ページ

2009年8月26日水曜日

マリアはどのようにして神的生命を私に伝えたか(3)

全ての人間には、対キリスト関係を成立させる何等かの行為が生じるとして、で
は、マリアは、この行為に対してどの様な役割を果たすのであろうか。残念ながら、この点に関しても、聖書的な直接の根拠はない。少なくとも、マリアがキリストの母であることを示すのと同程度に明確に示す根拠はない。従って、我々は、この点に関しては、伝承と神学的な考察に頼らざるを得ない。「マリア信仰」ではなく、「信心」と言う理由の一つは、ここにある。
神学的考察に就いては、様々な立場からの推論が、可能であるが、ここでは、マリアが、キリストの母である、との信仰から出発して、その意味を探ってみる。さて、我々の信仰に依れば、マリアをキリストの母として選んだのは、神の意志である。神の意志が、無目的、偶発的に起こることは考えられない。選びには、何等かの目的があるはずである。我々は、これを「使命」と呼ぶ。それ故、マリアにも、キリストに関して、使命が与えられているはずである。そしてその使命は、当然キリストの母となる、と言うことである。所で、母に取って、最大の使命は、正にその「子」を生み、養育し、完成させると言うことである[マリアは、いつこの使命を自覚したか?遅くとも復活後]。所で、ペルソナは、二つ以上の焦点を共有する楕円形としてイメージすることが出来るから、個々の人間ペルソナは、少なくともキリストをもう一つの焦点とする楕円形で有り得る。これを別言すると、ペルソナとは、単に物理・生理的な個人を指すだけではなく、いわば二つ(以上)の焦点を共有し合う人間集団をも指している。この意味で、古来言われている「神秘体キリスト」は、十分理解できる概念である。即ち、我々の問題にかえって、若しマリアの使命が、キリストを生み、養育することにあるならば、それは、単に歴史的なナザレのイエスの出産と養育だけではなく、全人類を包含する神秘体キリストの出産と養育をも含むはずである。従って、上に述べた、個々の人間の対キリスト関係(この関係によって「共同体としてのキリスト」が生じる)を基礎付ける人間行為(これ自体神の恩寵である)にマリアが直接に関与すること(この関与の性格は、何か。確かに必然的ではないが、「より適切」つまり神の摂理の中で、その方がより良い)を神が許したと考えても、決して矛盾ではない。繰り返して言うが、勿論我々は、この事実に就いての直接の啓示を持たない。しかし、こう考えることは、啓示を裏切ることにはならないはずである。
 こうしてマリアは、イエスの懐妊の瞬間から人間の命の母となっただけで無く、我々一人一人がキリストの命に現実に「生きる」に当たって母としての参与を行った。この参与は、マリアの「使命」の中に潜勢的に現在する。その限りに於てマリアは、一人の例外もなく全ての人間の母である。それも前述のように単に比喩的意味ではなく、固有の意味で母である、と言うことも許されよう。
 要するに、マリアが我々の母である、との結論は、救済史に於けるイエス・キリストの分析を媒介として、マリアは、イエスの母である、との前提から神学的・論理的に引き出される結論である。