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2009年10月15日木曜日

神道とカトリックの対話2

信仰、信仰の実修及び「神学」
 これら三者は、現実の場では、殆ど分ち難く併存しているが、少なくとも論理的には、区別は可能である。従って、対話に際して、触れるべきではない領域と、大いに論談すべき領域とを分けて考えるのが妥当であろう。
 さて、真摯な神学的対話が成り立つためには、お互いに基本的な信仰の内容は、尊重しあい、侵してはならない、との強い決意が必要である。元来、信仰は、万人共通の場である理性を超える領域の事柄であるから、厳密には、真偽を論ずることに意味はない。即ち、信仰そのものは、対話の対象とはならない。しかし、それは、信仰に関しては、一切触れてはいけないと言うのではない。特に信仰の実修は、日常の具体的な生活の中で展開されるものであるから、少なくとも結果に対する言及、評価は、自然であろう。
神学
 本来の意味での対話が成立するのは、神学の分野である。ここでは、神学とは、上田賢治先生に従って、
「・・表だった論議のある無しに拘らず、そこで信じられるべき内容が、予想されてあることを意味している。それを、理性的・論理的に、明確なものとするのが、神学の使命であり、課題なのである。」(上田賢治、『神道神学』、大明堂、1986、p.2.強調は引用者、以下同)「・・信仰は、我々が作るものではない。神学もまた、単に、我々にとって可能な限りの、自覚的・理性的反省の、集大成に過ぎないものである。これを換言すれば、信仰は、本来、神々によって導かれ、与えられるものであり、神学もまた、例え、個人或は集団の究極的な努力の結晶であったとしても、決して、完全で、絶対的なものではありえない・・。・・神学は、簡潔に言えば、信仰の弁証学だが、・・。・・神学というものが抑々歴史的理性と、客観的共通意識に支えられた、或は少なくとも、その方向を志向する、論理的営みの帰結である・・。」(同書、p.9.)「神学は本来、信仰対象としての神に対する弁証の学である。」(同書、p.96.)
などと表現されている「定義」に準ずるものとする。即ち、即ち、神学とは、信仰の事実を理性の力を借りながら、できるだけ、深く理解しようとする理性の客観的・体系的営み、と一応規定することができると思われる。理性の営みである限り、理性を超える領域については、敢えて踏み込むことは慎むべきではあるが、自らの固有の領域については、徹底的に真実の追求に挺身しなければならない。しかるに、理性の領域は、単なる観念の世界ではなく、理性の対象となり得る限りでの存在の世界である。その意味で、認識論は、存在論を前提とする。従って、理性は、経験の範囲を超越して、限界はあるが、超感覚的な世界にまでも踏み込まねばならない。
 それ故、神学においては、究極の実在の存否、もしそれが実在するなら、その本性、特にその世界超越性/世界内在性、完全性/不完全性、絶対性/相対性、唯一/多数などを矛盾なく説明しなければならない。しかも、これらの議論は、実は、信仰実践とは或程度独立している。もしこれを形而上学的議論ということができるとすれば、キリスト教神学は、歴史的にこの形而上学的議論を使用して、自己の信仰を説明してきたのである。しかし、或形而上学的議論を容認する事は、そのまま信仰の「正しさ」を「証拠付ける」事にはつながらない。信仰の根拠は、信仰の対象への帰依(による対象の実在)であって、対象の自明性ではないからである。