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2009年10月25日日曜日

神道とカトリックの対話6

 ここで、聖書が「神話的」であるとの意味について、簡単に弁明しておく。慣用では、「神話」とは、荒唐無稽な空想物語の意味で解され勝ちであるが、勿論、吾々は、そのような意味で言っているのではない。およそ、人間の深遠な実存的、人生体験、就中宗教体験は、通常の客観的記述用語では、十全に表現することは、不可能ではないにしても、非常に困難である。この様な場合、主体的な態度、感覚を表現することを主旨とする象徴的用語で物語るのが、適切である。個人若しくは共同体の宗教体験に関するこの様な象徴的、詩的物語を、吾々は、神話と呼んでいるのである。
 ところで、現実には、相対的な神観を維持し続けるのは、必ずしも容易ではない。歴史的に見ても、「カミ」観の相対性は、事実上忘却され、特定の「神」、例えば、天照大御神、現御神天皇が、あたかもキリスト教における神 Theos の様に見なされたことがあった。この様な場合、相対的なものが、敢えて絶対化されるわけであるから、必然的に排他的にならざるを得ない。即ち、真の絶対者は、相対者を包超するものであるから、相対者を否定することはない。しかし、本来相対的なものが絶対化される場合は、対立するものを否定することによってしか自己の絶対性を貫くことができない。即ち、神観が相対的であると言うことは、「他」を抱擁、総合することが至難であり、相手の存在を否定することによってしか、統合できないと言う危険な傾向を抱えている。これは、神道信仰のように相対的神観に立っていることの一つの危険性であり、神道の相対性の原理そのものによって克服されねばならないことであろう。
 他方、唯一神論的思考枠の中で育ったキリスト教には、相対の絶対化の論理に加速されて、厳密にいえば、相対的であるもの、例えば、観念としての「神」、人間イエスなどを実践の領域においても絶対化する傾向が一段と顕著である。そのため、上述のように、他を否定することによってしか、絶対性を維持することができない。こうして、キリスト教以外は、拒否するか、少なくとも宗教として認めることができなくなる。このことが、異教即邪教観に道を拓いたことは、歴史の教えるところである。従って、キリスト教と神道も、宗教として互いに排他的であると考えられがちであった。しかし、これは、両者が互いに自己の本質を正しく理解していないか、或いは、そのための努力を怠った結果であったと言うべきであろう。