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2009年5月22日金曜日

普遍救済意志

神秘の普遍救済意志、つまり、神秘は、人間の一部分を救うことだけを意志しているのでなく、あらゆる人間を例外なく救済することを意志する、との主張について簡単に触れる。先ず、この概念には、「救い」若しくは、「救済」の概念が前提となっている。従って、救いとはなにか、そもそも人間は、救われねばならないのか、と言う根本的な問題が問われねばならない。この設問は、余りにも常軌を逸しているようだが、それぞれの宗教における「救い」の概念を理解する作業仮説として意味があろう。
 純理的に考えれば、人間には、欲求があるが、それが満たされないとしても、或いは、それが苦痛の原因となったとしても、必ずしも不条理ではない。逆の事態に対する必然性は、人間の内にないからである。つまり人間は、幸福を願望するが、不幸になったとしても矛盾ではない。徹底的な諦めか、自暴自棄になることが予想できるが、存在論的には、問題はない。しかし、実存の次元では、やはり、人間が最終的に不幸になるのは、不条理である。そして、宗教は、正に実存の領域の事柄であるから、言葉はどうあれ、救いを問題としないことは、事実上あり得ない。
 それ故、救いは、すべての宗教の前提である。問題は、救いとは何か、と言う内容の理解である。しかし、この問題自体に深入りしないで、一応常識的に、救いとは、最終的な幸せであり、それはすべての欲求が完全に満たされた状態である、理解しておく。そしてこの様な仕方で欲求を満たし得るものは、所謂「神秘」と呼ばれるものである。この様に受け取ると、救いは、ただ神秘の側からの一方的な働きであることが分かる。従って、若し、救いがあるとすれば、それは、神秘の一方的な意志の結果であるということになる。即ち、全人類の救済は、神秘の意志自体にその根拠があるのであって、人間の側に根拠があるのではない。つまり人間の側からは、救済のための条件はない。従って、神秘の側から、人間を救済するとの意志がなければ、そもそも救済は成立しない。それゆえ、救済論が成立するには、神秘の救済意志を前提としなければならない。但し、人間は、自由意志があるから、神秘の側からの働き掛けを拒否することが常に可能である。しかし、この意志を前提しても、果たしてこの意志は、上述のように普遍的なものかどうかが問題となる。普遍的だということは、一切の例外を認めないということであろうか。ここに、普遍救済意志を認めた場合、人間の自由意志との関わりはどうなるのかという古来論議されてきた難問が残る。更に、自由意志によって受け入れると言う行為そのものも神秘からの無償の恵みである。拒否する場合も、この受け入れのための恵みがあるはずであるから、ここにどの様にして、この恵みに逆らう可能性が考えられ得るのかと言う、きわめて困難な問題が生じる。