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2009年8月19日水曜日

マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(1)

マリアの子イエスが、人間一人一人の命であることは、上述の様に理解することが出来る。では、マリアは、どの様な意味で人間一人一人の母であると言えるだろうか。既に述べたように、命を伝達する女性が、母と呼ばれる。それ故、問題は、どの様にして、マリアは、我々の命であるキリストを我々に伝達したかである。

先ず、マリアがキリストを生んだことに依って、我々の命としてのキリストをも生んだと直ちに言えるであろうか。即ち、イエスは、生まれながらにして「人間の命」であると言えるであろうか。別言すると、イエスが「人間の命」となったのは、何時の時点か。つまり、受胎の時か、或は、生涯のある時点、例えば死の時か、もしくは、復活の時か。キリストがどの時点で「人間の命」となったかによって、我々に対するマリアの母性も変わって来る。このことを明らかにするためには、いわゆる「救い」におけるイエス・キリストの「役割」を見る必要がある。既に述べたように、人間は、史的キリストと連帯することで、神秘と合一し、それによって我々の「救い」が成就するが、このことは、どの様にして可能となるのか。今、逆の観点からこの合一を阻むものを見てみると、それには、二つのことがある。人間の被造物としての有限性と神の愛の受け入れを拒否する人間の意志の反抗としての罪とである。有限性も罪も人間の側からの自発的行為でこれを克服することは、出来ない。ただ神からの無条件、無償の恩寵として克服を授けられる以外に有り得ない。つまり神の側からの全く自由な行為である。神の自由行為であるから、神がそれにどの様な条件を付けられるのも、或は、付けられないのもまた全く神の自由である。従って、神が、この合一の一つの方法として御子の受肉を決められ、ただこの決定だけによって合一を成就されたとしても、それは、根本的には、神の全くの自由行為である。この意味で、イエスの受胎の瞬間が、この神の自由行為の人間に対する表示であり、この時点でイエスは、根本的に人間の命となった、と理解して良いだろう。しかしながら、一方、信仰によって、我々は、イエスが、「我々人間のため、我々の救いのため」に来られたことを知っている。だとすれば、イエスの人間としての生涯が、何等かの仕方で神の自由行為に参与することを神は望まれた、と考えるべきであろう。もしそうなら、イエスの人間としての諸々の行為、就中その最高潮としてのイエスの死が、人間の神との合一の可能性の原因、不可欠ではないにしても、最も適切な原因として神から定められたと言うことが出来る。この意味で、イエスの十字架上での死によって、人間の有限性が克服され、罪が完全に撃ち破られ、人間は、神と合一し得る者となった、と言える。即ち、この時点で、イエスは、単に「根本的に」だけではなく、人間の次元に於いても、「人間の命」となったのである。これを便宜上、「根本的な命」に対して「量的にも完成された命」と呼んでおく。