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2009年5月29日金曜日

基層神道

 弥生時代人の宗教現象もしくは信仰が少なくとも素材としての基層神道の中核を形成する。問題は、果して実際にこの様な太古の人々の信仰内容が仮に実在していたとして、我々は、それを知ることが出来るかと言うことである。それゆえ、極めて不備ではあるが、何等かの形で実証的な問題を取り扱わざるを得ない。 さて、我々が先ず明かにしなければならないのは、所謂「基層神道」なるものの実在である。換言すれば、遅くとも弥生文化時代の後半から中央統一政権の成立--成立の年代を正確に定めるのは難しいが、ほぼ三世紀末頃と考えたい--に至る時期の一般庶民の信仰内容が実在したとして、それを知る手段が果たしてあるだろうか。周知の様に信仰内容の様な抽象的な事柄は主として言語、文字を媒体とする概念によらねば、精確に、詳細に伝達するのは至難である。従って、固有の文献が未発見であるこの時期の宗教・信仰について精確に知るのは困難であるが、我々は、次ぎの様な方法(手段)を総合的に駆使することによって幾分なりとも実態に近づいて行けるものと信じている。すなわち、1)所謂古典の分析(文献学的アプローチ)、 2) 当代にまで遡れるとされている神社の由緒の検討、3)同じく太古からとされている神事の研究、 4) 所謂民俗信仰の分析、5)周辺民族の当代の文献、宗教思想、民話の研究(比較神話学的アプローチ)、 6) 考古学、民俗学、人類社会学などの成果による補完、そして最後に7)現在の信仰との対比、などがある。
 さて、古典の分析を考える場合、最初に挙げるべきは、矢張り『古事記』、『日本書紀』(以下記・紀と略称)であろう。
1)記・紀に就いての考察
 先ず記・紀に収録された神話に現れる信仰内容を分析することになるが、本題に入る前に、少なくともこの我々の分析のための主要な源泉の一つである『記・紀』に就いて我々が、どの様に考えているかを明らかにして置く必要があろう。
 我々が考察の対象としている弥生時代、特にその後期に、いわゆる「倭(大和)民族」の存在を考えることが妥当であるかどうかは別として、この列島に複数の人間集団が住み着いていた事は事実である。各々の集団は、自らを一つの「民族」として自覚することはまだなかったであろうが、他の集団が多少とも自らの集団と種々の点で違っている事は意識したに違いない。これらの集団を大別すれば、ほぼ北方系と南方系の二つに分けることができよう。これらの二系統は、各々まとまった二つの集団群としてある時点で同時に併立し、一方が他方を征服、もしくは併呑した、と言うよりは、むしろ、長い時間をかけて、各々の小集団単位で、特に結婚などを媒介として、複雑に接触、融合して行ったと見た方がよいだろう。この場合、全体として南方系の方が、時間的にも早く列島に住み着き、数の上でも優勢であったと言えるのではないか。これに対して、いわば合目的的な組織化や、‘政治’の面では、かえって北方系の方が優位にあったと言えそうである。こうして、ある一つの地縁的、血縁的共同体もしくは氏族を取り上げれば、多くの場合、二つの系統が多少ともその中に混交して居るのが見られる筈である。言うまでもなく、これらの共同体もしくは氏族は、更に他のものと複雑に接触融合して行ったのは自然である。これを信仰の面にのみ限って見れば、各々の集団には、多少とも北方系と南方系の要素を交えた複雑な信仰系が、勿論実修を伴って、成立し、その集団の政治的消長と共に、推移した。やがて、これらの氏族群の中から、一ないし数氏族が強大化し、恐らく現在の奈良南部(現桜井市周辺か?)を中心に「統一政権」を樹立することになる。政治的な統一の偉業を果たした集団が土着のものであるか、あるいは比較的近来に外から移住してきたものであるかは、我々の問題にとってそれほど本質的なことではない。とにかくこの様な集団は、当然の趨勢として自らの偉業をイデオロギー的に補強しようとする。すなわち、自家の伝承の信仰物語を中心に、服属、もしくは統合した諸氏族の信仰物語を適当に取捨選択、修正して一つの神統譜を造り上げようとした。