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2009年7月28日火曜日

多神観

 神道の神観は、或意味で、必然的に多神観に立たざるを得ない。そして、神道神学もこの事を否定しないばかりか、寧ろ積極的に肯定している。歴史的には、基層神道の信仰も多神的であることは、議論の余地はない。
 上田賢治は、神道が、多神教である論拠を以下のように挙げている。
 「第一に、神道信仰は、・・・記紀に示された信仰心意の原理に背馳しないものでなければならない。・・神道信仰のアイデンティティ―を保証するものは、記紀時代、すでに成立していた民族自発の発想・信仰原理に基づくものであり、それからの展開として神社祭祀の現実にも継承されていなければならない。・・第二に、神道神話には、全智にして全能なることを属性とする神は出現せず、祭祀の現実においても、・・多数神(延喜神名式--九二七年--には三千一百三十二座)が、同時に奉幣の待遇を受けて来た。p.26-27.(神話の神々は不完全であった)
 一神にして多くの神名を持つ神の問題・・神道の神理解は、・・尋常ならずすぐれた徳(働き)あるものに向けられており、・・人間がその実体を全体として把握しうる対象ではない。我々が神の存在を知りうるのは、神からの働きを受けてのことであり、その故に神の御名は、我々がその働きに対して奉ったものに外ならない。もし統合的に神を理解し、思念する志向が中心的傾向を占めていたのなら、大穴牟遅も八千矛ノ神も、共に大国主の御名で祀られていた筈である。ところが事実は逆に、大穴牟遅ノ神はあくまでも大穴牟遅ノ神として奉斎されて来たのである。この事実は、一神教化への傾向よりも、むしろ多神教化への志向こそ、神道本来の姿であった・・。p.27-28.
 最後に、古典神話には、超越神、従って創造神も語られていない・・。・・神道神話は、・・世界を所与からの発展、或いは展開として理解しており、神はその所与から、存在を存在たらしめ、発展させる力としての本質が顕現する形で語られている。p.28.
 神道の神が「ナル」神であり、或は「生れる」神であるが故に、多神となる、というのが筆者のこの問題についての理解である。p.28.
 要するに、神道の信仰の本質は、多神教であり、多神的信仰を失えば、宗教としての神道は、その本来の面目を損なうのではないかと思われる。以上のような考えを踏まえて、ここで、所謂多神観の意義について若干の考察を加える必要があろう。従来の西欧流キリスト教思想では多神観、特に多神教は、宗教の堕落した形態と考えられていた。健全な理性なら当然、「唯一神テオス」は一つと考える筈である。絶対者、完全者が二つ以上ある訳がないからである。確かにその通りだが、我々は、ここで形而上学的、論理学的な次元と宗教上・心理上の次元とを区別して考える必要がある。後者は、主体の在り様が重要な意味を持ち、心理的、情動的要素が強調される。あくまでも「実践」が主であるから、この次元・領域に於いては、「真理」は、多様で有り得る。それは、個々の主体の「善」に関わるからである。これに対して、前者の形而上学的、論理学的思弁の次元は、「存在」と「認識」の領域である。ここでは、主体の善よりも、客観的な「真」が重要な意味を持つ。その限りに於いて、「真理」は、ただ一つである。主体は、或意味で客体によって規定されるからである。
 前者の次元では、前述の様に、「テオス」が二つ以上あるとは考え難い。しかし所謂「多神教」は、実際にその様なことを主張しているのであろうか。そうではあるまい。抑々「神」と言う概念そのものに問題があるのである。上述のように神道で言う「神」は、一義的な概念ではない。絶対者、完全者、超越者などを表わしているのではない。それは、形而上学的、論理学的概念と言うよりは寧ろ言わば宗教的概念であり、常人よりも何等かの意味で多少優れた信仰なり礼拝の「対象」と考えられているものである。敢て言えばそれは、我々の宗教活動の「焦点」である。所謂「多神教」と言うのは、宗教の実践的活動の場に於いてこの様な「焦点」が多数在り得る事を主張する立場である。ここで言う「礼拝」と言う概念もキリスト教神学で厳密に「定義」されているような唯一絶対の神に対する全存在を挙げての帰依を指しているのではなく、無論それを否定するものでもないが、もっと単純な「有り難し・畏し」と言う心地を表わすものである。 それ故、多神観は、形而上学・論理学の次元で「絶対存在者」が幾つあるかと言うようなことを直接に問題としているのではない。この様な問題については敢て論及を差し控えると言うのが本音であろう。宗教・心理上の次元では、宗教活動の焦点が複数である、あるいはこれらの焦点が時に応じて変動すると言うことは決して矛盾ではなく、普通一般に見られる現象である。これは哲学的な唯一神論の立場に立つ、例えばキリスト教の様な場合にも事実上見られることである。実際一般のキリスト教教徒が「神」を礼拝している場合、その「神」は、形而上学的、論理学的な概念であろうか。果たして人間には「絶対完全者」そのものの概念を有つことが可能であろうか。結局、実際には、複数の概念を結合して「神」を考えているのである。哲学の次元では、唯一神論が論理的に説かれるが、宗教上の次元、つまり実践の場では宗教活動の「焦点」は、決して単一ではない。そればかりか、これらの「焦点」は、キリスト教に於いても時と場合に応じて種々に変動していることも否めない。従って具体的な宗教現象、信徒の心理現象として見た場合、所謂「多神教」と言われるものからそれ程掛け離れている訳ではない。
