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2009年7月30日木曜日

宗教本能

あらゆる存在は、実在を目指し、すでに保有していればこれを確保し、より一層これを確実にしようとする。生物一般については、この様な「欲求」は、自己保存の本能と呼ばれるが、広義に眺めれば、これは生物だけに限られるのではなく、あらゆる存在者について妥当する。即ち、この「欲求」は、現状変更に対する「抵抗」として現われる。人間の場合この欲求は、「対象を超えた対象」への欲求として現われる。即ち、人間の欲求には、それぞれそれにふさわしい充足をもたらす対象があり、この点で他の生物と共通している。しかし人間は、この様ないわば「即場の」対象に依ってだけ充足されてしまうのではなく、絶えず、それを超えて何かを求めている。この様な「何か」が現実に存在するのかどうか、或は、存在するとして、果して手にはいるのかどうか、などは別として、この様な欲求のあることは、明らかである。この様な欲求は、存在者としての人間の本性から由来するものであるから、一つの「本能」である。これを広義で「宗教本能」または「幸福本能」と呼ぶことにする。これは、本能つまり本性に由来する欲求であるから、当人が意識するしないに関わらず、あらゆる人間に普遍的にみられるものであり、また、人間の条件に左右されるものである。この様な欲求が、時に満たされることのあるのは、経験の教える事実である。この場合、現実に何からの「対象を超える対象」に依って直接もしくは間接に満たされたのか、或は、単なる幻想であったのか、今は問わない。とにかくこの欲求の「充足」を、これも広い意味で「宗教体験」と呼ぶ。つまり、宗教体験には、現実の体験と、幻想とがあり得るわけである。宗教体験は、人間の体験として、人間が本性上共同体的である限り、たとえ幻想であるにせよ、必ず「文化」の中で生起し、「文化」の中で表現される。 即ち、人間は、個人としても、集団としても、ある時に、ある宗教体験をすることがある。抑々宗教、体験、と言う概念そのものが多義的であるから、ある程度の概念規定が必要であろう。宗教の詳細な分析は、やや小論の範囲を超えるので、ここでは言葉の意味の説明にのみ留めたい。「宗教」の「定義」は種々試みられて来た。その場合、当然のことかも知れないが、既存の“大”宗教、特にキリスト教を基準として考えられることが多かった。しかし、小論の論旨からすれば、この様な「定義」は、狭小に過ぎるので、所謂擬似宗教をも含めることの出来る様な極めて広範柔軟な概念を採用する。従って、ここで言う宗教とは、非常に広義であって、各々の現象の究極的原因(それが実在するか否か、あるいは共時的に意識されているか否かは別として)にかかわる事象一般を指す。それゆえ、理屈を言えば、所謂無神論も、否定された究極の原因にかかわると言う意味で、一つの宗教体験である。又、大自然や人情の機微などに直面した時の人々の心の態度も、それが究極的原因に対する関わりを潜在的に含有する限りに於いて、宗教的であると言うことが出来る。勿論、宗教的のものとして主観に意識されていない場合もあり、寧ろその方が多いかも知れない。要するに、宗教とは、“究極的なものを求める過程に於いて、何等かの仕方で、自己の経験の範囲を超えるものと信じられているものによって自己の願望を満たそうとし、そのため、これを可能とすると見なされる「手段」を用いる人間の文化現象の総体”である。
 凡そ人間の活動は総て広い意味で欲求を満たす行動であるが、この欲求を満たすことの出来るものが対象と呼ばれる。所で、これら対象と見なされているものには自ずと二つの区別、もしくは種類がある。一つは、行為を行う者の自己の能力なり、経験なりで--直接に、今すぐにではなくとも--達成出来ると考えられている対象、もう一つは、この様な範囲の外--少なくともその獲得方法に関して--にあると見なされている対象である。人間が前者の意味での対象だけでは満たされ尽くさないことは、言わば自明である。従って、後者の意味での対象をも手に入れようとする「努力」が必ず表われるが、この努力は、意識的であることも、意識されていないこともある。併し、何れにしても前提からしてこれらの努力は、独力では達成出来ないことも自明である。こうして宗教が究極的なものを求める限りその概念には、願望の対象だけではなく、この願望を満たしてくれる自己以外の何等かのモノと言う考えが、必然的に含まれることになる。このモノが人間の(思考)活動にのみ依存するものか、あるいは、それとは独立に実在するものか、又その本性、数、働きなどがどんなものか、などは、差し当たっては問わない。

