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2009年8月1日土曜日

宗教体験

次ぎに、一般に「経験」、「体験」と呼ばれているものに就いて考えて見よう。体験と言う語を厳密に定義するのは難しいが、ここでは非常に広く、凡ゆる経験、特に、単に知性の作用だけではなく、広い意味での感覚全般を媒介として与えられる経験を指す。即ち、経験は、通常、思弁に対して言われる。つまり、知性の活動だけ(厳密にはあり得ないが)によって得られるとされる知識に対して、知性以外の凡ゆる能力特に身体を活用して、その意味で直接に得られる、非常に広い意味での知識、あるいはその過程を経験と呼んでいる。勿論知性が最終的に排除されている訳ではないが、重点は、それにはなく、寧ろ五官や感性及びそれらを通して直接する環境などが強調される。従って、具体的に言えば、生きていると言うことが、即体験なのである。
 ちなみに、体験は、概念化が難しく、従って知性の統御の及び難い領域であるが、豊富な情報源であり、人間の生存に重要な役割を果たしている。本来、思弁と経験とは対立する別個の認識手段ではなく、両者とも人間ペルソナの活動として、一つの認識手段の両面であって互いに補完し合うべきである。つまり、目が見るのではなく、ペルソナである私が目で見て知るのである。
 これを要するに、宗教体験とは、上述の宗教的事象を対象とする体験のことである。
 さて、この体験の成立根拠もしくは起源には二つの場合があり得る。一つは、対象としての宗教的事象の実在並びにその意味が我々の能力の限界内に於いて確認することが出来るとされる場合であり、他は、確認が理論上不可能であるとされる場合である。即ち、厳密な意味での信仰の対象は、定義によって、人間の能力を超越する筈であるから、この対象に就いての体験は、人間の側からの働き掛けに依存しないで、純粋に与えられなければならない。つまり人間は、この対象に就いての知識を「与える者」から受け取らねばならない。従って、この「与える者」は、あるいは、自らが人間の能力を超越している者であるか、あるいは、さもなければ、この様な者から与えられものを正確に、且つ忠実に伝達する者でなければならない。つまり、後者は、前者の権威を忠実に媒介しなければならないのである。
 又、体験が与えられる場合、何等の媒介なしに直接に与えられる場合と、個人もしくは、集団の体験を媒介として与えられる場合とがある。厳密に言えば、我々の信仰は、この後者の種類の体験に主としてかかわるものを指すのである。現実の問題として、我々は、親なり、教師なり、先輩なり、あるいは、特に我々が生きている共同体なりの信仰(ここでは広い意味での)を継承して行くのである。
 所で、この様な信仰は、前述のように、多くの場合、第三者を媒介として伝えられのであるから、媒体、つまり媒介の手段が重要になって来る。これらの手段は、多種多様であるが、何と言っても一番適切なのは言葉である。勿論、言葉にはそれなりの制約があるが、その範囲内では有効な手段である。又言葉と言っても、色々のジャンルがあるが、理論的に概念化を越えるとされる信仰を容れるものとしては、象徴的な表現で、ある歴史的な事実の核心を述べる物語が最も適していると思われる。我々は、この様な物語を広い意味で「神話」と呼ぶ。それゆえ、神話は、信仰内容を指し示す唯一の手段ではないが、主な手段であることは否めない。我々は、神話を正しく解釈することによって、又その他の補助的手段を駆使することによって、ある信仰体験の事実とその内容とに出来るだけ近く迫れる筈である。
  我々が、信仰の正偽を論じる場合には、以上の様な諸点を明らかにする必要がある。特に、信仰の伝達者に適正な資格、適正な権威があるかどうかを検証する必要がある。併し乍ら、ここに述べたことは、飽く迄も抽象的な理論の領域の問題であって、実際の具体的な場合には、事態はもっと複雑であることは言うまでもない。即ち、先ず信仰の理論があって、それに基づいて、論理的に信仰が成立するのではなく、実際は、その逆である。それゆえ、必ずしも常に凡ゆる信仰が適切に解明し尽くされるとは限らない。
