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2009年10月27日火曜日

神道とカトリックの対話7

動的神観
 神道の神観では、神々は、動的な概念として捉えられている。『古事記』冒頭の創成神話から明らかな様に「ムス」と言う概念が重要な役割を果たして居るが、これは、万物を生み出し、育成し、完成させる「力」である。この力が目に見える形で現われる場合の一つがカミである。ここで注意すべきは、所謂西欧哲学の「本質」若しくは「実体」と「現象」との区別は、形而上学的には、神道では立てられていないことである。従って目に見える具体的な事物の他に、これから遊離した別の「ムス」と言う「実体」が実在すると考えられている訳ではない。ムスと言う力そのものが具体的事物として働き掛け、それが人間の畏れかしこみの対象とされるのである。すなわち、物を生み、育成する力そのものが、ut ens としてではなく、ut actus としてカミと成るのである。存在の「ある esse」の面よりも 「成る fieri」の面の方が強調されていると言えよう。
 磐境、神籬と言う観念も、動的神観を良く表している。「神が宿る」ということは、実体的な思考様式では、正しく捉えることはできない。動的思考様式に立って始めて理解され得るのである。神の御霊が複数の場所に鎮まる、とされるのも、動的神観を前提としてはじめて意味を持つ。従って、実体論的観点に立って、神道の神観を、自然崇拝、呪物崇拝、などと把えるのは、甚だしい誤解であろう。
 ところで、宇宙の根源若しくは究極的な存在は、静的なものであるか、あるいは動的なものであるか、議論の分かれるところである。即ち、万物の究極の根源は、もしあるとしたら、それは、アリストテレスが考えたように、万物を動かしながら自らは動くことの無い、不動の動者であるか、或いは自らも無限に活動する原動力なのか。ギリシア系の哲学では運動は、可能態にあるものが現実態に移行すること、とされているから、根本的に不完全の現れと見なされてきた。不完全であるから、より完全を求めて運動が、発生すると考えられたわけである。従って、完全そのもので無ければならないとされる、万物の究極的な根源には、運動の余地は、全く有り得ない。不動の動者で無ければならない所以である。確かに吾々の経験では、運動は、常に不完全の印である。しかし同時に多くの場合、それは完全性の印でもある。それは、生物と無生物とを比較してみれば良く判る。それ故、活動すると言うことは必ずしも不完全なことではなく、むしろ完全なことでもある。従って、万物の究極の根源から、運動を完全に排除するのは、一面的な見方であるとも言える。論理の次元で、運動概念は不完全性を含むと言うことから、実在の次元でも運動を否定するのは誤りではないだろうか。少なくとも、究極の根源が「動」である、との考え方を単に不条理として退けるべきではないであろう。ちなみに、キリスト教哲学においても万物の根元は、Actus purus 即ち、純粋現実態、つまり活動そのものと考えられている。しかし、この現実態が、「実体」として捉えられてきた。