2009年7月29日水曜日

神々の実在に就いて

「概念化された」神道の神々が果して実際に人々の思考作用を離れて実在するものかどうか、実在するとすればそれはどの様な性質の者なのか、検討しなければならない。
 先ず神々は、「絶対者」とは考えられていなので、論理的にその実在を(テオスの場合のように)証明することはできない。証明できるのは、その可能性のみである。そして、我々は、矛盾概念でない限りその実在は常に可能であると考えることが出来る。即ち、我々の場合は、神々の実在は、可能である。つまり、我々人間の経験を越える何等かの存在態、或は、神道的に言えば、明界に対する幽界が実在するとしても矛盾ではない。但しその実在そのものは、別の証明を要する。この場合、カトリック神学の側からは、伝統的ではあるが、あくまでも伝統に過ぎない宇宙観に基づいて、「幽界」の実在を云々すべきではない。少なくとも我々は、人間の経験を越える問題に就いて未知の事が非常に多いことを認めねばならない。他方神道の側からは、神々に就いて言われていることは、飽くまでも「神話」であることを忘れてはならない。神話が言わんとしている所を洞察すると共に、幽界に就いては、余りにも知られる所の少ない事に留意すべきである。
 次に、個々の神々の具体的な実在に就いてであるが、一般に信仰とその対象に関しては、論理的には、対象が信仰に先行し、その逆ではない。従って、信仰の事実から、その対象の実在を論証することはできない。しかし、健全な(何を以って健全とするかは難しいが)信仰には、その説明根拠として何等かの実在的な対象が対応していると考える方が妥当である。従って、我々は、ある神に対する健全な信仰には、その対象の性質は未知ながらも、何等かの実在的対象が対応しているものと考える。即ち、神道の信仰は、総て幻想である、とア・プリオリに断定することは為すべきではない。勿論、安易にキリスト教的概念、例えば、神の力、天使、聖人、悪魔などを持ち出して神道の神々は、その様なものの「日本的な」概念化であると説明することも避けるべきであろう。現時点においては、神道の神々の「実在」は、実証的には、未だ、断定を下すための手段に欠けると言うに止めざるを得ない。