こうした高度に政治的な理念の下に編集されたのが、『古事記』であり、『日本書紀』である。従って、記・紀の主要な編集目的の一つは、これを生み出した集団の政治権力の正当化、つまり統治権の合法性を内外に宣言することにあったのであろうが、この目的を編集主体は、諸々の信仰系をある意味で統制することによって、遂行している。つまり、新しく信仰を造り上げるのではなく、既存の信仰を一定の理念に基づいて、取捨選択、修正することによって、所期の目的を達成しようとした。この場合、既存の信仰には、単に自己の氏族もしくは氏族群のそれだけではなく、政治的に統合されたかつての有力氏族の(合目的的に修正された)信仰をも含むことは言うまでもない。それ故、以上の手続きを逆に辿って行けば、間接的ではあるが、素材としての元の信仰に到達できるはずである。元の信仰が何時まで遡れるかは、厳密な考証を加えて見なければ予断は出来ないが、少なくとも記・紀が書かれた時点よりも可なり古いと言うことは言えるであろう。

2)記・紀信仰集団に就いて
 次に、記・紀を生み出した信仰集団に就いて一言して置く。我々の考えでは、一般に受け入れられた、宗教的典籍は、単にそれを実際に書き記した人物の外に、それを支えている或信仰集団の存在を予想する。つまり、この様な典籍は、著者個人(群)のものであると同時に、その個人(群)が信仰的に所属するところの集団が生み出したものでもある。勿論、この様な集団の内実を具体的に明示するのは、必ずしも常に容易ではないし、又この集団の全構成員が等質の信仰を抱いていたとも限らない。しかし、大まかに言って、同一の信仰を共有しているとは言えるだろう。それ故、逆にある宗教的典籍から遡って、それを生み出した信仰集団を考えることは、無謀ではない。こうして我々は、記・紀を生み出した信仰集団を考え、これを仮に「記・紀信仰集団」と名付けることにする。既に述べたように、現存する、もしくは散逸した宗教的典籍を生み出したかどうかは別として、上記のような信仰集団が、幾つもあったに相違ないが、これらの集団は、少なくとも他の集団の信仰を積極的に排除しようとしない限り、いわば、末端の部分で多少異なる信仰を持っていたとしても、又互いに地域的に多少離れていたとしても、広い意味で同一の信仰集団に属するとして差し支えないであろう。従って、例えば九世紀以降の日本の文化的指導層が、記・紀を自らの文化的遺産と認める限りにおいて、彼らも同一の信仰集団に属すると言える。更にこれらの信仰集団の構成員に就いて言えば、出身地、言語、文化などに多少の違いはあったであろうが、それらは、信仰を根本的に分割するものであるとは考えられてはいなかったようである。従って、勿論、彼らにもいわゆる「外つくに」の意識はあったであろうが、それは、今日の「外国」の意識ではなく、身内ではない隣り「むら」、と言うほどの感じであっただろう。少なくとも、列島以外の近隣の信仰が、全く異質のもの、とは考えられていなかったようである。これらの点で、更にもっと厳格に組織化された例えば後の所謂「仏教教団」の様なものとは異なっている。要するに、我々の言いたいのは、少なくとも信仰に関する限り、列島を孤立的に考えるのではなく、主として朝鮮半島を中心に周辺の諸地域をもほぼ同質の信仰圏と見なすべきである、と言うことである。即ち、記・紀の信仰を知ることによって、時間的にも空間的にもその前後の可成り広範な人間集団の信仰を推定することが出来る、亦逆に同一信仰圏内のある地域の信仰を知れば、記・紀の信仰の内容を一層明らかにすることが出来ると言うことである。換言すれば、「記・紀信仰集団」は、地理的に列島内にのみ限るべきではなく、中核は飽くまでも列島内であるにしても、影響する範囲は、周辺の諸地域にも跨るものとして捉えるべきであろう。

3)記・紀神話の解釈について
