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2009年5月23日土曜日

救済論一般

 第1項 問題の所在
 宗教を単に知的な満足を与える思弁的営みとしてだけではなく、むしろ我々の現実の生活に係わる実践として捉えるとき、最も切実な問題の一つは、すでに触れたように、その「救済論」であろう。つまり、救済、救い、と言う言葉の意味内容は幾分異なるにしても、結局、我々は、如何にして救われるか、あるいは更に言えば、「救われる」とは一体どういうことか、また既に現状のまま「救われて」いるとされるのなら、その根拠は何処にあるのか、と言った類の質問があり、宗教は、その全体系を挙げて、少なくともこの様な問いに対して納得の行く答えを出してくれるものでなければならない。他の点でどれ程魅力的な理論を展開して見せても、この点に答えることがなければ、「宗教」としては矢張り不十分であると言われても仕方がないであろう。我々の「諸宗教の神学」が、実践的な意味を持つためには、カトリックの救済論と夫々の宗教の救済論とを矛盾なく統合する理論を提供し、カトリック以外の宗教--我々の場合は神道--も救いのための正常の道であることを明かにしなければならない。これは、非常に困難な作業であるが、我々の神学の要の一つをなすものであり、小論の主題でもある。
 第2項 救いの概念
 その前に考察して置かねばならない問題がある。それは、「救い、救済」という概念で指示されている事柄自体についてである。即ち、人間は、果して「救われる」必要があるのか、と言うことである。これは、簡単な問題のように見えて、実はそれほど簡単ではない。例えば、従来のキリスト教の救いは、キリスト教的な世界観、人間観を前提にして考えられてきた。その思考の枠内では、「救われるには・・・」という表現は、十分な意味を持ち得た。いわゆる「宣教論」もこの様な枠組を前提として考えられてきた。しかし、そもそもこの様な考え方自体普遍妥当であろうか。周知のように、キリスト教的な「救い観」を認めない人は少なくない。この様な人々は、端的に「誤謬」の内にあると断定すべきであるか。或は、キリスト教では、救いとは、或意味で「存在論的事実」であると理解しているが、他の人々は、救いは、「心理的、認識的、主観的」事柄であると理解している。果してどちらの考え方が「正しい」のであろうか。我々は、未来の出来事に関して、確証を持たないし、また、それに関する「検証」も不可能である。いずれが正しいかどの様にして判断したら良いのだろうか。結局「信仰」の「正しさ」と言うことに帰着するだろうが、前述のように、この問題について吾々は、「形而上学的」な確実さを持つことは出来ない。以下の考察は、この様な問題点を踏まえた上でのものであることを明記して置きたい。
 第3項 カトリックの「救済論」
 この様な脈絡の中で、カトリックの「救済論」を簡単に考察し、これをどの程度他の諸宗教にも適用し得るのか検討する。さて、カトリックの「救済論」における「救い」とは、様々な仕方で表現されてはいるが、究極的には、各々の個人が、そしてもう少し具体的に言えば、この「私」が永久に幸福であることを言う。ちなみに、個人は、具体的には孤立して存在し得ないものであるから、この考えの基本には、社会、宇宙全体の何等かの完成が予想されていることを見落とすべきではない。人はだれしも皆、幸福を求めているから(吾々は、これを「宗教本能」という言葉で表現した)、救いとは、永久の幸福である、とする事については、異論はないであろう。問題は、では、この「幸福」の具体的内容は何か、どうすればそれに到達できるのか、それを妨げているものは何か、などと言う点にある。ここから、各々の宗教・神学における「救済論」が、分かれることになろう。
