行われる。
1.護法神の観念;仏法を守護する。(例、宇佐八幡の東大寺大仏鋳造)
2.神々の解脱;神宮寺、神願寺の建立。
2 本地垂迹思想;仏教的神道
1.本地垂迹
 平安時代には神は衆生済度のために現れた仏の仮の姿だとする本地垂迹思想が、仏教側から説かれた。
2.天台神道(山王一実神道)・比叡山
3.真言神道(両部習合神道)・高野山
3 反本地垂迹説;鎌倉時代から自主的神道が起こる。
 中世には、学派神道と呼ばれる伊勢神道・吉田神道などが成立し、理論化が進む。
1.伊勢神道(度会神道)
2.吉田神道(室町時代)
4 儒家神道(江戸時代)
 朱子学を始めとする儒教と神道とが結びつく。神儒合一
1.朱子学者(性理説・藤原惺窩、林道春)
2.陽明学者(良知説・中江藤樹、熊沢蕃山)。
3.吉川神道;吉川惟足[コレタル1616-1694]、朱子学派。太極=国常立尊。
4.垂加[スイガ]神道;山崎闇斎[1618-1682]、朱子学派。天皇信仰、勤王思想の源泉。
5 復古神道
 国学運動;国学は古典を研究し、日本民族の精神を明らかにしようとした。
契沖
賀茂真淵
本居宣長[1730-1801]→平田神道。特に、本居宣長・平田篤胤の説は、仏教や儒教に影響されない純粋な古の道・神ながらの道の復活を説いた。
6 明治時代
 神道は、日本の国家の精神的支柱とされ、神仏判然令、大教宣布などの政策によって、国教と同じ位置についた。
第3項 現代神道
i.その特徴
a.神秘な力としての「ムスビ」。
b.いのちの源としての「ムスビ」。
c.基本的生活態度としての「まこと」。
d.人生の意味に関連しての「つながり」→「中今[ナカイマ]」。
e.文化的社会的諸要素を統合するものとしての「つながり」。
ii.その機能(人間問題の究極的解決・人生の究極的意味の探求)
a.未完成な自己にも拘らず神の恵みに生かされていると言う自覚→まこと、祈り、浄め(禊・祓)。{人間問題の究極的解決}
b.つながり→まこと・中今の立場からの献身、奉仕。{人生の究極的意味の探求}

2009年5月23日土曜日

救済論一般

 第1項 問題の所在
 宗教を単に知的な満足を与える思弁的営みとしてだけではなく、むしろ我々の現実の生活に係わる実践として捉えるとき、最も切実な問題の一つは、すでに触れたように、その「救済論」であろう。つまり、救済、救い、と言う言葉の意味内容は幾分異なるにしても、結局、我々は、如何にして救われるか、あるいは更に言えば、「救われる」とは一体どういうことか、また既に現状のまま「救われて」いるとされるのなら、その根拠は何処にあるのか、と言った類の質問があり、宗教は、その全体系を挙げて、少なくともこの様な問いに対して納得の行く答えを出してくれるものでなければならない。他の点でどれ程魅力的な理論を展開して見せても、この点に答えることがなければ、「宗教」としては矢張り不十分であると言われても仕方がないであろう。我々の「諸宗教の神学」が、実践的な意味を持つためには、カトリックの救済論と夫々の宗教の救済論とを矛盾なく統合する理論を提供し、カトリック以外の宗教--我々の場合は神道--も救いのための正常の道であることを明かにしなければならない。これは、非常に困難な作業であるが、我々の神学の要の一つをなすものであり、小論の主題でもある。
 第2項 救いの概念
 その前に考察して置かねばならない問題がある。それは、「救い、救済」という概念で指示されている事柄自体についてである。即ち、人間は、果して「救われる」必要があるのか、と言うことである。これは、簡単な問題のように見えて、実はそれほど簡単ではない。例えば、従来のキリスト教の救いは、キリスト教的な世界観、人間観を前提にして考えられてきた。その思考の枠内では、「救われるには・・・」という表現は、十分な意味を持ち得た。いわゆる「宣教論」もこの様な枠組を前提として考えられてきた。しかし、そもそもこの様な考え方自体普遍妥当であろうか。周知のように、キリスト教的な「救い観」を認めない人は少なくない。この様な人々は、端的に「誤謬」の内にあると断定すべきであるか。或は、キリスト教では、救いとは、或意味で「存在論的事実」であると理解しているが、他の人々は、救いは、「心理的、認識的、主観的」事柄であると理解している。果してどちらの考え方が「正しい」のであろうか。我々は、未来の出来事に関して、確証を持たないし、また、それに関する「検証」も不可能である。いずれが正しいかどの様にして判断したら良いのだろうか。結局「信仰」の「正しさ」と言うことに帰着するだろうが、前述のように、この問題について吾々は、「形而上学的」な確実さを持つことは出来ない。以下の考察は、この様な問題点を踏まえた上でのものであることを明記して置きたい。