 さて、宗教体験とは、宗教的なものについての経験であるが、上述の様に、宗教体験と宗教知識とは本質的に異なる訳ではない。確かに信仰者と宗教学者とは同じではないが、その対象としているものは、同一の事実である。その意味で、経験は、そのものとして分析や伝達が至難であるが、その対象の分析から幾分間接的に経験を明らかにすることは、不可能ではない。
 宗教をこの様に定めるならば、所謂「宗教体験」もしくは「宗教経験」は、言わば日常生活の中で通常に見られる出来事である。宗教体験を何か高尚な神秘的経験にだけ限るのは、一種の知的驕りではないだろうか。勿論神秘体験も宗教体験には違いないが、その極く一部に過ぎない。従って、宗教体験は、所謂教団の枠を超えて見られる普遍的な現象でもある。では、何故この様な宗教体験、もしくは現象が世界の至る所で、およそ人間の居る所に見られるのであろうか。我々は、その根拠を人間本性に基づく本能の内に見たい。つまり、人間には「宗教本能」とも呼ぶべき本能がある。この本能の基本的現われは、人間の願望、欲求は直接する対象によって完全に規定し尽くされる(充足され尽くされる)ことなく、絶えずこの対象を超えて求め続けるところにある。「本能」そのものの分析は、ここでは行なわないが、その表現は、極めて多様であり、かつ風土と歴史とから著しい影響を受けることを指摘するに留める。それでは、この様な宗教本能と所謂既成の「宗教」とは、どの様な関係に立っているのか。これを理解するため先ず、上述の宗教本能の「対象」について見て置かねばならない。先に我々は、この対象を、非常に広い意味で捉えて来た。何等かの意味で、宗教本能が求めるもの、本能を満たすものは、総てその対象であると言うことが出来る。今これらの対象を現実との関わりから見れば、この対象に本能とは独立に現実に実在する「何か」が対応している場合と、そうではなく言わば本能の「自己励起」とも言うべきものに過ぎない場合とが考えられる。前者の場合は、更にこの「何か」は、原理的に人間の理性に基づく手段によって検証可能であるとされる場合と検証不可能とされる場合とがある。後者の場合には、この「何か」を検証するには、上に述べたようにこの「何か」自体が与えてくれるとされる検証の手がかり(例えば「信仰」)が必要になる。即ち、この「信仰」によって具体的なある特定の宗教本能の体験が、実は、超越する「神秘」の「体験」であったことを知るのである。但しこの場合、「体験」と言う概念は、能動的、つまり我々の方から「神秘」に働き掛けるのではなく、受動的、つまり「神秘」の方から我々の能力なり、活動を採り上げると言うことを意味するものである。即ち、「神秘」は、その超越的自由によって、望むときに、望むところで、我々に介入することが出来る筈である。こうして厳密な意味での「神秘体験」は、人間の一般的な宗教本能を前提とし、かつこれを完成するのである。宗教本能は、人間の自然性に基づく本能であるから、それ独自の力では勿論本来の意味での「神秘体験」を生み出すことは、絶対に在り得ない。しかし、上述の様にもし「神秘」が望むならこの宗教本能を採り上げて「神秘体験」を起こすことは不可能ではないであろう。
 こうして、少なくとも理論的には、過去に於いても、現在も、さらに亦未来にも真正の「宗教体験」が在り得る筈である。所で、この様な宗教体験は、個人の次元で起こることも在り得るし、また集団の次元で起こることも在り得る。亦この体験は、一過性のことも在り得るし、また第三者自身の(最広義の)宗教体験を媒介として追体験の形で広く時間空間にわたって伝播して行くことも在り得る。勿論この第三者自身の宗教体験が前述の意味での真正の「神秘体験」であることも当然考えられる。ただ何れの場合にせよ、宗教体験は、言わば「裸のまま」ある、のではなく、必ず広い意味での概念化を経て保持され、伝播されるものである。ここに体験そのものとその概念化との間の「ずれ」の可能性と、そして概念が必然的に蒙らねばならない歴史、文化的な制約の問題とが現われる訳である。所謂既成の宗教は、以上のような諸々の要素が複雑に絡み合って発展して来たものであり、宗教本能に対しては、言わばこれを土壌、培養液としながら、自らの「組織」を拡大し、他方では、これに理性的な規制を強要し、自らの内にこれを統御しようと試みるのである。