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2009年10月21日水曜日

神道とカトリックの対話5

神道の神観
 神道の神観について考えよう。なお、以下の叙述は、上田賢治先生の諸高著に負うところが多い。
相対的神観
 神道の「神」は、本質的に相対的である。如何なる神も「絶対者」ではない。確かに或神、例えば、天照大御神を皇祖神として事実上絶対化しようとする傾向は、絶えず見られるが、これは、いわば「信奉者」の願望、若しくは意思であって、概念自体は、常に相対的なものを指している。信仰の内容として見ても、「絶対者」自体に対する信仰は、存在しない。生む神と生まれる神、支配する神と仕える神、祀る神と祀られる神など、上下関係はあっても、他に超越する絶対者としての神は、見られない。所謂造化三神も、キリスト教的な意味での絶対神ではない。神々も「和」をもって共存すべきものであると考えられている。
 これに対しては、吾々は、次のように考える。宗教実践の次元に関して言えば、神道の神観は、相対的である限りにおいて、必ずしも、キリスト教の神観と直接には矛盾しない。神道の「カミ」とキリスト教の「カミ=テオス」は、概念としては、類比的であり、それぞれ異なるモノを表現しているからでもあるが、仮に同一のモノを表現しているとしても、宗教実践の領域に限れば、キリスト教の場合も厳密には、相対的概念であるから、矛盾は、生じないはずである。
 キリスト教の聖書の神観も、神話的な表現である限り、また、信仰実修の次元で考えられている限り、相対的な概念である。ちなみに、例えば、「創世記」第一章の「エロヒーム(神)」(神という訳語は、『新共同訳聖書』による)は、神話的であり、後のキリスト教神学が考えるような、形而上学的な唯一絶対者の面影はない。聖書の神を唯一絶対者として捉える様になるのは、紀元前6世紀のいわゆる捕囚後のユダヤ教の唯一神教的な思考様式の影響であろうと言われている。また、ナザレのイエスは、宗教実践の次元、つまり人々が日常的に素直に経験する範囲では、飽くまでも人間であって、ユダヤ教がヤハウェと呼ぶような、唯一絶対者そのものではない。この意味で、人間イエスを、神道的な意味での「カミ」と呼んでも決して不条理ではないだろう。それ故、天の御父を祀る神であるとともに祀られる神でもあるイエス命と八百萬の神々とが共存しても少しもおかしくはないだろう。