2009年7月28日火曜日

多神観

 神道の神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、寧ろ積極的に肯定している。歴史的には、基層神道の信仰も多神的であることは、議論の余地はない。
 上田賢治は、神道が、多神教である論拠を以下のように挙げている。
 「第一に、神道信仰は、・・・記紀に示された信仰心意の原理に背馳しないものでなければならない。・・神道信仰のアイデンティティ―を保証するものは、記紀時代、すでに成立していた民族自発の発想・信仰原理に基づくものであり、それからの展開として神社祭祀の現実にも継承されていなければならない。・・第二に、神道神話には、全智にして全能なることを属性とする神は出現せず、祭祀の現実においても、・・多数神(延喜神名式--九二七年--には三千一百三十二座)が、同時に奉幣の待遇を受けて来た。p.26-27.(神話の神々は不完全であった)
 一神にして多くの神名を持つ神の問題・・神道の神理解は、・・尋常ならずすぐれた徳(働き)あるものに向けられており、・・人間がその実体を全体として把握しうる対象ではない。我々が神の存在を知りうるのは、神からの働きを受けてのことであり、その故に神の御名は、我々がその働きに対して奉ったものに外ならない。もし統合的に神を理解し、思念する志向が中心的傾向を占めていたのなら、大穴牟遅も八千矛ノ神も、共に大国主の御名で祀られていた筈である。ところが事実は逆に、大穴牟遅ノ神はあくまでも大穴牟遅ノ神として奉斎されて来たのである。この事実は、一神教化への傾向よりも、むしろ多神教化への志向こそ、神道本来の姿であった・・。p.27-28.
 最後に、古典神話には、超越神、従って創造神も語られていない・・。・・神道神話は、・・世界を所与からの発展、或いは展開として理解しており、神はその所与から、存在を存在たらしめ、発展させる力としての本質が顕現する形で語られている。p.28.
 神道の神が「ナル」神であり、或は「生れる」神であるが故に、多神となる、というのが筆者のこの問題についての理解である。p.28.
 要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうのではないかと思われる。以上のような考えを踏まえて、ここで、所謂多神観の意義について若干の考察を加える必要があろう。従来の西欧流キリスト教思想では多神観、特に多神教は、宗教の堕落した形態と考えられていた。健全な理性なら当然、「唯一神テオス」は一つと考える筈である。絶対者、完全者が二つ以上ある訳がないからである。確かにその通りだが、我々は、ここで形而上学的、論理学的な次元と宗教上・心理上の次元とを区別して考える必要がある。後者は、主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が強調される。あくまでも「実践」が主であるから、この次元・領域に於いては、「真理」は、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、前者の形而上学的、論理学的思弁の次元は、「存在」と「認識」の領域である。ここでは、主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りに於いて、「真理」は、ただ一つである。主体は、或意味で客体によって規定されるからである。
 前者の次元では、前述の様に、「テオス」が二つ以上あるとは考え難い。しかし所謂「多神教」は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。抑々「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。絶対者、完全者、超越者などを表わしているのではない。それは、形而上学的、論理学的概念と言うよりは寧ろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、我々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場に於いてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような唯一絶対の神に対する全存在を挙げての帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。 それ故、多神観は、形而上学・論理学の次元で「絶対存在者」が幾つあるかと言うようなことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本音であろう。宗教・心理上の次元では、宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることである。実際一般のキリスト教教徒が「神」を礼拝している場合、その「神」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものの概念を有つことが可能であろうか。結局、実際には、複数の概念を結合して「神」を考えているのである。哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教に於いても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
 信仰実践の次元に於いて、人間の営みは、本来多神教的、或いは、筆者の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教に於いても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神教的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、唯一神的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神的傾向」がしからしめているのである。
 「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神ではなかったかと思われる。この点については、石田友雄、『ユダヤ教史』、p.22-26.及び、以下の引用文をも参照すると良いだろう。
 「・・聖書資料をよく検討してみると、族長たちが礼拝していた神とモーセに顕現したヤハウェが、実際には同一神でなかったことがわかる。何よりも、“アブラハムの神”“イツハクの神”“ヤコブの神”という特有の呼び名が、族長の神--より厳密には族長たちの神々--の本質を表わしている。・・守護神礼拝は、多分に一神礼拝的性格を持っている。族長たちが、モーセ時代以降の激しい異教排撃と無関係なことは、彼らが一神教徒ではなく、一神礼拝者であったことを示していると思われる。」(石田友雄、『ユダヤ教史』、p.23-24.)
「旧約の宗教は主として時間の軸に沿って展開するのだが、..私は、天幕の中に神の名を唱えつつ、天幕の無の空間に神の霊が満ちたという、そういう経験が繰り返されたと推定し、それが族長時代のひじょうに重要なことではなかっただろうかと考える。..族長時代にはあるかぎられた空間が霊的空間として重要な意味をもったと考えたい。..祭儀というのは空間的なものである。聖なる空間、霊的空間、神霊の満ちる場所ということは現代の我々には分かりにくいが、族長の信仰なり..を具体的に考える上で、そういうものを想定することが重要..。一番深い問題は神の名と一定の空間における神の現在との関係であろう。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.55-57.)
 「旧約の神は一般的、抽象的ではなく具体的なのである。..万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること..。旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、..それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。..旧約の神はすべての自然物の中に来たり給うし、我々の体の中にも来たり給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味で我々を越えている。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.64-66.)
 「「存在する者」とか「存在せしめる者」とか、さらに現代的に「実存者」という意味だ、というが、問題はこの時代に「存在」とか「実存」とかいう概念が正確に原語の意味に応ずるか、..。やはりある経験的・論理的な意味を少なくとも反省の段階ではヤハウェという名前に中に含めただろう..。ヘブライ語、アラム語に出てくる「ハーヤー」「ハヴァー」は、動詞の起因話態としては他に例がないので、「あらしめる者」という起因的な意味はむりであろう..。「「ある」を神の存在性、不動性、恒常性という抽象的意味から解すべきではなく--これは西欧的な神の属性の考え方である--、..「..君とともにあるであろう」という具体的な神の同伴、現在から解すべきであろう。..モーセとイスラエル全体に対しての歴史の中での、神とともにある霊的リアリティが中心だ、..歴史の中での神の活動を含む。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.67-68.)
 「..イスラエル人はカナンに入ってから周囲のカナン人の世界にふれたのだから、複数的に神を考える思考に当然ふれていた。「創世記」一章の「我々のかたちのように人を造ろう」という場合のような「我々」というのは複数である。カナン的な考え方を前提していわれているので、天の宮廷を考えて神的存在という意味で「我々」といっているのだ、..(アルトの説)」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.133.)
 「・・われわれ日本人は、絶対者としての神をいわばノエーマ的にではなく、ノエーシス的に把捉しているといってよかろう。したがって、神社の祭神は、時代の宗教思潮の変遷に伴って、また、しばしば変遷するであろう。」(西田長男、『日本神道史研究』、9、p.420-421.)

