ページ

2009年10月30日金曜日

神道とカトリックの対話8

内在的神観
 吾々の経験するものは、すべて、相対的であり、動的である。永久不動のものは、若しあるとすれば、それは、或仕方で、経験を否定して、或は経験の彼方でしか与えられないはずである。それ故、神をそのまま相対的、動的に捉えることは、それを世界内存在者として捉えることに他ならない。単に、神が世界に働きかけると言うだけでなく、神は、世界の一部である。勿論、これは、世界と神が即同一であるということ、即ち、いわゆる汎神論を意味するものではない。しかし、神々と人間とは、本質的に同質である。神は人間の祖先であり、人間は神の血縁の子である。人を神に祭る(神として祭る)ことの可否について、論議があったが、神道の神観から言えば、別に異常なことではない。
 さて、キリスト教神学の観点からすれば、内在的神観は、必ずしも受容できないものではない。但し、この点に関しては、キリスト教神学でも余り明確にされていないと思われる区別について一言述べておかねばならない。そもそもキリスト教の神は、空間に制約されず、空間を超越するものと理解されている。ところで、「内・外」という概念は、空間を抜きにしては、無意味である。従って、空間を超える神が、世界を超越するか、内在するかということは、厳密には、無意味な設問である。若し、たとえ不完全ではあっても、この様な言明に多少意味を持たせようとするなら、肯定/否定の概念、若しくは、同一/他者の概念を用いねばならないであろう。即ち、若し、神と世界が同一とされるならば、神は、世界内在的であり、神と世界が全く無関係の他者とされるならば、神は、世界外に超越的であると言明することに意味があると思われる。
 しかしながら、従来、キリスト教が神の内在を言う場合、上記の意味での内在ではなく、神は、万物の第一原因として、創造されたあらゆるものの、いわば隅々にまで、その創造力を及ぼしている、と言う意味で、万物に内在すると言われる。つまり、原因は、或意味で、結果に内在すると言われるのである。吾々は、この様な意味での内在は、超越と矛盾するのではなく、従って、むしろ、「臨在」、若しくは、「内住」と言う表現で表す方がより適切であると考える。
 さて、既に述べたように、神道の内在的神観は、世界即絶対者の汎神論ではない。世界と神々との間には、本質的な断絶はないが、両者は、同一ではない。この点については、神道神学の側からのより明確な解明を期待したいが、いずれにせよ、吾々の言う「内住的」と言う方がもっと適切であろうと思われる。即ち、「ムスヒ」としての神々が、この世界に現存し、時に応じて、顕現するとの観念である。これは、絶対者としての「神」が、第一作因力として万物に遍在するというキリスト教神学の説く絶対者の内住性に、結果的には、大変良く似ていると言える。特に、実践の領域においては、世界を聖なるものの顕現としてその前に畏まる態度は、共通している。この点で、キリスト教神学は、神道の内在的神観を更に積極的に評価、摂取しなければならないであろう。
 ちなみに、詳細に論じる余裕はないが、超越的神観が、容易に無神論へ逸脱する傾向を持つのに対して、内在的神観は、特に倫理的汎神論へ逸脱する可能性が強いことを付記しておこう。