 第3項 カトリックの「救済論」
 この様な脈絡の中で、カトリックの「救済論」を簡単に考察し、これをどの程度他の諸宗教にも適用し得るのか検討する。さて、カトリックの「救済論」における「救い」とは、様々な仕方で表現されてはいるが、究極的には、各々の個人が、そしてもう少し具体的に言えば、この「私」が永久に幸福であることを言う。ちなみに、個人は、具体的には孤立して存在し得ないものであるから、この考えの基本には、社会、宇宙全体の何等かの完成が予想されていることを見落とすべきではない。人はだれしも皆、幸福を求めているから(吾々は、これを「宗教本能」という言葉で表現した)、救いとは、永久の幸福である、とする事については、異論はないであろう。問題は、では、この「幸福」の具体的内容は何か、どうすればそれに到達できるのか、それを妨げているものは何か、などと言う点にある。ここから、各々の宗教・神学における「救済論」が、分かれることになろう。
 カトリックの救済論では、根本的に人間の欲求を肯定する。欲求そのものは、根本的に善である。「幸福」とは、この欲求が充足された状態についての欲求主体の知覚である。即ち、現実の人間とは何か、を考える場合、人間は欲求を持つ実在であるとみなすよりも、実在する欲求そのものであると捉える方が実情に適しているようである。而もこの欲求は複合的であり、様々な形で表現されるが、ある程度人間と言う統体の中で統合を保っている。所で個々の欲求には、その欲求を満たすことのできる個別的なもの(対象)が予想される。もとも現実にその様なものが実在するのか、或は実在するとして実際に欲求を満たし得るのか、と言うことは、別の問題である。何れにせよ、この様な「もの」を欲求の「対象」と呼ぶ。今、ある特定の欲求(例えば食欲)が満たされた時、この様な状態は、この欲求に関する限り、満たされる前より完全な状態になったと言う事ができる。本来、「救い」は、完全・円満に関して「負」から「正」の方向への移行を表わす概念であるから、ある欲求が満たされた状態を非常に広い意味で「救われた」と表現することが出来よう。こうして一般に基本的には、「救い」とは欲求が充足された幸福な状態である、と「定義」することが出来る。所が、吾々の欲求を更に良く観察して見ると、吾々は、単に個々の欲求が満たされるだけではなく、考えられる限りの総ての欲求、即ち、霊的なもの、精神的なもの、肉体的なもの、時間的には、単に未来だけではなく、現在の欲求も含み、社会的な次元でも少なくとも必要な限り、あらゆる欲求が満たされ、更にこの充足状態が時間的にも無限に続く事を求めている。言わば「究極的欲求」とも言うべき欲求のあることを実感していることが分かる。この「究極的欲求」が完全に満たされた状態を厳密な意味での「救い」と呼ぶ。「究極的欲求」が完全に満たされた時、我々は、厳密な意味で「幸福」であると実感するだろう。即ち、救いと幸福とは究極的に同義概念である。
 今、広義の救いと狭義の救いとの関係を見ると、前者の中のあるものは、後者のための手段もしくは促進因と成り得るものがあり、他のものは、後者への進行を破壊もしくは阻害することがある。従って、あらゆる欲求が必ずしも充足されるのではないこと、また充足されたあらゆる「幸福」が、「永久の幸福」でないことも自明である。或「幸福」は、別の「幸福」と矛盾し、これを排除することもしばしば経験されるところである。この様な事実は、次の事を示唆する。即ち、あらゆる欲求は、無秩序に雑然と雑居しているのではなく、本来、全ての欲求を統括する、いわば究極的欲求に秩序付けられ、統合されているのである。しかし、現実の世界では、なんらかの理由に依って、この調和が欠如している。それ故、幸福が、真に「永久」であるためには、この「調和」が再び回復すると共に、「究極的欲求」が、十全に充足される必要がある。こうして究極の救いは、個々の救いの否定の上に成るものではないが、個々の救いが、必然的に究極の救いに繋がるとも言えない。
