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2009年10月16日金曜日

神道とカトリックの対話3

対話
 先ず、対話は、真実を明らかにすることを基準とすべきで、真実に関する限り、対話の当事者は、すべて平等でなければならない。さもないと、皮相的な単なる外交的辞令の羅列に終始するか、或いは相手の併呑を目指す宗教的帝国主義に陥る危険がある。平等であるとは、あらゆる宗教が、価値的に無差別で、全く相対的であり、着物のように自由に着替えが可能であるということを意味するのでは決してない。そうではなく、他の宗教に対する或特定の宗教の優越性、特権を暗暗裡にさえ前提としない、と言うことである。即ち、互いに相手の自律、独立、自由を尊重し、相手のより良い変革(回心させる)を願望するだけではなく、真実に対しては、先ず自らが自己を変革する(回心する)ことの可能性と決意とを少なくとも原理的に認めることである。この点に関して、従来キリスト教が、進めていた、「布教」、「土着化」は、当事者の意識は別として、結果的には、宗教的帝国主義の方向に逸脱する危険性をしばしば孕んでいたことは否めない。
 次に、上述のことと対立しているように見えるが、本当の宗教対話が成り立つためには、それぞれの側が、自己の宗教伝統の信仰、神学などに対して、真摯な忠誠心と愛着を持たねばならない。さもないと、対話は、無責任な、観念の遊戯、個人的な自己満足の気晴らしとなってしまうだろう。但し、このことは、対話当事者が自己の宗教に全面的に同化していなければならない、とか、自己の宗教の代表として語るということを必ずしも意味しない。むしろ、過渡的ではあっても、幾多の点で、或程度自己の宗教に対して健全な意味で批判的であり、自己の教団の「主流」と相容れない事態の生じるのが常態である。また、それだからこそ、対話に意義があるとも言えるのである。
 最後に、対話に当っては、従来欧米のキリスト教がともすれば陥ってしまったように、自分の思考の枠組で相手を理解、若しくは、決めつけるのではなく、相手の立場に立って、そこから相手を理解し、また、何らかの批判をしなければならない場合は、真実に基づいて、若しくは、相手の固有の原理に従って、真摯に、慎重に行うよう努めねばならない。