 何れにせよ、我々自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、ヨーロッパの人にはみられないことだろうか。ただ、このような「多神的な信仰」が、「唯一神的傾向」で現れるか、「多神教的傾向」で現れるかは、また別の問題である。
 以上のような事実は、我々の実際生活に於ける多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、寧ろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元に於いても宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神的」であっても、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などが捧げられる。形而上学的に言えば絶対者では在り得ない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論が在り得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(一神教の場合でさえ)在り得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。

2009年7月27日月曜日

内在的神観

 我々の経験するものは、すべて、相対的であり、動的である。永久不動のものは、経験を否定して、或は経験の彼方でしか与えられない。神をそのまま相対的、動的に捉えることは、それを世界内存在者として捉えることに他ならない。単に、神が世界に働きかけると言うだけでなく、神は、世界の一部である。勿論、これは、世界と神が即同一であるということ、即ち、いわゆる汎神論を意味するものではない。超越的神観が、容易に無神論へ逸脱する傾向を持つのに対して、内在的神観は、特に倫理的汎神論へ逸脱する可能性が強いことは、否定できない。

2009年7月25日土曜日

動的神観

宇宙の根源もしくは究極的な存在は、静的なものであるか、あるいは動的なものであるか、議論の分かれるところである。即ち、万物の究極の根源は、もしあるとしたら、それは、万物を動かしながら自らは動くことの無い、不動の動者か、あるいは自らも無限に活動する原動力なのか。ギリシア系の哲学では運動は、根本的に不完全の現れと見なされてきた。従って、完全そのもので無ければならない、万物の究極的な根源には運動の余地が全く有り得ない。不動の動者で無ければならない所以である。確かに我々の経験では、運動は、常に不完全の印である。しかし同時に多くの場合、それは完全性の印でもある。それは、生物と無生物とを比較してみれば良く判る。それ故、活動すると言うことは必ずしも不完全なことではなく、寧ろ完全なことでもある。従って、万物の究極の根源から、運動を完全に排除するのは、一面的な見方であるとも言える。論理の次元で、運動概念は不完全性を含むと言うことから、実在の次元でも運動を否定するのは誤りではないだろうか。少なくとも、究極の根源が「動」であり、との考え方を単に不条理として退けるべきではないであろう。所で、神道の神観では、神々は、動的な概念として捉えられている。『古事記』冒頭の創成神話から明らかな様に「ムス」と言う概念が重要な役割を果たして居るが、これは、万物を生み出し、育成し、完成させる「力」である。この力が目に見える形で現われる場合の一つがカミである。ここで注意すべきは、所謂西欧哲学の「本質」と「現象」の区別は、形而上学的には神道では立てられていないことである。従って目に見える具体的な事物の他に、これから遊離した別の「ムス」と言う「実体」が実在すると考えられている訳ではない。ムスと言う力そのものが具体的事物として働き掛け、それが人間の畏れかしこみの対象とされるのである。すなわち、物を生み、育成する力そのものが、 存在としてではなく、力 としてカミと成るのである。存在の「ある」の面よりも 「成る 」の面の方が強調されていると言えよう。

2009年7月24日金曜日

相対的神観

 神道の「神」は、本質的に相対的である。如何なる神も「絶対者」ではない。確かに或神、例えば、天照大神を皇祖神として事実上絶対化しようとする傾向は、絶えず見られるが、これは、いわば「信奉者」の願望、若しくは意思であって、概念自体は、常に相対的なものを指している。信仰の内容として見ても、「絶対者」自体に対する信仰は、存在しない。神観が相対的であると言うことは、「他」を抱擁、総合することが至難であり、相手の存在を否定することによってしか、統合できないと言う危険を抱えている。