 第4項 幸福の概念
 所で、人間は、受肉した霊と言われるように、単なる有機物ではない。仮令、「純霊」ではなくとも霊的な存在(霊的有機物と言うべきか)である。それ故、既に述べたように少なくとも思考の次元では人間の「究極的欲求」は、時間的にも、空間的にも、全ての限界を越え、無限なものを求めている。従って、現実に実現するかどうかは別として、もし「究極的欲求」を十全に充足し得るものがあるとしたら、このものは、それ自身「無限なる存在者」であるはずである。カトリックの救済論は、この様な充足が、現実に実現することを肯定し、人間の「永久の幸福」とは、正にこの様な究極的欲求が「無限なる存在者」自身から完全に充足された状態である、と主張する。これが、「幸福」の具体的内容である。
 所で、この様な状態が実際に現実化されるための作動原因に関して言えば、正にこの様な欲求は、人間(及び宇宙)の本質、つまり存在論的な限界を無限に越えるものとして考えられている。即ち、人間は、存在の次元では有限でありながら、認識の次元では無限のものを求めると言う一種の「矛盾」を抱えている。ところで、この認識上の無限の欲求が、存在上でも満たされるには、認識の次元でも、存在の次元でも無限なものによる他はない。
 従って、人間の側には、この状態を現実化するための根拠は、全くないわけである。即ち、人間は、自力ではこれを現実化することが不可能である。従って、この様な欲求を満たすことの出来るものがあるとしたら、それは、「無限な存在者」・無限な「神秘」の側からの無条件、無償の自由な、自発的働きかけによる以外にはない。吾々は、この様な働き掛けを「恵み」と呼ぶ。この恵みに対して人間の「自由な意志」がどの様に関わるのかと言う困難な問題があるが、ここでは、只人間の救いのための唯一の「作動原因」は、ただ神・神秘のみであって、人間の側からのどの様な要因もそれだけでは、この幸福な状態を現実化し得ないこと、「救い」の現実化を要請する根拠が一切ないことを指摘するにとどめる。
 第5項 前提条件
さて、この様な主張には、次の三点が前提として含まれている。
1 第一に、何等かの手段で我々が経験もしくは認識し得る宇宙は、根本的に有限であり、つまり限界がある。宇宙は、全体としても、各々の部分も、それ自身だけでは完結した閉じた系ではなく、他者による補完を絶対的に必要としている。従って、もし完成されるとしたら、それは、原理的に「外から」でなければならない。この様な補完された状態は、多少の知覚を備えた主体にとっては、「喜び」として意識される。これが剥奪される場合、「苦しみ」として知覚される。
2 第二に、宇宙を絶対的に超越する、完全かつ無限なる「神秘」が実在するとの「予想」。宇宙の限界を空間的、時間的のみならず存在的にも超越するものとして、この宇宙を無から創造したとされる無限なるもの、つまり「神秘」の実在が考えられている。従って、「神秘」がもしあれば、それと、その被造物である人間(より厳密には「宇宙」と言うべきであろうが、理論的には大差がない故、分かりやすく人間で代表させて置く)との間には超えることの出来ない断絶がある筈である。つまり、神秘と人間は、単に段階的に違っているだけではなく、質的に絶対的に異なるものであり、両者の間には如何なる連続性もあり得ない。それゆえ人間の内面には、神秘に至るための如何なる能力も備わってはいない、と考えられる。。そればかりか、両者の間には単に存在の面での断絶だけではなく、人間の意志が能動的に神秘を拒否する、つまり罪と言う精神・意識の面での断絶もあるとされている。要するに、超越する神秘の存在である。
3第三に、人間は、この無限なる「神秘」によって補完される可能性がある。特に、人間の場合、もし補完が実現するとしたら、この補完は、他の場合と同様、他者によって果たされるが、最終的・究極的には無限なる「神秘」自身によって成就される。しかも、この神秘による究極的な補完は、単に存在の次元におけるだけではなく、精神・意識の次元においても人間の完成を決定する。つまり、人間は、神秘によって事実上補完されるだけではなく、この事実をある程度意識する必要がある。この事実が、所謂永遠の幸福の基礎となり、その欠如が永遠の不幸、即ち、所謂地獄の永劫の苦しみを説明する根拠をなす。要するに、人間は、神秘から直接に完成され、このことが意識されて人間の幸福となる。それゆえ、少なくとも人間の場合、「在るがままの救い」(存在の次元のみの救い)は、未だ不完全であって、完全な救いのためには、何らかの仕方で、何時かの時点で、「救われた事実」が意識される必要がある。