2009年10月27日火曜日

神道とカトリックの対話7

動的神観
 神道の神観では、神々は、動的な概念として捉えられている。『古事記』冒頭の創成神話から明らかな様に「ムス」と言う概念が重要な役割を果たして居るが、これは、万物を生み出し、育成し、完成させる「力」である。この力が目に見える形で現われる場合の一つがカミである。ここで注意すべきは、所謂西欧哲学の「本質」若しくは「実体」と「現象」との区別は、形而上学的には、神道では立てられていないことである。従って目に見える具体的な事物の他に、これから遊離した別の「ムス」と言う「実体」が実在すると考えられている訳ではない。ムスと言う力そのものが具体的事物として働き掛け、それが人間の畏れかしこみの対象とされるのである。すなわち、物を生み、育成する力そのものが、ut ens としてではなく、ut actus としてカミと成るのである。存在の「ある esse」の面よりも 「成る fieri」の面の方が強調されていると言えよう。
 磐境、神籬と言う観念も、動的神観を良く表している。「神が宿る」ということは、実体的な思考様式では、正しく捉えることはできない。動的思考様式に立って始めて理解され得るのである。神の御霊が複数の場所に鎮まる、とされるのも、動的神観を前提としてはじめて意味を持つ。従って、実体論的観点に立って、神道の神観を、自然崇拝、呪物崇拝、などと把えるのは、甚だしい誤解であろう。
 ところで、宇宙の根源若しくは究極的な存在は、静的なものであるか、あるいは動的なものであるか、議論の分かれるところである。即ち、万物の究極の根源は、もしあるとしたら、それは、アリストテレスが考えたように、万物を動かしながら自らは動くことの無い、不動の動者であるか、或いは自らも無限に活動する原動力なのか。ギリシア系の哲学では運動は、可能態にあるものが現実態に移行すること、とされているから、根本的に不完全の現れと見なされてきた。不完全であるから、より完全を求めて運動が、発生すると考えられたわけである。従って、完全そのもので無ければならないとされる、万物の究極的な根源には、運動の余地は、全く有り得ない。不動の動者で無ければならない所以である。確かに吾々の経験では、運動は、常に不完全の印である。しかし同時に多くの場合、それは完全性の印でもある。それは、生物と無生物とを比較してみれば良く判る。それ故、活動すると言うことは必ずしも不完全なことではなく、むしろ完全なことでもある。従って、万物の究極の根源から、運動を完全に排除するのは、一面的な見方であるとも言える。論理の次元で、運動概念は不完全性を含むと言うことから、実在の次元でも運動を否定するのは誤りではないだろうか。少なくとも、究極の根源が「動」である、との考え方を単に不条理として退けるべきではないであろう。ちなみに、キリスト教哲学においても万物の根元は、Actus purus 即ち、純粋現実態、つまり活動そのものと考えられている。しかし、この現実態が、「実体」として捉えられてきた。

2009年10月25日日曜日

神道とカトリックの対話6

 ここで、聖書が「神話的」であるとの意味について、簡単に弁明しておく。慣用では、「神話」とは、荒唐無稽な空想物語の意味で解され勝ちであるが、勿論、吾々は、そのような意味で言っているのではない。およそ、人間の深遠な実存的、人生体験、就中宗教体験は、通常の客観的記述用語では、十全に表現することは、不可能ではないにしても、非常に困難である。この様な場合、主体的な態度、感覚を表現することを主旨とする象徴的用語で物語るのが、適切である。個人若しくは共同体の宗教体験に関するこの様な象徴的、詩的物語を、吾々は、神話と呼んでいるのである。
 ところで、現実には、相対的な神観を維持し続けるのは、必ずしも容易ではない。歴史的に見ても、「カミ」観の相対性は、事実上忘却され、特定の「神」、例えば、天照大御神、現御神天皇が、あたかもキリスト教における神 Theos の様に見なされたことがあった。この様な場合、相対的なものが、敢えて絶対化されるわけであるから、必然的に排他的にならざるを得ない。即ち、真の絶対者は、相対者を包超するものであるから、相対者を否定することはない。しかし、本来相対的なものが絶対化される場合は、対立するものを否定することによってしか自己の絶対性を貫くことができない。即ち、神観が相対的であると言うことは、「他」を抱擁、総合することが至難であり、相手の存在を否定することによってしか、統合できないと言う危険な傾向を抱えている。これは、神道信仰のように相対的神観に立っていることの一つの危険性であり、神道の相対性の原理そのものによって克服されねばならないことであろう。
 他方、唯一神論的思考枠の中で育ったキリスト教には、相対の絶対化の論理に加速されて、厳密にいえば、相対的であるもの、例えば、観念としての「神」、人間イエスなどを実践の領域においても絶対化する傾向が一段と顕著である。そのため、上述のように、他を否定することによってしか、絶対性を維持することができない。こうして、キリスト教以外は、拒否するか、少なくとも宗教として認めることができなくなる。このことが、異教即邪教観に道を拓いたことは、歴史の教えるところである。従って、キリスト教と神道も、宗教として互いに排他的であると考えられがちであった。しかし、これは、両者が互いに自己の本質を正しく理解していないか、或いは、そのための努力を怠った結果であったと言うべきであろう。

