ページ

2009年10月19日月曜日

神道とカトリックの対話4

対話の具体的問題点
 以上を述べた上で、神道神学とキリスト教神学との「対話」について述べたいが、余りにも広範な主題を絞り込むために、どの神学にとっても、最重要であると考える「神」に関する概念、つまり「神観」に限って、些か考えよう。その前に、若干の区別を導入しよう。
信仰の次元と形而上学の次元:実践と思弁との区別
 一般に、宗教の問題を考えるに当たっては、「信仰実践」の次元と「形而上学的思弁」の次元とを区別する必要があると思われる。実践では、実践主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が決定的な役割を果す。飽くまでも「実践」が主であるから、この次元・領域においては、「真理」と呼ばれるものは、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、形而上学的思弁の次元は、「存在」と「知性的認識」の領域である。ここでは、思弁主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りにおいて、「真理」は、認識対象と合致するかどうか、いずれかただ一つだけである。認識主体は、或意味で客体・対象によって規定されるからである。但し、このことは、真理自体が、或特定の集団、若しくは、個人によって全面的に専有され得るということを意味しない。むしろ、真理は、所有されるものではなく、無際限に探求、追求され続けられるものである。
従って、形而上学的思弁の次元においては、個人、集団の感情や、当面の必要を無視すべきではないが、しかし、何よりも論理的一貫性を常に追求して行かねばならない。そして、「神学」は、正にこの領域での営みである。神学は、「信仰」の事実を踏まえて、その理解を深めるのであるが、これは、信仰の事実に何か新しいものを付加するのでも、それをを曲げるものでも無い。理性が信仰を戴いた限り、それをよりよく納得しようと努めるのである。この場合、卑見では、宇宙の究極の「原理」の問題は、避けて通れないのではないかと考える。