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2009年5月27日水曜日

神道とは

§1.「神道」の史的展望:
 「神道」と言う言葉によって表示されている事態を簡潔に定義することは、難しい。それは、この事態が極めて流動的であり、時代と共に柔軟に変遷しているように見えるからである。
 さて、今日、日本列島と呼ばれている島弧群の地形がほぼ現在の形に近づいたのは、鮮新世(約500万年前-200万年前)に入ってからだと言われている。また、四面が海で囲まれる様になったのが、沖積世(約一万年前-現在)になってから、そして九州と四国が本州から離れて夫々島の形になったのは、約八千年前であると言われる。この列島に明確な石器や遺構のはっきりした遺跡やヒトの化石があらわれるのは、新人(ホモ・サピエンス)の段階で、いまから三、四万年前の氷河時代(ウルム期)である。恐らくこの悠久の時の流れの間に、無数の個人や、そして特に個人の小集団が、あるいは陸路で、あるいは、それが絶たれた後は島伝いや海流に乗って、波状に列島に渡来し、次々と各地に住み着いて行ったのであろう。これらの集団は、この列島に堆積し、併存し、混合し、日本民族の複雑で多様な身体的形質、言語的、文化的性格を形成した。また後から渡来した集団も、先住の種族を駆逐し、殲滅するというようなことはなく、先住民との混血、混合は、日本列島の地域ごとに多様であった。
 これらの個人もしくは集団の出自は、元より多種多様であり、一々これを個別的に同定することは不可能であるが、彼等が、身体的形質、言語、文化現象などに残した痕跡から、その大まかな趨勢を知るのは、必ずしも不可能ではない。しかし、それらは飽く迄も間接的な推論の域を出難いので、論者の解釈の相違によって種々の結論のあることはやむを得ない。小論の目的は、宗教現象の解明であるから、主として言語学的な痕跡から一応の作業仮説を立てて置きたい。例えば、村山七郎氏によれば、「日本語は南島系言語のうえにアルタイ=ツングース系の言語が重なり、後者の文法形式が下層言語(B[南島語系要素=引用者])に及んで成立したものとみられる。日本語は文法形式においてアルタイ=ツングース的、語彙において南島語的、より少なくアルタイ=ツングース的といえる。」 勿論、このことから直ちに諸集団の出自を断定することは差し控えるべきであるが、少なくとも渡来集団は同一種のみではなく、南方的要素と北方的要素が様々な仕方で長い年月をかけて(一部は既に渡来以前に)融合して行ったと言うことは出来よう。大体の傾向としては、先ず南方的要素が列島全体を覆い、その上に北方的要素が重層したと考えて良いのではないかと思われる。
 ほぼ一万年にわたって継続したと推定される縄文時代の精神・宗教現象について正確に知るのは至難である。所謂縄文時代人が、その全期間を通じて同一の「人種」に属していたものかどうか、これも確認は至難であろうが、恐らくは、前述のように、様々な小集団が北から、南から何回にも亘って列島に渡来し、徐々に融合を重ねて行ったものであろう。従って、ある一つの、例えば北方系の大集団が、他の、例えば南方系の大集団を、駆逐もしくは征服したのではなく、仮令地域的には小規模の征服や支配・服属関係があったにしろ、全体としては、寧ろ、融合、同化が主であったのではなかろうか。闘争の形跡は、縄文時代よりも、むしろ弥生時代に顕著であると言われている。こうして全体として見た場合、南方系の方が、幾分優勢であったと言うことであろう。
 人間には、その具体的な現われは様々であるにしても、一般に「宗教本能」があることは、ほぼ確かである。また人間の本性が「社会的」存在である限り、この宗教本能も集団を媒介として表現されるのが通常であろう。従って、少なくとも生活に根ざす人間集団がある所には、最広義での宗教現象も存在すると言えるのではないか。従って、南北系の何れを問わず、前述の各々の小集団は、既にその出発地に於て何等かの宗教的な信念をその集団内で共有していたであろう。それは極く素朴な感情に過ぎず、勿論論理的な形では未だ表現されてはいなかったかも知れない。しかし、非常に広い意味で「制度としての宗教」であったに違いない。即ち、単なる感情の高ぶりではなく、或程度継続した考え方、繰り返し可能な行動、象徴として以外は殆ど無意味な行為などを伴う集団的な「宗教現象」であったであろう。