 第6項 結び
 要するに、カトリックの救済論では、「救い」とは、上述のように、神秘の一方的、且つ無償--神秘以外の如何なる条件にも制約されないで--の、積極的働きかけによって、人間が、それなしには永劫の不幸に陥らざるを得ない、補足的完成(神秘自身)を神秘から意識して受けること、そしてこれを受けることによって上述の存在論的、意志的、二つの断絶が橋渡しされることであり、その結果として宇宙全体が、人間を媒介として何等かの完成に到達することである、と言うことが出来る。以上は、理論の次元での「救済論」であるが、「歴史的」、具体的には、この橋渡しは、キリストであり、神の子と信じられるナザレトのイエスと称する史上の人物によって決定的に行なわれたとされる。
 では、この様な救済論を他の諸宗教にも(ある程度概念を一般化した上で)持ち込むことが出来るだろうか。
 上述の三つの前提は、あらゆる宗教から受け入れられるものであろうか。
1先ず、第一の前提、宇宙の有限性については、理論上、その解釈は様々であるとしても、ともかく、日常の生活では、吾々が無限でないことは、経験に基づく自明の事実であろう。従って、事実としてはどの宗教も受け入れるはずである。この前提については、大きな問題はないだろう。そもそも「救済」と言うことが問題になるのは、吾々が自己の有限性を自覚するからに他ならない。
2 第二の前提、つまり超越する神秘の存在に関しては、明らかに、これを認めない宗教がある。この様な宗教の場合、当然第三の前提をも認める訳には行かないであろう。所で、この第二の前提は、果たして普遍妥当であり、正常な人間ならば、誰でも問題なく受け入れ得るだろうか。事実問題としてこの前提を受け入れない人々は少なくない。しかし、全宇宙の創造主たる超越神の存在の主張、つまり、全宇宙に対立する神秘が在ること、そしてこれは、誰でもがその理性を正常に働かせさえすれば認めることが出来るものであると、の主張は、それほど明白だろうか。論理必然性による結論であろうか。ここで詳述する余裕はないが、結論を言えば、この主張は、凡ゆる理性を必然的に納得させる程明白ではない。従ってこれを認めないことは、もう一つ別の考え方であって、必ずしも誤謬と言う訳には行かないのではないか。確かに吾々の宇宙観を容認した後は、この宇宙観に対して誤謬と言うことは出来るが、これは一種の悪循環論法である。何れにせよ、このことは、この第二の前提は、ある程度違った仕方で概念化される可能性のあることを示唆しているのではないだろうか。誤解を恐れずに敢えて言えば、人が救われるのは「事実」に依ってであって、「言葉」に依ってではないだろう。
 更に、問題をもっと具体的に、詳細に眺めるならば、確かに、カトリック神学が、概念化しているような、「超越する神秘」を立てない宗教も少なくないが、しかしその様な場合でも、「事実として」は、つまり日々の宗教実践の場では、この概念ではなくとも、この概念が指し示そうとしている「もの」を暗暗裡に認め、或は、少なくともそれを積極的に排除するものではないこと、は言えるのではないか(例えば、阿弥陀仏信仰)。
3 第三の前提、つまり、神秘による補完の可能性については、勿論、神秘の実在を認めない場合は、論外であるが、カトリック神学で考えられているような神秘でなくとも、何らかの仕方で「神秘的なもの」を認める場合、補完の「可能性」をどう理解するかなどについて意見の違いはあっても、原則的に同意できるものと思われる。但し、有限なものが、自らにとって全く「異質(でなければならない)
」のものによってどの様にして補完され得ると理解できるだろうか。ここに一つの解き難いアポリアのあることは否め無い。しかし、これは、神秘の超越性と内在性に関する問題の一つの適用に他ならない。この点を抜きにすれば、カトリックの救済論も、もしその表現に過度に固執しなければ、その言わんとするところは、大方の宗教でも受け入れられるのではないだろうか。