2009年10月21日水曜日

神道とカトリックの対話5

神道の神観
 神道の神観について考えよう。なお、以下の叙述は、上田賢治先生の諸高著に負うところが多い。
相対的神観
 神道の「神」は、本質的に相対的である。如何なる神も「絶対者」ではない。確かに或神、例えば、天照大御神を皇祖神として事実上絶対化しようとする傾向は、絶えず見られるが、これは、いわば「信奉者」の願望、若しくは意思であって、概念自体は、常に相対的なものを指している。信仰の内容として見ても、「絶対者」自体に対する信仰は、存在しない。生む神と生まれる神、支配する神と仕える神、祀る神と祀られる神など、上下関係はあっても、他に超越する絶対者としての神は、見られない。所謂造化三神も、キリスト教的な意味での絶対神ではない。神々も「和」をもって共存すべきものであると考えられている。
 これに対しては、吾々は、次のように考える。宗教実践の次元に関して言えば、神道の神観は、相対的である限りにおいて、必ずしも、キリスト教の神観と直接には矛盾しない。神道の「カミ」とキリスト教の「カミ=テオス」は、概念としては、類比的であり、それぞれ異なるモノを表現しているからでもあるが、仮に同一のモノを表現しているとしても、宗教実践の領域に限れば、キリスト教の場合も厳密には、相対的概念であるから、矛盾は、生じないはずである。
 キリスト教の聖書の神観も、神話的な表現である限り、また、信仰実修の次元で考えられている限り、相対的な概念である。ちなみに、例えば、「創世記」第一章の「エロヒーム(神)」(神という訳語は、『新共同訳聖書』による)は、神話的であり、後のキリスト教神学が考えるような、形而上学的な唯一絶対者の面影はない。聖書の神を唯一絶対者として捉える様になるのは、紀元前6世紀のいわゆる捕囚後のユダヤ教の唯一神教的な思考様式の影響であろうと言われている。また、ナザレのイエスは、宗教実践の次元、つまり人々が日常的に素直に経験する範囲では、飽くまでも人間であって、ユダヤ教がヤハウェと呼ぶような、唯一絶対者そのものではない。この意味で、人間イエスを、神道的な意味での「カミ」と呼んでも決して不条理ではないだろう。それ故、天の御父を祀る神であるとともに祀られる神でもあるイエス命と八百萬の神々とが共存しても少しもおかしくはないだろう。

2009年10月19日月曜日

神道とカトリックの対話4

対話の具体的問題点
 以上を述べた上で、神道神学とキリスト教神学との「対話」について述べたいが、余りにも広範な主題を絞り込むために、どの神学にとっても、最重要であると考える「神」に関する概念、つまり「神観」に限って、些か考えよう。その前に、若干の区別を導入しよう。
信仰の次元と形而上学の次元:実践と思弁との区別
 一般に、宗教の問題を考えるに当たっては、「信仰実践」の次元と「形而上学的思弁」の次元とを区別する必要があると思われる。実践では、実践主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が決定的な役割を果す。飽くまでも「実践」が主であるから、この次元・領域においては、「真理」と呼ばれるものは、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、形而上学的思弁の次元は、「存在」と「知性的認識」の領域である。ここでは、思弁主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りにおいて、「真理」は、認識対象と合致するかどうか、いずれかただ一つだけである。認識主体は、或意味で客体・対象によって規定されるからである。但し、このことは、真理自体が、或特定の集団、若しくは、個人によって全面的に専有され得るということを意味しない。むしろ、真理は、所有されるものではなく、無際限に探求、追求され続けられるものである。
従って、形而上学的思弁の次元においては、個人、集団の感情や、当面の必要を無視すべきではないが、しかし、何よりも論理的一貫性を常に追求して行かねばならない。そして、「神学」は、正にこの領域での営みである。神学は、「信仰」の事実を踏まえて、その理解を深めるのであるが、これは、信仰の事実に何か新しいものを付加するのでも、それをを曲げるものでも無い。理性が信仰を戴いた限り、それをよりよく納得しようと努めるのである。この場合、卑見では、宇宙の究極の「原理」の問題は、避けて通れないのではないかと考える。