この様な「信念・宗教」は、列島にもたらされることによって、新たな風土に順応し、回りの諸集団との接触によって何等かの変容を蒙り、総合され、ここにいわば、「縄文人の宗教」とも言うべきものを形成して行った。その内容は詳かにはなしえないが、しかし、基本的には狩猟採集文化を営み、比較的に組織化の進んだ集落をなして住み、文化遺物も豊かであり、人口密度は全期間を通して太平洋側の東日本が西日本よりも圧倒的に高く、弥生時代と逆の傾向を示すと言われている事などを手がかりに、幾分縄文人の宗教状態を推定するのは不可能ではないだろう。
 所謂弥生文化が、紀元前三、二世紀に起こり、その下限は、紀元二、三世紀であるとするのは、大体の定説である。また地域的に北九州で始まり、稲作特に水稲農業と結び付いていたことも立証されている。しかし、具体的にどの様にして縄文文化から弥生文化へ移行して行ったのかと言う点については不明な点が多い。別の観点から言えば、元来列島に存在していなかったとされるイネが、どの様にして列島に伝わり、やがて稲作農業が一部を除くほぼ列島全域に普及するに至ったかと言うことを具体的に跡付けるのは困難である。稲作農業が普及するには、ただ米だけがもたらされると言うのでは十分ではない。時間的には少なくとも一ケ年を要する技術のシステム全体が必要であるから、所謂知識だけの技術導入のみではなく、実際に稲作をしていた人々の集団の導入も同時に考えられねばならないであろう。恐らく稲作農業を営む複数の集団が技術と共に主として北九州方面に渡来し、稲作に適し、しかも人口が比較的希薄であった西日本に広がり、その過程で、先住の所謂縄文人と融合して行ったのであろう。勿論、在来人の方からも積極的に技術を取り入れ、これを独自に発展させ得る主体的な条件を備えていたものと思われる。また稲作農業を営む諸集団は、ある日突然に現われた全く異質の集団と考えるよりも、少なくとも部分的には、元々何らかの意味で在来人と関わりのあった人々と見た方がよさそうである。
 こうして、多少の地域差はあったが、在来の縄文人をも含めて比較的短期間に弥生文化への移行が達成された。約五~六〇〇年に及ぶとされる弥生文化の内容については、特に史料的に不明な点が多々あるが、大勢としては、一つの纏まりを有する文化であり、「経済・社会・文化の基本的な面で」歴史時代の所謂日本人と「共通性をもっ」ていることは否めない。従ってこの時期をもって今日の「日本民族」の形成期とする江上氏らの説は、妥当であるとしなければなるまい。
 即ち、弥生時代の文化が現代の日本文化とほぼ同質であることは、一般に認められている所で、現代の日本民族は、弥生時代にほぼその根幹が成立したと考えて大過はあるまい。言うまでもなく「民族」と言う近代的概念がそのまま太古に当て嵌る分けでもなく、また「根幹」自体が、雑多な要素を含むのは周知のことである。又、弥生時代の人間集団にも何等かの形態の「宗教/信仰」が存在していたことはほぼ確実で、この事実は、考古学的な研究によっても証明されている。
 凡そ文化は、通常の場合、無から突然に発生するものではなく、常に「その前段階」を予想するものであるから、この時期に日本の、特にその精神文化が総て忽然と(天界から降って)発生したと考えることは無理であろうが、少なくともこの文化の中核となるものが、この時期に徐々に熟成されて行ったと見て良い。この事は、宗教についても妥当する。凡そ、人間は、総て宗教本能を持ち、これは何等かの集団の中で表現されることが多いから、人間集団のあるところ最も広い意味での宗教現象が見られる筈である。それゆえこの列島に人間集団が住み着き始めた時点から、宗教現象があったに違いないが、その実態を知るために我々に残された資料は余りにも乏しい。しかし、弥生文化の時代になると、そろそろ「日本民族の宗教」について論じても必ずしも可笑しくはない時期に来たと言うことは許されよう。即ち、少なくとも稲作農耕文化が列島に普及した頃から、可成りの纏まりのある、文化的にほぼ類似の人間集団を対象として考える事が出来るであろう。この様な集団がどのようにして成立したのか、その構成機構はどのようであったか、詳らかにするのは、困難であるが、一応作業仮設として我々の考察の出発点とすることは許されよう。
