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2009年8月14日金曜日

マリア被昇天祭

マリアの被昇天の祭日をできるだけ納得して祝うには、信仰と信心との区別を考えてみる必要がある。信仰は、「神の子イエス・キリストに帰依し奉る」と言ういわば神から授けられた心の態度で、自由に左右することはできない。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」(『歎異抄』2:1)との心情に通じるもので、神からのものであるかどうかは、別として、他人が容喙できない絶対的なものが信仰である。
これに対して信心は、信仰を深めていくための様々な方便である。多くの場合、伝統に深く根ざしている。また、単に理知の問題だけではなく、むしろ感情や嗜好に訴えるところが多い。信心は、信仰のように絶対的なものではないから、信仰に正しく益するかどうかを基準に客観的に判断する必要がある。この場合信仰に益するかどうかは、本人の事情に大きく関係するから、軽々に他の人の信心を批判すべきではない。逆に、特定の信心を、たとえ伝統に根ざしているからと言って、他の人に強制してはならない。
 さて、聖母の被昇天祭は、1950年に教義として決められてからは、単なる信心ではなくなった。信仰内容の一部となったわけである。しかし、この祭日が永い伝統に育まれた信心であったこともまた事実で、いわば信心としての側面を残していることも否めない。つまり、祭日としてどのように祝うかは、信仰の問題ではなく、信心の問題である。実行的には、この祭日をどのようにふさわしく祝うかは、今後の吾々の課題である。豊かな伝統を勘案しながらすばらしい信心を開発したい。幸い、この時期はお盆にあたる。お盆は、一般には、仏教の行事だと思われているが、本来仏教の行事ではない。釈尊の教えが東漸する間に、土着の信仰、特に先祖崇拝の信情と習合して、わが国独自の信心物語が人々の心を魅了して、仏教の大切な年間行事として定着した。詳細は省くが、要するに家のご先祖様、特に直近の亡くなった親族の霊をお迎えして数日間留まっていただき、その間に御もてなしをして孝養を尽くす。そして最後の日に盛大に幽界へとお見送りし、来年の再会を約束する。ご先祖の霊との親しい交わりによって、現世に生きる我々のペルソナ性が固められ、高められる。客観的な事実ではないかもしれないが、主観的な豊かさもらうことは確かである。
聖母被昇天の信心物語は、来世観が異なるため、表現の仕方は異なるが、吾々の霊的母性である聖母に対する、そして、聖母を介して、吾々の先祖や親族に対する心情は、主観的には、盆の心と通底しているのではなかろうか。今後、お盆の行事と被昇天の行事とを習合して行くことが望まれる。