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2009年8月3日月曜日

キリスト教以外の諸宗教の意義

 キリスト教以外の諸宗教も神秘に関する我々の(学的)認識を構成する必須の構成要素として(「神秘」の部分として)受け入れる事が出来るであろうか。これが諸宗教の神学の根本問題である。神学の一般主体(素材主体)は、神秘に係わるすべてのものであるから、その中には、当然キリスト教以外の他の諸宗教も含まれる筈である。しかし、神学の一部門としての諸宗教についての神学は、ただそれだけを意味するのではない。即ち、諸宗教が、単に存在の秩序において善なる要素を含んでいる、もしくは更にそれ自身善であるということを論証するだけではなく(これによって諸宗教が第一原因としての神秘の意志の対象であることが論証され得る:これはいわゆる「自然神学」もしくは「宗教哲学の問題であろう)、更にその上に諸宗教は、神秘の「自由意志」によって、つまり存在の第一原因としての神秘ではなく、それを無限に超える神秘固有の意志によって、意欲されて(許容されて)いることをも解明しようとするものである。所で、問題は、この事を積極的に論証するための方法が、与えられているかどうかと言うことである。つまり、上述の「潜勢的啓示」の中に「諸宗教」が含まれているかどうか。言葉による啓示、出来事による啓示、何れかにこの問題は含まれているだろうか。実は、これは所謂「実証神学」の領域であって、今後この方面での成果が期待される。従って我々としては、仮に所謂啓示からの積極的な「証明」を導き出すのはさしあたって出来ないとしても、少なくとも諸宗教が救いのための正常の道であると考えることには、他の知られている天啓の諸事実と矛盾するものではないことを論証する必要がある。また、それに留まるものである。
 これを要するに、我々は、既に、宗教本能と宗教体験の普遍性を述べ、宗教体験には、真正なものとそうでないものとの区別が可能であることを論じた。この場合、「真正なもの」とは、単なる主体の自己内体験ではなく、主体から実在的に区別された何らかの体験対象(客体)があるとされる場合であり、超越者を立てる思考様式の枠内では、究極的に超越者の実在が体験に対応している場合である。しかし、この最後の場合は、正に超越者であるが故に人間の側からの「検証」を許さない。従って、個々の宗教体験について、それが真正であるかどうかを積極的に「証明する」ことは原理的に不可能である。それゆえ、諸宗教の神学は、キリスト教以外の宗教の「真正性」を論証することは出来ない(勿論、キリスト教の真正性をも論証することはできない)。ただ、キリスト教神学の立場から、他の宗教が真正であっても、矛盾ではないことを可能な限り明らかにしようと努めるのである。諸宗教の神学、さらには神学そのものの限界を率直に認めるものである。