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2009年7月23日木曜日

個別神について

具体的な個別神として、天之御中主神、天照大神について一言してこう。
1 天之御中主神信仰
 「天地初めて発[ヒラ]けし時、高天原に成りませる神、御名は天之御中主神。」(『古事記』)とある様に、この神は、始源神(初発神)である。この神が唯一神的性格を持つに至った理由は、一つには、儒教の「天」の思想の影響であり、他は、仏教の「応現」(或いは権現)の思想の影響によるのであろう。特に、日本書紀が編纂時の儒・仏教の影響が強いことは周知である。神武紀には、「天道に逆らう」、神功皇后紀には、「百済国は天の致[タマ]わるところ」、仁徳紀では、「天命なり」と言うように、「天」の思想は、当時の日本人によく理解されていたはずである。更に「神道五部書」の中の『倭姫命世記』(大治[ダイジ]四(1129)成立?)では、豊受大神を大自在天及び天之御中主神と同一視しているが、大自在天とは、シヴァ神である。これが、天之御中主神と習合している。これが、平田篤胤(1776-1843)によって、万物の主宰神とされた。中世以降、妙見信仰と習合した。
2 天照大神信仰
「共に三輪の地に分祀されたとされる天照大神と倭大国魂神は、いずれも三輪山麓を祭場として祀られるべき三輪山の神であったと考えられる。しかし、もちろん天照大神は巫女神オホヒルメを原像とした舒明~天智朝以降の所産であるから、ここは、・・五世紀以前の三輪山の祭祀はタカミムスビの原形になる太陽神とオホナムチの原形となる土地神とにかかわるものであり、いいかえれば、王権の最高守護神たる太陽神と、これに対応する農耕神の風貌をとどめた地域的守護の統合神たる大地主[オオツチヌシ]神の双方を祀っていたとみるのが、最も正鵠をえた解釈といえよう。とすれば、四世紀後半~五世紀前半の第一段階の三輪山での祭祀も、その互いの神威を畏怖して分祀した日神と地域的統合神の、二つの本質的に異なった祭祀が想定されねばならない。」(寺沢薫、「三輪山の祭祀遺跡とそのマツリ」in『大神と石上』(和田萃編)、p.71-73.)
「古く日本人は、森羅万象のすべてに神がいるというアニミズムの世界に住んでいた。心の御柱は、この形なき神々の段階のものである。そのなかから、しだいに農業を支配する神としての太陽神・穀霊神へと信仰は集中していった。「用明紀」にみえる「日神」は、この段階を示しており、穀倉の段階がこれに当たる。そしてさらに太陽神は天照大神、穀霊神は豊受大神という名のある神へと昇華され、神話によってライフヒストリーの語られる人格神へと発展した。この段階にいたって、人の姿をした神の宮殿にふさわしいものとして、回廊をめぐらした唯一神明造りが創りだされたのである。」(上田正昭編、『伊勢の大神』、p.46.)
1.太陽神
 この神は、神々生成の最終段階に出現する、太陽神である。つまり、書紀本段が言うように、天照大神は、「日ノ神」であり、「この子[ミコ]、光華明彩[ヒカリウルハシ]くして、六合[クニ]の内に照り徹る」太陽である。しかし、これは、中世までの信仰であって、近世以降の神学ではない。学問的に信頼性の高い説としては、天照大神は、太陽に仕える巫であった。それ故、天照大神は、太陽でもあり、またそうでもない。その両面を信仰事実の中で備えている。ここで留意すべきは、上代人の太陽信仰も、必ずしも天空の一物体としての太陽に対する信仰ではなく、「陽光」のくすしき働きの中に神霊を感得する信仰と言うことである。ちなみに、神道祭祀においては、直接太陽を対象とする崇拝はない。とにかく、天照大神は、高天原の中心神格であり、神話と人代とを結ぶ役割を持つ。仏教との習合としては、後に、密教において、天照大神の本地が大日如来であるとされる様になる。
2.皇祖神
「天照大神もしくはその原体の原初的・基本的な性格が祖神たることに存した・・。・・その祖神性には、二期があり、初めは衆庶もしくは民族の御親でおはしたのが、やがては統治者・天皇氏の御親即ち皇祖神となりましたと思う。切言すれば、日本国内に於て行われた北方系民族と南方系民族との混融は、武力的優位による前者の後者制圧の形をとったが、しかし前者が員数の上で後者に匹敵し得なかったこと、又わが国への移動に当たって女人を伴うことが多なかった事から、後者の母権母系母処婚に規制されて、夫と妻とが別居し、子女は母の許で養育されたことなどのために、両民族の混融が成果させた文化は、「南方系文化による北方系文化の吸収」の過程を基調とした文化であり、その結果、父系的民族に於ける男性の祖神が、母系的民族に於ける女性の「民族の御祖(みおや)の色調を帯びるようになり、そして遂にはそれが、北方民族の、もしくは南北両民族の混融から成る民族の首長としての天皇氏の皇祖として崇拝されるに至ったのであると思う。」(松村武雄、『日本神話の研究』、2、p.57-571.)
 更に、天照大神は、皇祖神として天皇直祭の歴史を持ち、伊勢神宮創立後も、各地の天皇直轄地に神明社として勧請された。しかし、厳密には、天照大神は、皇祖ではない。天忍穂耳命は、天照大神の左のミズラに纏かれた八尺勾を物実とした成った神であるから、生みの子ではない。迩迩藝命は、高木ノ神の女・万幡豊秋津師比売と天忍穂耳命の子であるから、天忍穂耳命とは血縁関係にある。この意味で、天忍穂耳命は、神話的な「成る神」と「生まれる神」とを神話的に媒介する者である。何故、「皇太子」ではなく、「皇孫」が降臨したのかと言う神話的説明の一端(神童降臨説の他に)がここに見られるのではないだろうか。即ち、天照大神は、人間神としての皇孫と血縁の親子ではない。しかし、その自然神と皇祖神との結合にこそ、神道信仰の本質が示されている。(上田賢治、『神道神学』(神社新報社)、第三章、参照)
 いずれにせよ、太陽神としての神格が、天照大神を天津神、国津神の統括神とした。しかし、天照大神信仰の絶対化傾向は、皇祖神としての信仰からも生じたのである。いわゆる三大神勅、特にその「天壌無窮」の神勅がこの信仰の基礎にある。この面では、仏教よりも寧ろ儒教と習合し、大義名分論、尊皇斥覇の論となって明治維新を迎えるのである。
「天照大神という広大無辺な名が新しいゆえんは、それが一つのあらたな政治的次元を表現していることに関連する。・・太陽崇拝についていえば、少なくとも日本でそれがきわだって意識されてくるようになるのは、王を太陽の子すなわち「日の御子」とする政治的神学の軸が急速に強められるに至った過程に応ずるものと考えて、ほぼ間違いあるまい。・・アマテラスといういいかたは決して自然発生的ではなく、光りかがやく君臨をあらわす。」(西郷信綱、『古事記注釈』、第一巻、平凡社、1989.、p.225-226.)
3.女性神