 記・紀に現れた信仰内容を考える前にそもそも記・紀に述べられていることは何か、それをどう受け取るべきかに就いて考えて置かねばならない。記・紀に述べられていること、特にその「神代」と呼ばれる部分は、客観的な歴史的事実である、或はその忠実な記録であるとする見解があった事は周知である。この様な見解が、時の国家権力によって強引に押し付けられたと言う不幸な事態も原因となって、この様な国家権力が弱体化されると共に今度は、逆の考え方、つまり記・紀は、非科学的な荒唐無稽の、歴史的には全く無価値な書物であるとする主張が幅を利かせた。我々は、この両者の何れの見解にも与する事は出来ない。そもそも民族の古典である書物の、所謂ジャンルを簡単にあれかこれかに、而も自分の都合の良い様に決めてしまうのは、敢えて言えば、冒涜であろう。むしろ古典は、古代の人々の真摯な生活経験が生み出した様々なジャンルの要素が複雑に総合されて成り立っているものであるから、一つ一つの要素を慎重に検討し、理解して行かなければならない。
 さて、我々に特に関係の深いのは、所謂「神代」に関する記・紀の部分である。「神代」そのものに関する種々の論議はさておいて、我々は、この部分全体を「神話」であると理解する。神話と言うと、非科学的で、非論理的な空想物語と思われがちであるが、ここで言う神話は、一つの文学的な表現方法を指すのであって、ある集団の共通の実存的な体験を象徴的な言葉で表したものである。体験の表現であるから、その体験は、単に心理的なものに過ぎない事もあれば、或は、客観的な出来事が対応している場合もある。しかしそれが現実にある集団の実存体験であったと言う限りにおいて、単なる心理的な現象である場合でさえ、時の流れの中に位置付け得る何らかの歴史的核心を持っていると言える。但し、歴史的核心と言っても、或歴史的出来事が単純に説話化されていると言うような簡単な意味ではない。核心に迫るには、可なりの努力が必要であり、恐らく核心に到達できない場合も多いに違いない。また、神話は、必ずしも普通に言われる意味での宗教の次元にのみ属するとは限らない。しかし、深刻な実存体験は、殆ど常に、広い意味での宗教的体験に関わるから、神話と宗教体験は密接な関係がある。この意味で、神話は、ある集団の信仰を直接もしくは間接に表現するものである、と言うことが出来る。但し、この信仰が客観的な事実を指し示しているかどうかは、ア・プリオリに断定することは出来ない。例えば、伊邪那岐神(伊弉諾尊)、伊邪那美神(伊弉冉尊)の国生み神話は、当代の人々の経験にある多くの国々(ここで言う国は、勿論近代の民族国家ではなく、一定の経験的な地域を指す)が、これら二神によって生み出されたとする信仰を表現しているが、それが実際に生理学的な国の出産を記録しているものなのか、或は、或歴史上の事実の象徴化された記録なのか、にわかに断定は出来ない。断定するには、各々の分野の固有の手続きを経た上で、厳密な検証を行わねばならない。例えば、国生みの信仰から、この様にして生まれた或國を信仰の対象として崇めることは、同一の信仰の領域の問題として妥当であるが、歴史的な検証を経ないで、この國の政治的主権が、例えば二神の子孫と信じられている歴史上の人物に必然的に帰属すると結論するのは、不当である。即ち、政治的統治権は、歴史的に基礎付られるべきであって、信仰によって基礎付られてはならないのである。特に現代の日本におけるように信仰が多様化している所では、この配慮は大切である。
 ついでに言えば、天皇家の現状の適法性は、神話に依存するのではなく、歴史的な伝統に基づくものである。一般に、その端緒が何であれ、長期間に亘って比較的平和裡に公共の秩序を維持している権力は、合法と認められるべきだからである。要するに神話は、飽くまでも信仰を表すものであって、その信仰の内容が妥当性を有するのは、この信仰を共有する人々の間においてだけであって、それが、客観的な事実かどうかは、各々の分野で、個々具体的に検証する必要がある。ただし信仰そのものは、本来検証を必要とするものではなく、それが必要なのは、実は、信仰以外の各分野自身なのである。何れにしろ、神道の神学の一つの目的は神道の信仰の解明であるから、記・紀の神話がどんな信仰を表現しているかが重要であって、それが、歴史もしくは政治その他の分野でどの様に理解されているかによって、直接に左右されるものではない。