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2009年8月28日金曜日

聖母への孝愛1

マリアが我々の実母である事実を認めることは、単に我々のマリア信心のあり方を左右
するだけではなく、我々のキリスト者としてのあり方全体を定めるものである。何故なら
ば、上述のようにキリスト者とは、単にキリストを模倣するだけでなく、キリストそのも
のを生命としてこれを生きようとする者、もっと適切には、生かされようとする者である
からである。即ち、キリスト者としての生き方には二つの大きな様相が考えられる。(a)キ
リストのまねび;キリストを自分の理想として眼前に描き、その行動にできるだけ厳密に
与ろうとする生きざまである。これは、客観的であり、把握し易いが、形式主義、律法主
義に陥る危険がある。(b)キリストに生かされる;キリストを内的な生命の原理としてこれ
に全てを委ねて生きる態度である。これは、霊的な活力の漲る充実した生きざまであるが
、熱狂主義、主観主義、独善主義に陥る危険がある。従って、この両者が調和を持って統
合されるのが理想的である。キリストが超自然の生命であるとは、その様な意味である。
キリスト者の生きざまが、この様にして、所謂第二のキリストになる、ことを目指すとす
れば、当然キリストの最も基本的あり方、即ち、マリアの子である事実を真っ先に実現す
べきであろう。子の親に対する関係、その根本的態度は、「孝行」あるいは「孝愛」とい
う言葉で最もよく表現できる。但し、ここで「孝愛」と言うのは、基本的な態度を言うの
であって、単なる感情を指しているのではない。従ってキリストと共にマリアの子である
、とは、キリストのマリアに対する子としての関係・孝愛に参与することに他ならない。
無論、キリストに就いての理解は、多様であるべきであるから、必ずしも万人がこの孝愛
を一定の仕方で、実践する必要はないが、一つの健全な道として推奨されるべきであろう
。それ故、我々の霊生道は、「マリアの子」の霊生道であるのが望ましい。これは単なる
スローガンではなく、霊的生活の全方向を決定的に規定するものである。つまり、マリア
の子としてのイエスに同化することである。