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2009年7月25日土曜日

動的神観

宇宙の根源もしくは究極的な存在は、静的なものであるか、あるいは動的なものであるか、議論の分かれるところである。即ち、万物の究極の根源は、もしあるとしたら、それは、万物を動かしながら自らは動くことの無い、不動の動者か、あるいは自らも無限に活動する原動力なのか。ギリシア系の哲学では運動は、根本的に不完全の現れと見なされてきた。従って、完全そのもので無ければならない、万物の究極的な根源には運動の余地が全く有り得ない。不動の動者で無ければならない所以である。確かに我々の経験では、運動は、常に不完全の印である。しかし同時に多くの場合、それは完全性の印でもある。それは、生物と無生物とを比較してみれば良く判る。それ故、活動すると言うことは必ずしも不完全なことではなく、寧ろ完全なことでもある。従って、万物の究極の根源から、運動を完全に排除するのは、一面的な見方であるとも言える。論理の次元で、運動概念は不完全性を含むと言うことから、実在の次元でも運動を否定するのは誤りではないだろうか。少なくとも、究極の根源が「動」であり、との考え方を単に不条理として退けるべきではないであろう。所で、神道の神観では、神々は、動的な概念として捉えられている。『古事記』冒頭の創成神話から明らかな様に「ムス」と言う概念が重要な役割を果たして居るが、これは、万物を生み出し、育成し、完成させる「力」である。この力が目に見える形で現われる場合の一つがカミである。ここで注意すべきは、所謂西欧哲学の「本質」と「現象」の区別は、形而上学的には神道では立てられていないことである。従って目に見える具体的な事物の他に、これから遊離した別の「ムス」と言う「実体」が実在すると考えられている訳ではない。ムスと言う力そのものが具体的事物として働き掛け、それが人間の畏れかしこみの対象とされるのである。すなわち、物を生み、育成する力そのものが、 存在としてではなく、力 としてカミと成るのである。存在の「ある」の面よりも 「成る 」の面の方が強調されていると言えよう。