 さて、特に弥生時代の後半には水利を中心に大小の河川に添って比較的纏まりのある集落が発達したことが知られている。恐らくこれらの集落はそれぞれの「長(おさ)」を中心とした比較的纏まった集団をなし、固有の(と言うことは必ずしも他とは異質のと言う意味ではない)“信仰系”を持っていたであろう。あるいは、むしろ逆にこの様な“信仰系”の統合者が集団の長を兼ね集落を維持していたのであろう。この様な“信仰系”を担う集団は、記憶が失われた遠い昔からほぼ同一の地域に発展を遂げて来たものもあろうが、また別の(海外を含む)地域から新に移住して来たものもあろう。それら“信仰系”は、比較的初期の段階では夫々相対的に独立して独自の発展を遂げると共に、やがて他の集団や「外来」の集団と接触を重ね、これらの人々のもたらす「外来」の要素をも吸収して豊かなものとなったであろう。しかし、一方ではそれを担う集団と消長を共にし、集団の「政治的」な統・廃合に伴って“信仰系”の統・廃合も行なわれたことであろう。こうして列島内の諸集団が政治的に統合され、後に「天皇家」と呼ばれる様になる宗族によって中央統一政権が成立すると、宗教・信仰も天皇家の“信仰系”を中心に少なくとも形態的にはほぼ纏まった単一の「宗教」となった。我々は、以上の様な経過を『古事記』や『日本書紀』などの「古典」を通してもほぼ推察することが出来る。また逆に言えば、この様にして形成された宗教集団が記・紀などを生み出した訳である。所で、上述の様な信仰系の統・廃合は、現代的な所謂「思想統制」として(部分的にはあったとしても)意図的に且つ排他的に遂行された訳ではなかったであろうから、上記の文献自体やもろもろの『風土記』などからも伺われる様に、様々な異質の“信仰系”が生き残り、特に民俗信仰の形で基層をなしてきた。神道を考える場合この大切な事実を見落としてはならないであろう。
 以上の様に諸信仰系の統合は、ある時点以降は天皇家を中心とする所謂王朝貴族によって進められて行ったことが確かめられるが、勿論総ての要素が統合され尽くした訳ではない。しかし、形の上では所謂律令制国家の成立と共に一応完成し、多くの神社は国家の奉幣に預かるものとなった。こうして「神道」は、公(おおやけ)の祭りを遂行する主体となった。この時期の神道を、クニによって統合されてないものをも含めて律令制神道と仮に呼んで置く。これには、道教、儒教、陰陽道、(山岳)修験道などの影響が考えられるのはもちろんである。こうして歴史時代に入ると共に「神道」は、ほぼ均質の日本民族固有の宗教として、日本人の精神構造を支えながら、様々な外来の思想・宗教と交渉しながら現代に生き延びて行くのである。 とにかく、この生命体は、時代と共にその当時の様々な思想、宗教の栄養を吸収して発展成長してきた。実は、これら総てを言わば「乗り熟 (こな) して」来たもの、更に未来に渡って「乗り熟して」行くもの、つまり、この様な「受容原理」を担う「基体」を我々は広く神道と呼びたい。従って、歴史の上に現われる「神道」のどれか一つの形態のみを取り上げて、それだけが純正な神道であると主張するのは、一面に偏した誤りである。逆に、総ての「外来」の要素を完全に排除して単純に古来の思想・信仰に戻りさえすれば、真正の神道であると考えるのも正しくない。神道は、今正に生きている生命体だからである。それゆえ、我々の作業は、太古の時代から現在に至るまでこの列島で生き続けて来ているこの神道と呼ばれる「受容原理」の実態は、一体何であるのかを出来るかぎり概念的に明らかにすることである。この「受容原理」の中核は、二千年以上に亘る歴史の様々な変動にも拘らず、常に「倭(やまと)民族」としての自己同一性を動的に保持してきた生命原理である。そしてこの中核の更に中心を成すものが、広義での宗教信仰もしくは信念である。即ち、この様な信念は、単に「民族」の始点にあっただけではなく、今日も種々形を変えながらも日本文化を深層において規定し続けているのである。この主体的受容原理(の基体)を歴史に表れた様々な神道の形態と区別して「基層神道」と呼ぶことにする。単に時間的な意味で根源的であるだけでなく、時代を通じて様々な思想・文化をその根底において現在も支え続けているとの意味である。即ち、「基層神道」とは、倭民族と共に成立し、倭民族の歴史を通じて現代にまで生き続けてきた宗教的信仰のことである。