 信仰実践の次元に於いて、人間の営みは、本来多神教的、或いは、筆者の表現では、「多中心的」である。これは、理論と言うよりも一つの事実である。唯一神教の代表と言われる、ユダヤ・キリスト教に於いても、その信仰の実践を客観的にみれば、多神教的である。これは、聖書を良く読めば、自ずと判明する。尤も、唯一神的解釈が加えられているのは、言うまでもない。これは、上述の「唯一神的傾向」がしからしめているのである。
 「ヤハウェ」観念(観念という語に注意)というのも元来は、イスラエルの一部族神ではなかったかと思われる。この点については、石田友雄、『ユダヤ教史』、p.22-26.及び、以下の引用文をも参照すると良いだろう。
 「・・聖書資料をよく検討してみると、族長たちが礼拝していた神とモーセに顕現したヤハウェが、実際には同一神でなかったことがわかる。何よりも、“アブラハムの神”“イツハクの神”“ヤコブの神”という特有の呼び名が、族長の神--より厳密には族長たちの神々--の本質を表わしている。・・守護神礼拝は、多分に一神礼拝的性格を持っている。族長たちが、モーセ時代以降の激しい異教排撃と無関係なことは、彼らが一神教徒ではなく、一神礼拝者であったことを示していると思われる。」(石田友雄、『ユダヤ教史』、p.23-24.)
「旧約の宗教は主として時間の軸に沿って展開するのだが、..私は、天幕の中に神の名を唱えつつ、天幕の無の空間に神の霊が満ちたという、そういう経験が繰り返されたと推定し、それが族長時代のひじょうに重要なことではなかっただろうかと考える。..族長時代にはあるかぎられた空間が霊的空間として重要な意味をもったと考えたい。..祭儀というのは空間的なものである。聖なる空間、霊的空間、神霊の満ちる場所ということは現代の我々には分かりにくいが、族長の信仰なり..を具体的に考える上で、そういうものを想定することが重要..。一番深い問題は神の名と一定の空間における神の現在との関係であろう。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.55-57.)
 「旧約の神は一般的、抽象的ではなく具体的なのである。..万有在神論というのは自然物そのものが神だというのではなく、自然という、神とはぜんぜん違ったものの中に神性が宿ること..。旧約聖書の神は、超越的で天にいて人を裁く神だというのが俗説だが、..それは結局旧約聖書を厳密に読まないからである。..旧約の神はすべての自然物の中に来たり給うし、我々の体の中にも来たり給うのである。けれども、我々の中に内在しきってしまうということはなく、その意味で我々を越えている。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.64-66.)
 「「存在する者」とか「存在せしめる者」とか、さらに現代的に「実存者」という意味だ、というが、問題はこの時代に「存在」とか「実存」とかいう概念が正確に原語の意味に応ずるか、..。やはりある経験的・論理的な意味を少なくとも反省の段階ではヤハウェという名前に中に含めただろう..。ヘブライ語、アラム語に出てくる「ハーヤー」「ハヴァー」は、動詞の起因話態としては他に例がないので、「あらしめる者」という起因的な意味はむりであろう..。「「ある」を神の存在性、不動性、恒常性という抽象的意味から解すべきではなく--これは西欧的な神の属性の考え方である--、..「..君とともにあるであろう」という具体的な神の同伴、現在から解すべきであろう。..モーセとイスラエル全体に対しての歴史の中での、神とともにある霊的リアリティが中心だ、..歴史の中での神の活動を含む。」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.67-68.)
 「..イスラエル人はカナンに入ってから周囲のカナン人の世界にふれたのだから、複数的に神を考える思考に当然ふれていた。「創世記」一章の「我々のかたちのように人を造ろう」という場合のような「我々」というのは複数である。カナン的な考え方を前提していわれているので、天の宮廷を考えて神的存在という意味で「我々」といっているのだ、..(アルトの説)」(関根正雄、『古代イスラエルの思想家』、p.133.)
 「・・われわれ日本人は、絶対者としての神をいわばノエーマ的にではなく、ノエーシス的に把捉しているといってよかろう。したがって、神社の祭神は、時代の宗教思潮の変遷に伴って、また、しばしば変遷するであろう。」(西田長男、『日本神道史研究』、9、p.420-421.)

 何れにせよ、我々自身の信仰を振り返れば、時と場合に応じて色々な「カミ」に祈っているが、これは、ヨーロッパの人にはみられないことだろうか。ただ、このような「多神的な信仰」が、「唯一神的傾向」で現れるか、「多神教的傾向」で現れるかは、また別の問題である。
 以上のような事実は、我々の実際生活に於ける多神観の意義をもう一度積極的に見直して見る必要を示唆するものである。つまり、多神観は、人間の堕落した考え方なのではなく、寧ろ人間本性の正当な要求として捉えられるべきである。勿論、宗教の次元に於いても宗教活動の対象つまり「神」に対しては、それが仮令「多神的」であっても、心情的には絶対的な帰依、信頼、礼拝などが捧げられる。形而上学的に言えば絶対者では在り得ない対象に向かって、この様な絶対的行為を捧げるのは矛盾ではないか、との反論が在り得ようが、これに対しては、確かに、相対的なものを絶対化する危険は、如何なる場合にも(一神教の場合でさえ)在り得るのであって、そのため絶え間のない自己批判が求められるのであるが、心情的に絶対化されたものが必ずしも存在の次元でも絶対化されるとは限らない、と言うべきであろう。