2009年10月16日金曜日

神道とカトリックの対話3

対話
 先ず、対話は、真実を明らかにすることを基準とすべきで、真実に関する限り、対話の当事者は、すべて平等でなければならない。さもないと、皮相的な単なる外交的辞令の羅列に終始するか、或いは相手の併呑を目指す宗教的帝国主義に陥る危険がある。平等であるとは、あらゆる宗教が、価値的に無差別で、全く相対的であり、着物のように自由に着替えが可能であるということを意味するのでは決してない。そうではなく、他の宗教に対する或特定の宗教の優越性、特権を暗暗裡にさえ前提としない、と言うことである。即ち、互いに相手の自律、独立、自由を尊重し、相手のより良い変革(回心させる)を願望するだけではなく、真実に対しては、先ず自らが自己を変革する(回心する)ことの可能性と決意とを少なくとも原理的に認めることである。この点に関して、従来キリスト教が、進めていた、「布教」、「土着化」は、当事者の意識は別として、結果的には、宗教的帝国主義の方向に逸脱する危険性をしばしば孕んでいたことは否めない。
 次に、上述のことと対立しているように見えるが、本当の宗教対話が成り立つためには、それぞれの側が、自己の宗教伝統の信仰、神学などに対して、真摯な忠誠心と愛着を持たねばならない。さもないと、対話は、無責任な、観念の遊戯、個人的な自己満足の気晴らしとなってしまうだろう。但し、このことは、対話当事者が自己の宗教に全面的に同化していなければならない、とか、自己の宗教の代表として語るということを必ずしも意味しない。むしろ、過渡的ではあっても、幾多の点で、或程度自己の宗教に対して健全な意味で批判的であり、自己の教団の「主流」と相容れない事態の生じるのが常態である。また、それだからこそ、対話に意義があるとも言えるのである。
 最後に、対話に当っては、従来欧米のキリスト教がともすれば陥ってしまったように、自分の思考の枠組で相手を理解、若しくは、決めつけるのではなく、相手の立場に立って、そこから相手を理解し、また、何らかの批判をしなければならない場合は、真実に基づいて、若しくは、相手の固有の原理に従って、真摯に、慎重に行うよう努めねばならない。