 カトリックの救済論では、根本的に人間の欲求を肯定する。欲求そのものは、根本的に善である。「幸福」とは、この欲求が充足された状態についての欲求主体の知覚である。即ち、現実の人間とは何か、を考える場合、人間は欲求を持つ実在であるとみなすよりも、実在する欲求そのものであると捉える方が実情に適しているようである。而もこの欲求は複合的であり、様々な形で表現されるが、ある程度人間と言う統体の中で統合を保っている。所で個々の欲求には、その欲求を満たすことのできる個別的なもの(対象)が予想される。もとも現実にその様なものが実在するのか、或は実在するとして実際に欲求を満たし得るのか、と言うことは、別の問題である。何れにせよ、この様な「もの」を欲求の「対象」と呼ぶ。今、ある特定の欲求(例えば食欲)が満たされた時、この様な状態は、この欲求に関する限り、満たされる前より完全な状態になったと言う事ができる。本来、「救い」は、完全・円満に関して「負」から「正」の方向への移行を表わす概念であるから、ある欲求が満たされた状態を非常に広い意味で「救われた」と表現することが出来よう。こうして一般に基本的には、「救い」とは欲求が充足された幸福な状態である、と「定義」することが出来る。所が、吾々の欲求を更に良く観察して見ると、吾々は、単に個々の欲求が満たされるだけではなく、考えられる限りの総ての欲求、即ち、霊的なもの、精神的なもの、肉体的なもの、時間的には、単に未来だけではなく、現在の欲求も含み、社会的な次元でも少なくとも必要な限り、あらゆる欲求が満たされ、更にこの充足状態が時間的にも無限に続く事を求めている。言わば「究極的欲求」とも言うべき欲求のあることを実感していることが分かる。この「究極的欲求」が完全に満たされた状態を厳密な意味での「救い」と呼ぶ。「究極的欲求」が完全に満たされた時、我々は、厳密な意味で「幸福」であると実感するだろう。即ち、救いと幸福とは究極的に同義概念である。
 今、広義の救いと狭義の救いとの関係を見ると、前者の中のあるものは、後者のための手段もしくは促進因と成り得るものがあり、他のものは、後者への進行を破壊もしくは阻害することがある。従って、あらゆる欲求が必ずしも充足されるのではないこと、また充足されたあらゆる「幸福」が、「永久の幸福」でないことも自明である。或「幸福」は、別の「幸福」と矛盾し、これを排除することもしばしば経験されるところである。この様な事実は、次の事を示唆する。即ち、あらゆる欲求は、無秩序に雑然と雑居しているのではなく、本来、全ての欲求を統括する、いわば究極的欲求に秩序付けられ、統合されているのである。しかし、現実の世界では、なんらかの理由に依って、この調和が欠如している。それ故、幸福が、真に「永久」であるためには、この「調和」が再び回復すると共に、「究極的欲求」が、十全に充足される必要がある。こうして究極の救いは、個々の救いの否定の上に成るものではないが、個々の救いが、必然的に究極の救いに繋がるとも言えない。
 第4項 幸福の概念
 所で、人間は、受肉した霊と言われるように、単なる有機物ではない。仮令、「純霊」ではなくとも霊的な存在(霊的有機物と言うべきか)である。それ故、既に述べたように少なくとも思考の次元では人間の「究極的欲求」は、時間的にも、空間的にも、全ての限界を越え、無限なものを求めている。従って、現実に実現するかどうかは別として、もし「究極的欲求」を十全に充足し得るものがあるとしたら、このものは、それ自身「無限なる存在者」であるはずである。カトリックの救済論は、この様な充足が、現実に実現することを肯定し、人間の「永久の幸福」とは、正にこの様な究極的欲求が「無限なる存在者」自身から完全に充足された状態である、と主張する。これが、「幸福」の具体的内容である。
 所で、この様な状態が実際に現実化されるための作動原因に関して言えば、正にこの様な欲求は、人間(及び宇宙)の本質、つまり存在論的な限界を無限に越えるものとして考えられている。即ち、人間は、存在の次元では有限でありながら、認識の次元では無限のものを求めると言う一種の「矛盾」を抱えている。ところで、この認識上の無限の欲求が、存在上でも満たされるには、認識の次元でも、存在の次元でも無限なものによる他はない。