「・・天照大神の原体の三性格の一つである司霊者的性格と太陽神との関係の在り方がほぼ明らかになって来た。原体は太陽神そのものではなくて、太陽神を祭る者としての霊巫であったとすべきである。それはヒルメ即ち日の神の妻[メ]であった。そして天照大神がその主要性格の一つとして太陽神的性格を帯びるに至る路が、実にここに存した・・。上代の日本民族は、或る神に奉仕してこれを祭祀する女性---霊巫をば該神の妻[メ]であると観じ、且つ信じていた。そしてさうした者としての霊巫は、一面に於てその神の憑代[ヨリシロ]であると共に、他面に於てはその神の配偶としてその神の子を生むべき者、従ってまた他に配偶を持つことを容されない者であるとされたもの、上代日本民族の固い信仰であった。およそこうした観念・信仰が、やがては「祭らるる者」と「祭る者」との隔たりを撥無して、神とその霊巫とを同一化するに至る・・。」(松村武雄、『日本神話の研究』、
「天にあって照り給う神の意だが、・・紀に天照大神の亦の名を大日貴[ヒルメノムチ]と呼び・・。ヒルメはすでにいわれているように日の妻[メ]、すなわち日神に仕える巫女の意であろう。・・ヒルメという名が日の光に感じて孕む聖母の意であることがわかる。・・巫女は聖母なのであり、この聖母という観念は天照大神の何たるかを考えるにさいしても(ヒルメと違い天照大神は至上神としてかたがた中性化するのだが)、やはり捨てさるわけにゆかない。・・ヒルメより天照大神という名の方が新しい。ヒルメが天照大神に転化したのであり、天照大神はヒルメの後身である。ここで神名の新旧をいかに判読するかについて一言すれば、透明度ということが一つの基準になりうる・・。」(西郷信綱、『古事記注釈』、第一巻、平凡社、1989.、p.224.)
 天照大神が女神である論拠は、「記紀共に、素嗚尊との関係で、姉弟の言及があること、それが殆ど唯一であり、天照大御神直接の御行為に関しては、斎服殿に於いて神衣を織られたことぐらい」(上田賢治、『神道神学』(大明堂)、p.202.)にすぎない。しかし、男性神であると言う信仰も「古典に関する限り皆無」(同、p.202.)である。私見では、恐らくこの神は、原初には男性神であったのであろうが、遅くとも古典形成期には、既に女神としての信仰が確立していたのであろう。