2009年10月15日木曜日

神道とカトリックの対話2

信仰、信仰の実修及び「神学」
 これら三者は、現実の場では、殆ど分ち難く併存しているが、少なくとも論理的には、区別は可能である。従って、対話に際して、触れるべきではない領域と、大いに論談すべき領域とを分けて考えるのが妥当であろう。
 さて、真摯な神学的対話が成り立つためには、お互いに基本的な信仰の内容は、尊重しあい、侵してはならない、との強い決意が必要である。元来、信仰は、万人共通の場である理性を超える領域の事柄であるから、厳密には、真偽を論ずることに意味はない。即ち、信仰そのものは、対話の対象とはならない。しかし、それは、信仰に関しては、一切触れてはいけないと言うのではない。特に信仰の実修は、日常の具体的な生活の中で展開されるものであるから、少なくとも結果に対する言及、評価は、自然であろう。
神学
 本来の意味での対話が成立するのは、神学の分野である。ここでは、神学とは、上田賢治先生に従って、
「・・表だった論議のある無しに拘らず、そこで信じられるべき内容が、予想されてあることを意味している。それを、理性的・論理的に、明確なものとするのが、神学の使命であり、課題なのである。」(上田賢治、『神道神学』、大明堂、1986、p.2.強調は引用者、以下同)「・・信仰は、我々が作るものではない。神学もまた、単に、我々にとって可能な限りの、自覚的・理性的反省の、集大成に過ぎないものである。これを換言すれば、信仰は、本来、神々によって導かれ、与えられるものであり、神学もまた、例え、個人或は集団の究極的な努力の結晶であったとしても、決して、完全で、絶対的なものではありえない・・。・・神学は、簡潔に言えば、信仰の弁証学だが、・・。・・神学というものが抑々歴史的理性と、客観的共通意識に支えられた、或は少なくとも、その方向を志向する、論理的営みの帰結である・・。」(同書、p.9.)「神学は本来、信仰対象としての神に対する弁証の学である。」(同書、p.96.)
などと表現されている「定義」に準ずるものとする。即ち、即ち、神学とは、信仰の事実を理性の力を借りながら、できるだけ、深く理解しようとする理性の客観的・体系的営み、と一応規定することができると思われる。理性の営みである限り、理性を超える領域については、敢えて踏み込むことは慎むべきではあるが、自らの固有の領域については、徹底的に真実の追求に挺身しなければならない。しかるに、理性の領域は、単なる観念の世界ではなく、理性の対象となり得る限りでの存在の世界である。その意味で、認識論は、存在論を前提とする。従って、理性は、経験の範囲を超越して、限界はあるが、超感覚的な世界にまでも踏み込まねばならない。
 それ故、神学においては、究極の実在の存否、もしそれが実在するなら、その本性、特にその世界超越性/世界内在性、完全性/不完全性、絶対性/相対性、唯一/多数などを矛盾なく説明しなければならない。しかも、これらの議論は、実は、信仰実践とは或程度独立している。もしこれを形而上学的議論ということができるとすれば、キリスト教神学は、歴史的にこの形而上学的議論を使用して、自己の信仰を説明してきたのである。しかし、或形而上学的議論を容認する事は、そのまま信仰の「正しさ」を「証拠付ける」事にはつながらない。信仰の根拠は、信仰の対象への帰依(による対象の実在)であって、対象の自明性ではないからである。

2009年10月12日月曜日

神道とカトリックの対話1

 我が国にキリスト教が到来してから(天文十八年)約四世紀半になる。この間、キリスト教は、我が国既存の諸宗教との間に様々な歴史的、文化的経緯を経て育って来たが、戦後の混乱や、占領軍・駐留軍の隠然とした影響力が漸く終息した昭和三十年代後半頃から少なくともカトリック教は、他宗教に対してほぼ正常な態度、関わりを持つことができるようになった。ちなみに、キリスト教の自己理解、他者との関連について世界的な影響を及ぼした所謂バチカン第二公会議の終幕したのは、昭和四十年であった。一般の人々の表面的な印象では、神道とキリスト教は、しばしば緊張関係にあったように思われているようだが、実際に詳しく観察してみると、キリスト教と緊張関係にあったのは、むしろ、判然とした区別は難しいが、我が国の宗教一般、文化、社会、思想、政治などとであって、必ずしも、固有の意味での神道そのものとではなかったようである。この事実に関しては、更に詳細な分析、考察が必要とされようが、筆者の能力を超える問題であるので、割愛する。ただ、キリスト教に対する固有の神道の側からの神学的な対決が、余りなかったことも、その功罪を抜きにして、緊張状態が生じなかった一つの要因であったのではなかったか、と言う点を指摘するに留める。恐らく、この様な言明に対しては、世に言う国家神道との関係が、持ち出されるかも知れないが、筆者は、この問題はいわば偶発的な出来事であると考え、別に所感を述べたいと考えているので、ここでは触れない。
 とにかく、過去は、過去として、無限に開かれている未来に向かって、キリスト教が、民族の心である「神道」とともに微力を捧げて、人間一人一人の真の幸福、民族の繁栄、世界の平和のための、そのかむながらの働きに些かでも貢献できるように、神道に対するこれからのキリスト教のあるべき関わり方の一端を述べて識者のご批判を頂きたい。