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2009年7月30日木曜日

宗教本能

あらゆる存在は、実在を目指し、すでに保有していればこれを確保し、より一層これを確実にしようとする。生物一般については、この様な「欲求」は、自己保存の本能と呼ばれるが、広義に眺めれば、これは生物だけに限られるのではなく、あらゆる存在者について妥当する。即ち、この「欲求」は、現状変更に対する「抵抗」として現われる。人間の場合この欲求は、「対象を超えた対象」への欲求として現われる。即ち、人間の欲求には、それぞれそれにふさわしい充足をもたらす対象があり、この点で他の生物と共通している。しかし人間は、この様ないわば「即場の」対象に依ってだけ充足されてしまうのではなく、絶えず、それを超えて何かを求めている。この様な「何か」が現実に存在するのかどうか、或は、存在するとして、果して手にはいるのかどうか、などは別として、この様な欲求のあることは、明らかである。この様な欲求は、存在者としての人間の本性から由来するものであるから、一つの「本能」である。これを広義で「宗教本能」または「幸福本能」と呼ぶことにする。これは、本能つまり本性に由来する欲求であるから、当人が意識するしないに関わらず、あらゆる人間に普遍的にみられるものであり、また、人間の条件に左右されるものである。この様な欲求が、時に満たされることのあるのは、経験の教える事実である。この場合、現実に何からの「対象を超える対象」に依って直接もしくは間接に満たされたのか、或は、単なる幻想であったのか、今は問わない。とにかくこの欲求の「充足」を、これも広い意味で「宗教体験」と呼ぶ。つまり、宗教体験には、現実の体験と、幻想とがあり得るわけである。宗教体験は、人間の体験として、人間が本性上共同体的である限り、たとえ幻想であるにせよ、必ず「文化」の中で生起し、「文化」の中で表現される。 即ち、人間は、個人としても、集団としても、ある時に、ある宗教体験をすることがある。抑々宗教、体験、と言う概念そのものが多義的であるから、ある程度の概念規定が必要であろう。宗教の詳細な分析は、やや小論の範囲を超えるので、ここでは言葉の意味の説明にのみ留めたい。「宗教」の「定義」は種々試みられて来た。その場合、当然のことかも知れないが、既存の“大”宗教、特にキリスト教を基準として考えられることが多かった。しかし、小論の論旨からすれば、この様な「定義」は、狭小に過ぎるので、所謂擬似宗教をも含めることの出来る様な極めて広範柔軟な概念を採用する。従って、ここで言う宗教とは、非常に広義であって、各々の現象の究極的原因(それが実在するか否か、あるいは共時的に意識されているか否かは別として)にかかわる事象一般を指す。それゆえ、理屈を言えば、所謂無神論も、否定された究極の原因にかかわると言う意味で、一つの宗教体験である。又、大自然や人情の機微などに直面した時の人々の心の態度も、それが究極的原因に対する関わりを潜在的に含有する限りに於いて、宗教的であると言うことが出来る。勿論、宗教的のものとして主観に意識されていない場合もあり、寧ろその方が多いかも知れない。要するに、宗教とは、“究極的なものを求める過程に於いて、何等かの仕方で、自己の経験の範囲を超えるものと信じられているものによって自己の願望を満たそうとし、そのため、これを可能とすると見なされる「手段」を用いる人間の文化現象の総体”である。
 凡そ人間の活動は総て広い意味で欲求を満たす行動であるが、この欲求を満たすことの出来るものが対象と呼ばれる。所で、これら対象と見なされているものには自ずと二つの区別、もしくは種類がある。一つは、行為を行う者の自己の能力なり、経験なりで--直接に、今すぐにではなくとも--達成出来ると考えられている対象、もう一つは、この様な範囲の外--少なくともその獲得方法に関して--にあると見なされている対象である。人間が前者の意味での対象だけでは満たされ尽くさないことは、言わば自明である。従って、後者の意味での対象をも手に入れようとする「努力」が必ず表われるが、この努力は、意識的であることも、意識されていないこともある。併し、何れにしても前提からしてこれらの努力は、独力では達成出来ないことも自明である。こうして宗教が究極的なものを求める限りその概念には、願望の対象だけではなく、この願望を満たしてくれる自己以外の何等かのモノと言う考えが、必然的に含まれることになる。このモノが人間の(思考)活動にのみ依存するものか、あるいは、それとは独立に実在するものか、又その本性、数、働きなどがどんなものか、などは、差し当たっては問わない。