 従って、人間の側には、この状態を現実化するための根拠は、全くないわけである。即ち、人間は、自力ではこれを現実化することが不可能である。従って、この様な欲求を満たすことの出来るものがあるとしたら、それは、「無限な存在者」・無限な「神秘」の側からの無条件、無償の自由な、自発的働きかけによる以外にはない。吾々は、この様な働き掛けを「恵み」と呼ぶ。この恵みに対して人間の「自由な意志」がどの様に関わるのかと言う困難な問題があるが、ここでは、只人間の救いのための唯一の「作動原因」は、ただ神・神秘のみであって、人間の側からのどの様な要因もそれだけでは、この幸福な状態を現実化し得ないこと、「救い」の現実化を要請する根拠が一切ないことを指摘するにとどめる。
 第5項 前提条件
さて、この様な主張には、次の三点が前提として含まれている。
1 第一に、何等かの手段で我々が経験もしくは認識し得る宇宙は、根本的に有限であり、つまり限界がある。宇宙は、全体としても、各々の部分も、それ自身だけでは完結した閉じた系ではなく、他者による補完を絶対的に必要としている。従って、もし完成されるとしたら、それは、原理的に「外から」でなければならない。この様な補完された状態は、多少の知覚を備えた主体にとっては、「喜び」として意識される。これが剥奪される場合、「苦しみ」として知覚される。
2 第二に、宇宙を絶対的に超越する、完全かつ無限なる「神秘」が実在するとの「予想」。宇宙の限界を空間的、時間的のみならず存在的にも超越するものとして、この宇宙を無から創造したとされる無限なるもの、つまり「神秘」の実在が考えられている。従って、「神秘」がもしあれば、それと、その被造物である人間(より厳密には「宇宙」と言うべきであろうが、理論的には大差がない故、分かりやすく人間で代表させて置く)との間には超えることの出来ない断絶がある筈である。つまり、神秘と人間は、単に段階的に違っているだけではなく、質的に絶対的に異なるものであり、両者の間には如何なる連続性もあり得ない。それゆえ人間の内面には、神秘に至るための如何なる能力も備わってはいない、と考えられる。。そればかりか、両者の間には単に存在の面での断絶だけではなく、人間の意志が能動的に神秘を拒否する、つまり罪と言う精神・意識の面での断絶もあるとされている。要するに、超越する神秘の存在である。
3第三に、人間は、この無限なる「神秘」によって補完される可能性がある。特に、人間の場合、もし補完が実現するとしたら、この補完は、他の場合と同様、他者によって果たされるが、最終的・究極的には無限なる「神秘」自身によって成就される。しかも、この神秘による究極的な補完は、単に存在の次元におけるだけではなく、精神・意識の次元においても人間の完成を決定する。つまり、人間は、神秘によって事実上補完されるだけではなく、この事実をある程度意識する必要がある。この事実が、所謂永遠の幸福の基礎となり、その欠如が永遠の不幸、即ち、所謂地獄の永劫の苦しみを説明する根拠をなす。要するに、人間は、神秘から直接に完成され、このことが意識されて人間の幸福となる。それゆえ、少なくとも人間の場合、「在るがままの救い」(存在の次元のみの救い)は、未だ不完全であって、完全な救いのためには、何らかの仕方で、何時かの時点で、「救われた事実」が意識される必要がある。
 第6項 結び
 要するに、カトリックの救済論では、「救い」とは、上述のように、神秘の一方的、且つ無償--神秘以外の如何なる条件にも制約されないで--の、積極的働きかけによって、人間が、それなしには永劫の不幸に陥らざるを得ない、補足的完成(神秘自身)を神秘から意識して受けること、そしてこれを受けることによって上述の存在論的、意志的、二つの断絶が橋渡しされることであり、その結果として宇宙全体が、人間を媒介として何等かの完成に到達することである、と言うことが出来る。以上は、理論の次元での「救済論」であるが、「歴史的」、具体的には、この橋渡しは、キリストであり、神の子と信じられるナザレトのイエスと称する史上の人物によって決定的に行なわれたとされる。
 では、この様な救済論を他の諸宗教にも(ある程度概念を一般化した上で)持ち込むことが出来るだろうか。
 上述の三つの前提は、あらゆる宗教から受け入れられるものであろうか。