 以上述べた様な救いの概念は、「総論」としては、つまり人は誰でも決定的な幸福を求め、それが満たされるのが救いであるとは、誰でもが余り異議なく認めることが出来るのではないか。しかし乍ら、「各論」となると誰でもが同意できるような結論は、中々困難である。すなわち、「究極的欲求」とは具体的に何に存するのか、経験内のものか、あるいはそれを超えるものか、この様な欲求は、現実に満たされ得るものか、もし満たされるとすれば、それは何によって、どの様に満たされるのか、などと言う問題に対する答えは、前述の様に夫々の人の宇宙観、人間観などに左右されるものであるから、統一見解は難しい。極く抽象的に結論を言えば、基本的には、どの様な救済論でも上述の「総論」を認めるのは困難ではないだろう。「各論」に対しては、カトリックの救済論が、本質的には、人間の側からの救いの条件を認めないのであるからこの救済論の前提を直接的、積極的に(例えば超越的な神は、人間の究極の幸福と基本的に矛盾すると言う風に)否定しない限り、どの様な宗教の救済論も或程度これと調和する可能性があると言えよう。換言すれば、具体的な「事実」、例えば、イエス・キリスト、玄義、秘跡、教会などをそのまま受け入れるのは、困難であるが、理論としてのカトリックの「救済論」は、どの宗教ともそれほど矛盾するものではない、と言っていいのではないか。

2009年5月22日金曜日

普遍救済意志

神秘の普遍救済意志、つまり、神秘は、人間の一部分を救うことだけを意志しているのでなく、あらゆる人間を例外なく救済することを意志する、との主張について簡単に触れる。先ず、この概念には、「救い」若しくは、「救済」の概念が前提となっている。従って、救いとはなにか、そもそも人間は、救われねばならないのか、と言う根本的な問題が問われねばならない。この設問は、余りにも常軌を逸しているようだが、それぞれの宗教における「救い」の概念を理解する作業仮説として意味があろう。
 純理的に考えれば、人間には、欲求があるが、それが満たされないとしても、或いは、それが苦痛の原因となったとしても、必ずしも不条理ではない。逆の事態に対する必然性は、人間の内にないからである。つまり人間は、幸福を願望するが、不幸になったとしても矛盾ではない。徹底的な諦めか、自暴自棄になることが予想できるが、存在論的には、問題はない。しかし、実存の次元では、やはり、人間が最終的に不幸になるのは、不条理である。そして、宗教は、正に実存の領域の事柄であるから、言葉はどうあれ、救いを問題としないことは、事実上あり得ない。
 それ故、救いは、すべての宗教の前提である。問題は、救いとは何か、と言う内容の理解である。しかし、この問題自体に深入りしないで、一応常識的に、救いとは、最終的な幸せであり、それはすべての欲求が完全に満たされた状態である、理解しておく。そしてこの様な仕方で欲求を満たし得るものは、所謂「神秘」と呼ばれるものである。この様に受け取ると、救いは、ただ神秘の側からの一方的な働きであることが分かる。従って、若し、救いがあるとすれば、それは、神秘の一方的な意志の結果であるということになる。即ち、全人類の救済は、神秘の意志自体にその根拠があるのであって、人間の側に根拠があるのではない。つまり人間の側からは、救済のための条件はない。従って、神秘の側から、人間を救済するとの意志がなければ、そもそも救済は成立しない。それゆえ、救済論が成立するには、神秘の救済意志を前提としなければならない。但し、人間は、自由意志があるから、神秘の側からの働き掛けを拒否することが常に可能である。しかし、この意志を前提しても、果たしてこの意志は、上述のように普遍的なものかどうかが問題となる。普遍的だということは、一切の例外を認めないということであろうか。ここに、普遍救済意志を認めた場合、人間の自由意志との関わりはどうなるのかという古来論議されてきた難問が残る。更に、自由意志によって受け入れると言う行為そのものも神秘からの無償の恵みである。拒否する場合も、この受け入れのための恵みがあるはずであるから、ここにどの様にして、この恵みに逆らう可能性が考えられ得るのかと言う、きわめて困難な問題が生じる。