2009年7月23日木曜日

個別神について

具体的な個別神として、天之御中主神、天照大神について一言してこう。
1 天之御中主神信仰
 「天地初めて発[ヒラ]けし時、高天原に成りませる神、御名は天之御中主神。」(『古事記』)とある様に、この神は、始源神(初発神)である。この神が唯一神的性格を持つに至った理由は、一つには、儒教の「天」の思想の影響であり、他は、仏教の「応現」(或いは権現)の思想の影響によるのであろう。特に、日本書紀が編纂時の儒・仏教の影響が強いことは周知である。神武紀には、「天道に逆らう」、神功皇后紀には、「百済国は天の致[タマ]わるところ」、仁徳紀では、「天命なり」と言うように、「天」の思想は、当時の日本人によく理解されていたはずである。更に「神道五部書」の中の『倭姫命世記』(大治[ダイジ]四(1129)成立?)では、豊受大神を大自在天及び天之御中主神と同一視しているが、大自在天とは、シヴァ神である。これが、天之御中主神と習合している。これが、平田篤胤(1776-1843)によって、万物の主宰神とされた。中世以降、妙見信仰と習合した。
2 天照大神信仰
「共に三輪の地に分祀されたとされる天照大神と倭大国魂神は、いずれも三輪山麓を祭場として祀られるべき三輪山の神であったと考えられる。しかし、もちろん天照大神は巫女神オホヒルメを原像とした舒明~天智朝以降の所産であるから、ここは、・・五世紀以前の三輪山の祭祀はタカミムスビの原形になる太陽神とオホナムチの原形となる土地神とにかかわるものであり、いいかえれば、王権の最高守護神たる太陽神と、これに対応する農耕神の風貌をとどめた地域的守護の統合神たる大地主[オオツチヌシ]神の双方を祀っていたとみるのが、最も正鵠をえた解釈といえよう。とすれば、四世紀後半~五世紀前半の第一段階の三輪山での祭祀も、その互いの神威を畏怖して分祀した日神と地域的統合神の、二つの本質的に異なった祭祀が想定されねばならない。」(寺沢薫、「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」in『大神と石上』(和田萃編)、p.71-73.)
「古く日本人は、森羅万象のすべてに神がいるというアニミズムの世界に住んでいた。心の御柱は、この形なき神々の段階のものである。そのなかから、しだいに農業を支配する神としての太陽神・穀霊神へと信仰は集中していった。「用明紀」にみえる「日神」は、この段階を示しており、穀倉の段階がこれに当たる。そしてさらに太陽神は天照大神、穀霊神は豊受大神という名のある神へと昇華され、神話によってライフヒストリーの語られる人格神へと発展した。この段階にいたって、人の姿をした神の宮殿にふさわしいものとして、回廊をめぐらした唯一神明造りが創りだされたのである。」(上田正昭編、『伊勢の大神』、p.46.)
1.太陽神
 この神は、神々生成の最終段階に出現する、太陽神である。つまり、書紀本段が言うように、天照大神は、「日ノ神」であり、「この子[ミコ]、光華明彩[ヒカリウルハシ]くして、六合[クニ]の内に照り徹る」太陽である。しかし、これは、中世までの信仰であって、近世以降の神学ではない。学問的に信頼性の高い説としては、天照大神は、太陽に仕える巫であった。それ故、天照大神は、太陽でもあり、またそうでもない。その両面を信仰事実の中で備えている。ここで留意すべきは、上代人の太陽信仰も、必ずしも天空の一物体としての太陽に対する信仰ではなく、「陽光」のくすしき働きの中に神霊を感得する信仰と言うことである。ちなみに、神道祭祀においては、直接太陽を対象とする崇拝はない。とにかく、天照大神は、高天原の中心神格であり、神話と人代とを結ぶ役割を持つ。仏教との習合としては、後に、密教において、天照大神の本地が大日如来であるとされる様になる。
2.皇祖神
「天照大神もしくはその原体の原初的・基本的な性格が祖神たることに存した・・。・・その祖神性には、二期があり、初めは衆庶もしくは民族の御親でおはしたのが、やがては統治者・天皇氏の御親即ち皇祖神となりましたと思う。切言すれば、日本国内に於て行われた北方系民族と南方系民族との混融は、武力的優位による前者の後者制圧の形をとったが、しかし前者が員数の上で後者に匹敵し得なかったこと、又わが国への移動に当たって女人を伴うことが多なかった事から、後者の母権母系母処婚に規制されて、夫と妻とが別居し、子女は母の許で養育されたことなどのために、両民族の混融が成果させた文化は、「南方系文化による北方系文化の吸収」の過程を基調とした文化であり、その結果、父系的民族に於ける男性の祖神が、母系的民族に於ける女性の「民族の御祖(みおや)の色調を帯びるようになり、そして遂にはそれが、北方民族の、もしくは南北両民族の混融から成る民族の首長としての天皇氏の皇祖として崇拝されるに至ったのであると思う。」(松村武雄、『日本神話の研究』、2、p.57-571.)
 更に、天照大神は、皇祖神として天皇直祭の歴史を持ち、伊勢神宮創立後も、各地の天皇直轄地に神明社として勧請された。しかし、厳密には、天照大神は、皇祖ではない。天忍穂耳命は、天照大神の左のミズラに纏かれた八尺勾を物実とした成った神であるから、生みの子ではない。迩迩藝命は、高木ノ神の女・万幡豊秋津師比売と天忍穂耳命の子であるから、天忍穂耳命とは血縁関係にある。この意味で、天忍穂耳命は、神話的な「成る神」と「生まれる神」とを神話的に媒介する者である。何故、「皇太子」ではなく、「皇孫」が降臨したのかと言う神話的説明の一端(神童降臨説の他に)がここに見られるのではないだろうか。即ち、天照大神は、人間神としての皇孫と血縁の親子ではない。しかし、その自然神と皇祖神との結合にこそ、神道信仰の本質が示されている。(上田賢治、『神道神学』(神社新報社)、第三章、参照)
 いずれにせよ、太陽神としての神格が、天照大神を天津神、国津神の統括神とした。しかし、天照大神信仰の絶対化傾向は、皇祖神としての信仰からも生じたのである。いわゆる三大神勅、特にその「天壌無窮」の神勅がこの信仰の基礎にある。この面では、仏教よりも寧ろ儒教と習合し、大義名分論、尊皇斥覇の論となって明治維新を迎えるのである。
「天照大神という広大無辺な名が新しいゆえんは、それが一つのあらたな政治的次元を表現していることに関連する。・・太陽崇拝についていえば、少なくとも日本でそれがきわだって意識されてくるようになるのは、王を太陽の子すなわち「日の御子」とする政治的神学の軸が急速に強められるに至った過程に応ずるものと考えて、ほぼ間違いあるまい。・・アマテラスといういいかたは決して自然発生的ではなく、光りかがやく君臨をあらわす。」(西郷信綱、『古事記注釈』、第一巻、平凡社、1989.、p.225-226.)
3.女性神

