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2009年8月17日月曜日

母性について

マリアが神の母であるということに関して、カトリックの信仰理解としては、ほぼ一致した見解がある。問題は、マリアは、我々人間に対しても実際の母と言えるのか、我々に対しても母性を持っているか、いるとすればどの様な根拠でそうなのか、と言うことである。即ち、マリアと我々との間の関係を基礎付ける土台(行為)は何か。マリアが我々一人一人を生理・物理的に生んだのでないことは自明である。従って所謂生理学的な実母・実子関係がないのは明かである。では、マリアが我々の母であると言うのは、単に敬虔な比喩的言い回しに過ぎないのであろうか。主観的な信仰の世界でだけ通用する言い方なのであろうか。
 我々の主張は、我々人間に対するマリアの母性は、単なる敬虔な比喩や、信じている間だけ成り立つ思想ではなく、仮令その事実は、信仰を媒介としてのみ知り得るとしても、一つの客観的現実の事実である、との主張である。それでは、この主張の根拠は、何であろうか。
 先に母性を「ペルソナに人間性を伝達する」ことに成り立つ関係として捉えた。しかし、これは人間の場合にしか当てはまらない狭い規定である。犬や猫などにも「母性」はある意味で認められる。それ故、これらをも含めて広く生物一般に言えるためには、もっと広く、「生命を伝達する」行為に成り立つ関係と規定しなければならない。こうしてある個体に生命を伝達する女性生物が母である、と広く考えて置く。
 一般に、多義的な語の場合、様々なものに述語出来るが、大きく分けて、固有の意味で言われる場合と、比喩的な意味で言われる場合とに区別できる。前者は、思考する者の思考作用に依存しないでもこの語の本質的要因が、述語されるものの内に実在している場合であり、後者は、この作用に依存して、つまりこの作用が働いている間だけ成立する場合、即ち、本質的要因は述語されるものの内に実際にはないが、思考する者から恰もあるように「見なされる」場合である。これを「母」の場合に当てはめると、我々の思考作用に先立って或主体の内に母性の本質的要因が実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」と呼ばれ得る。では、この本質的要因とは、何か。先に見たように、母とは、生命を伝達する女性を言う。それ故、「いのちを伝える」が、母性を構成する本質的要因である。従ってこの「命を伝える」という事実が、我々の思考作用に依存しないで、或主体に実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」であると言うことが出来る。逆に我々の思考作用に依存して、つまり我々がそう見なすからと言う理由だけで、「命を伝える」と言うことが考えられる場合は、この主体は、比喩的な意味でのみ「母」であると言われる。
 さて、周知の様に「命」と言う概念も、非常に多義的(正確には類比的)である。あるものは、固有の意味で、あるものは比喩の意味で用いられる。もちろんここでは、固有の意味での「母」が問題であるから、「命」が比喩的な意味で使われる場合は、予め除外する。しかし、固有の意味であっても、伝達される命の種類は、唯一ではなく、多様であるから、伝えられるいのちの種類に依って固有の母性も多様であり得る。
 所で、固有の意味で生命とは、あるものの全体的統一と活動を支えている内在的原理であると言える。個体を成立させ、活動させている内在的原理である。内在とは、空間の次元では、ある一定の範囲の中にあることを言うが、空間の次元を越えるものに就いては、本来、内外と言うことは成り立たない。我々自身が、空間に制約されているから、これを越えるものに就いては、固有の意味で言表出来ないわけである。従って、間接的に、不完全にこれを言い表すことになる。こうして、内在とは、あるものの本性に従って、若しくは本性に矛盾しないで、そのものの構成にかかわることであり、外在とは、そのものに取って、異質であること、「他者」であることを言う、と決めておかねばならない。例えば、自動車に活動をもたらすエンジンは、空間的には車体の内部にあるが、無機物の人為的な集約である「自動車」の、本来静止する「本性」にとって異質であり、ある意味で本性を強制するものであるから内在とは、言わない。従って、エンジンは、比喩的な意味ではいのちと言われるが、固有の意味では「命」、つまり内在原理ではない。
 さて、人間は、複合的な存在であるから、内在的原理としての命にも多様な種類がある。生物的生命、動物的生命、精神的生命、霊的生命などなど、そして最終的には、神的生命がある。今我々皆が現に体験している内在的原理は、恐らく精神的生命までであろう。それらを我々は、多少とも実感している。実感はしないがある種の論証に依って我々の内にはもう一つの生命があることを信じて(知って)いる。それは、所謂「霊的生命」、「超自然の生命」と呼ばれているものである。この生命は実感はしないが、信仰に依ってその実在が確かめられているから、単に比喩の意味ではなく、固有の意味で命である。ちなみに、信仰は、実在に就いての認識を媒介する原理であって、主観的認識を発生させる主観的作用原理ではない。
 我々は、この神的生命・超自然的生命がイエス・キリスト自身であることを信仰に依って知っている。史的次元では、イエス・キリストは、単なる個体的人物に過ぎないが、救済史的次元では、彼は、その懐妊から栄光の昇天に至る全生涯に依って人間の内的生命となったと我々は、信仰によって、理解する。