1先ず、第一の前提、宇宙の有限性については、理論上、その解釈は様々であるとしても、ともかく、日常の生活では、吾々が無限でないことは、経験に基づく自明の事実であろう。従って、事実としてはどの宗教も受け入れるはずである。この前提については、大きな問題はないだろう。そもそも「救済」と言うことが問題になるのは、吾々が自己の有限性を自覚するからに他ならない。
2 第二の前提、つまり超越する神秘の存在に関しては、明らかに、これを認めない宗教がある。この様な宗教の場合、当然第三の前提をも認める訳には行かないであろう。所で、この第二の前提は、果たして普遍妥当であり、正常な人間ならば、誰でも問題なく受け入れ得るだろうか。事実問題としてこの前提を受け入れない人々は少なくない。しかし、全宇宙の創造主たる超越神の存在の主張、つまり、全宇宙に対立する神秘が在ること、そしてこれは、誰でもがその理性を正常に働かせさえすれば認めることが出来るものであると、の主張は、それほど明白だろうか。論理必然性による結論であろうか。ここで詳述する余裕はないが、結論を言えば、この主張は、凡ゆる理性を必然的に納得させる程明白ではない。従ってこれを認めないことは、もう一つ別の考え方であって、必ずしも誤謬と言う訳には行かないのではないか。確かに吾々の宇宙観を容認した後は、この宇宙観に対して誤謬と言うことは出来るが、これは一種の悪循環論法である。何れにせよ、このことは、この第二の前提は、ある程度違った仕方で概念化される可能性のあることを示唆しているのではないだろうか。誤解を恐れずに敢えて言えば、人が救われるのは「事実」に依ってであって、「言葉」に依ってではないだろう。
 更に、問題をもっと具体的に、詳細に眺めるならば、確かに、カトリック神学が、概念化しているような、「超越する神秘」を立てない宗教も少なくないが、しかしその様な場合でも、「事実として」は、つまり日々の宗教実践の場では、この概念ではなくとも、この概念が指し示そうとしている「もの」を暗暗裡に認め、或は、少なくともそれを積極的に排除するものではないこと、は言えるのではないか(例えば、阿弥陀仏信仰)。
3 第三の前提、つまり、神秘による補完の可能性については、勿論、神秘の実在を認めない場合は、論外であるが、カトリック神学で考えられているような神秘でなくとも、何らかの仕方で「神秘的なもの」を認める場合、補完の「可能性」をどう理解するかなどについて意見の違いはあっても、原則的に同意できるものと思われる。但し、有限なものが、自らにとって全く「異質(でなければならない)
」のものによってどの様にして補完され得ると理解できるだろうか。ここに一つの解き難いアポリアのあることは否め無い。しかし、これは、神秘の超越性と内在性に関する問題の一つの適用に他ならない。この点を抜きにすれば、カトリックの救済論も、もしその表現に過度に固執しなければ、その言わんとするところは、大方の宗教でも受け入れられるのではないだろうか。
 以上述べた様な救いの概念は、「総論」としては、つまり人は誰でも決定的な幸福を求め、それが満たされるのが救いであるとは、誰でもが余り異議なく認めることが出来るのではないか。しかし乍ら、「各論」となると誰でもが同意できるような結論は、中々困難である。すなわち、「究極的欲求」とは具体的に何に存するのか、経験内のものか、あるいはそれを超えるものか、この様な欲求は、現実に満たされ得るものか、もし満たされるとすれば、それは何によって、どの様に満たされるのか、などと言う問題に対する答えは、前述の様に夫々の人の宇宙観、人間観などに左右されるものであるから、統一見解は難しい。極く抽象的に結論を言えば、基本的には、どの様な救済論でも上述の「総論」を認めるのは困難ではないだろう。「各論」に対しては、カトリックの救済論が、本質的には、人間の側からの救いの条件を認めないのであるからこの救済論の前提を直接的、積極的に(例えば超越的な神は、人間の究極の幸福と基本的に矛盾すると言う風に)否定しない限り、どの様な宗教の救済論も或程度これと調和する可能性があると言えよう。換言すれば、具体的な「事実」、例えば、イエス・キリスト、玄義、秘跡、教会などをそのまま受け入れるのは、困難であるが、理論としてのカトリックの「救済論」は、どの宗教ともそれほど矛盾するものではない、と言っていいのではないか。