「・・天照大神の原体の三性格の一つである司霊者的性格と太陽神との関係の在り方がほぼ明らかになって来た。原体は太陽神そのものではなくて、太陽神を祭る者としての霊巫であったとすべきである。それはヒルメ即ち日の神の妻[メ]であった。そして天照大神がその主要性格の一つとして太陽神的性格を帯びるに至る路が、実にここに存した・・。上代の日本民族は、或る神に奉仕してこれを祭祀する女性---霊巫をば該神の妻[メ]であると観じ、且つ信じていた。そしてさうした者としての霊巫は、一面に於てその神の憑代[ヨリシロ]であると共に、他面に於てはその神の配偶としてその神の子を生むべき者、従ってまた他に配偶を持つことを容されない者であるとされたもの、上代日本民族の固い信仰であった。およそこうした観念・信仰が、やがては「祭らるる者」と「祭る者」との隔たりを撥無して、神とその霊巫とを同一化するに至る・・。」(松村武雄、『日本神話の研究』、
「天にあって照り給う神の意だが、・・紀に天照大神の亦の名を大日貴[ヒルメノムチ]と呼び・・。ヒルメはすでにいわれているように日の妻[メ]、すなわち日神に仕える巫女の意であろう。・・ヒルメという名が日の光に感じて孕む聖母の意であることがわかる。・・巫女は聖母なのであり、この聖母という観念は天照大神の何たるかを考えるにさいしても(ヒルメと違い天照大神は至上神としてかたがた中性化するのだが)、やはり捨てさるわけにゆかない。・・ヒルメより天照大神という名の方が新しい。ヒルメが天照大神に転化したのであり、天照大神はヒルメの後身である。ここで神名の新旧をいかに判読するかについて一言すれば、透明度ということが一つの基準になりうる・・。」(西郷信綱、『古事記注釈』、第一巻、平凡社、1989.、p.224.)
 天照大神が女神である論拠は、「記紀共に、素嗚尊との関係で、姉弟の言及があること、それが殆ど唯一であり、天照大御神直接の御行為に関しては、斎服殿に於いて神衣を織られたことぐらい」(上田賢治、『神道神学』(大明堂)、p.202.)にすぎない。しかし、男性神であると言う信仰も「古典に関する限り皆無」(同、p.202.)である。私見では、恐らくこの神は、原初には男性神であったのであろうが、遅くとも古典形成期には、既に女神としての信仰が確立していたのであろう。

2009年7月22日水曜日

神道における個人信仰

記・紀神話に現れる神々をその働きの上から分類すると、氏神、土地(産土<うぶすな>)神、霊験神に分けられよう。勿論この区別は、互いに排他的ではなく、ある面で重なり合っているのは、言うまでもない。氏神は、勿論氏族が尊崇するカミであるが、氏は、寧ろ社会学的な概念であって必ずしも生理的に同一の血統を共有しているとは限らない。この意味で寧ろ土地神的な要素を多分に含むものである。従って、厳密に見て行けば、氏神と土地神との境界は、曖昧である。氏神の一種として所謂皇室神があり、これが後に国家神道もしくは、天皇制神道に発展して行く訳である。土地神は、一定の土地に結びついているカミで、その土地から豊かな(農)産物をもたらすと信じられているが、この概念は、更に拡大されて一般に職業による生産物を司どるカミともなる。恐らく発生的には非常に古い土着のカミを現わすものであるかも知れない。霊験神は、何等かのご利益もたらすと信じられているカミで、当然氏神や土地神がこれを兼ねる事もあり得る。
 所で、常識的な神に就いて言えば、一般に、神は、存在的には人間に依存しない筈であるが、認識的には人間に依存する。つまりわかりきったことであるが、人間がカミを認識するから初めてカミについての人間の思考が成立するのである。特に神道の場合それが言える。すなわち、神道のカミは、その大部分が、所謂祭られるカミであって、思弁の対象としてのみ存在するカミは殆どない。即ち、ある特定の人(々)の哲学的な思索の対象として捉えられることが殆ど無かったから、カミを斎つく集団があって初めてその集団が祭るカミとして成立した。そして多くの場合その集団と共に消長した。実際、神道では、個人的信仰は、仮に在ったとしてもその検出はほとんど不可能であり、信仰は、概して部落、もしくは氏族の集団的信仰であった。従って、我々は、前述の北方系もしくは南方系の要素を考慮する外に、当時の部落がどんな状況にあったかを推定することによって、ある程度その部落の集団的信仰、そしてその神観を推定することができる。類型的には、豊富な水源としての山、その水を運ぶ川、この川に沿い、外敵から比較的安全に守られた山麓の小さな空間、このようなところが、稲作農耕、特に水田を営む当時の部落の最適な立地条件であったろうと思われる。事実、当時の遺跡は、このような場所で多く発見されている。人々は、このようなところに比較的緊密な結合を保ちながら住み着き、自分たちの間で協力しながら稲作に従事したのであろう。彼らにとって最大の関心事は、農作物が豊かに実ることであったに相違ない。物理学、生物学についての知識がまだ十分でなかった、当時の人々にとっては、豊作をもたらしてくれるものは、単に人間の努力や、自然の天候のみではなく、これらの彼方に働く、或超越的な力であった。すなわち、彼らの目には見えないが、回りには神秘な力が取り巻いていて、それが時と場合によって、色々なものを生み出し、農作物には豊作をもたらしたり、あるいは不作をもたらすと考えられていた。前述の様に、記・紀ではこのような力は、まず植物を成長させる生命力として捉えられている。すなわち、「むす」力である。しかもこの力は、一定の原因を与えれば、必ず一定の結果をもたらすような、生物学的、物理学的力として捉えられているのではなく、人間の思議や統御を越えた神秘的なものとして崇められていたのである。記・紀では、この神秘性は、「ひ」とか「ち」とかあるいは「たま」と言うような言葉で表現されている。つまり、崇拝の対象になっているのは、「力」そのものであるから、その現れ方は本来無特定である。こうして、農作物に豊穣をもたらす限りに於いて、糞尿までも「カミ」として崇められたのである。この中、「たま」はしばしば漢字で「霊」と書かれているが、これは、事物には目に見えない「霊 anima」と言う実体が宿っていると言う観念を意味するのではなく、ある特定の場合に、そして、ある特定の事物に具体的に神秘的な力が現れると言う信念である。この意味で、これをアニミズムもしくはアニマティズムと理解するのは必ずしも正確とは言えない。又以上の考えを自然物崇拝と言うのも当たらない。山や森や木その他の自然物そのものが崇拝の対象となっているのではなく、ある特定のもの(山、森、木など)が具体的に、そして多くの場合は一時的に、「たま」を宿すものとして、或はむしろ「たま」そのものとして崇められるからである。つまり、例えば、どんな山でも尊いのではなく、部落や氏族との関係で特別な力を現す山のみが尊いのである。

2009年7月21日火曜日

天降る神と訪れる神

更に考えるべきは、記紀においても見られる、天降る神と訪れる神との区別である。前者は、記紀の根幹を為す神々として随所にみられるが、後者の典型は、少彦名神(記では、神産巣日神、紀では、高皇産霊神の子神)と山幸(彦火火出見尊)神話である。このことは、基層神道の信仰が、垂直方向と水平方向との二つの軸を持つ宇宙観を抱いており、そのこと自体が、また文化の複合性を示唆している。こうして「カミ」は、天に住むと共に、また海の彼方にも住むと考えられた。ちなみに、天も海も共に「アマ」と呼ばれていたのは周知である。
 記・紀が例えば、アメノミナカヌシノミコトの様な「考えられたカミ」を冒頭に置いている事実を指摘して置こう。即ちこの事は、記・紀が単に既存の信仰を採録しているだけではなく、広い意味で「神学」していることをも意味するものである。つまり、この神名の本来の意味は何であるかは別として、少なくとも記・紀の神話に或種の総合性をもたらすために、広い意味でのカミという概念を理性的に理解しようとする努力が加えられている事の印である。前述の区別によれば、所謂二次思考がなされている訳である。その結論を受け入れるかどうかは別として、我々は、ここに神道に於て、少なくとも原理的に「神学」する事の可能性が示唆されているのを認めるものである。

2009年7月20日月曜日

天神・国神

 我々は、記・紀神話に於て、神々の中に天神(アマツカミ)と国神(クニツカミ)との区別が立てられているのを見る。これはどの様に解釈されるべきであろうか。前者は、征服者のカミ、後者は、被征服者のカミ、と単純に理解して良いだろうか。一般に、太古には、現在の島根を中心に出雲系民族が繁栄していたのに対して、所謂天孫系民族がこれを服属して大和朝廷を立てたとされ、前者の民族に属する神々が、国つ神、後者が、天つ神であるとされている。大変示唆に富む説であるが、難点が無いわけではない。先ず、出雲地方にその様な大民族圏の中心があったとすれば、それなりの考古学的な痕跡があるはずであるが、それらしきものは見られないようである。但し、最近かなり重要な意味を持つ資料が大量に発見された模様であるが、その正確な評価については、今後の解明に待ちたい。次に所謂国つ神を斎き祭る古い神社が出雲地方よりも寧ろ畿内に多いという事実をどう説明するかと言う問題がある。第三に、九州、筑紫地方並びに後に、「熊襲」、「隼人」と呼ばれるようになる文化圏との関係をどう捉えるか、これらも「出雲国家」の一部と見なすべきかどうか。
 以上のような事情からみて、単純に「出雲国家」の存在を想定する訳には行かない。従って、天つ神、国つ神の区別も、冒頭に述べた程に単純ではない。
 私見では、「出雲国家」、「出雲系民族」は、政治的要素の濃い概念である。
勿論、これらの言葉が記・紀神話に出ている訳ではないが、それらが指し示している事態は、確かに在り、それが政治的な色彩を担っていると言うわけである。敢えて言えば、それは、記・紀信仰集団が幾らかの事実を基礎に創り出したものである。即ち、弥生時代の文化史的状況は、北方的文化要素と南方的文化要素とが複雑に絡み合っていたと思われる。従って、神々も両系のものが、複雑に混在していたであろう。その様な状況の中で、北方的文化要素を強く引きずった、後に天皇家と呼ばれる氏族を中心とする豪族群が、次第に統一政権を形成してきた。彼らの列島への到着が何時であったかは判らないが、少なくともその記憶の中に移住の痕跡が残っていたのは確かであろう。彼らはこの記憶を「高天原神話」の形で神話化したが、それに伴って、謂わば必然的にその対立項として「出雲」を生み出した。勿論これは、単なる空想的捏造という意味ではなく、何等かの意味で異質的な要素を感じたことが、その基礎にあったのであろう。こうして、「高天原神話」圏に属さない神々が、国つ神として捉えられたのである。しかし、少なくとも「神観」に関する限り、両者の間に本質的な差異は認められない。それ故、私見では、両者は、判然と区別出来るものではなく、遥か昔に数次にわたって渡来してきた人々の歴史的記憶と、経験の外に理想のくにを求める民衆の願望とが一体となって成立した宗教理念である。従って天つ神は、渡来者のカミ、征服者のカミ、国つ神は、土着のカミ、被征服者のカミと単純に分類すべきではないであろう。

2009年7月19日日曜日

二種類の神

 神道のカミには大きな二つの種類がある。即ち神名と共にそのいわば経歴が具体的に述べられているものと、単に神名だけが挙げられているものである。これらの神名に纏わる種々の状況から、我々は、前者を「祭られるカミ」、後者を「考えられたカミ」と呼ぶことにする。祭られる神は、恐らく部落共同体の共通の宗教体験に基づいて、信仰実修の対象として、古くから具体的に斎き祭られて来たカミであり、従って、後の世にも多少とも崇拝者群を持ち続けてきたカミである。更にこの「祭られるカミ」は、これを細分すると、或集団に血縁的に関わっていると考えられたカミ(例えば氏神)と或集団に機能的に関わっていると考えられたカミ(例えば産土神)とに分けられる。これに対して、「考えられたカミ」は、何等かの目的のために、崇拝者群とは無関係に、いわば哲学的に考察されたカミである。西欧の思想史の中では、例の有名なパスカルの「哲学者の神」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」との区別が、ある意味で似たような事を言わんとしているのであろう。