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2009年8月25日火曜日

マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(2)

以上述べたことから、マリアは、イエスを宿すことによって、「根源的な意味での人間の」命キリストの母となった、と言える。しかし、「量的にも完成された命」としてのキリストの母と言えるためには、マリアが、人間の救いとしてのイエスの生涯、特にその十字架上での死去に決定的な役割を果たしたことを明らかにしなければならない。残念ながら、我々は、この点に関しても明示的な啓示を与えられていない。従ってこの問題は、神学的な議論の段階にある。ここで様々な理論に深入りする余裕はないが、例えば、愛する者の苦しみを共に苦しむ「同伴苦」compassioの考え方が有力な示唆を与えている。
 上に述べたように、救いがキリストに対する我々の関係に成り立つとすれば、キリストの受胎の瞬間に全人類は、根本的に救いの状況に入れられた、と言うことが出来る。しかしながら、これだけでは、我々人間に対するキリストの対人間関係の成立が説明されただけで、個々の人間のキリストに対する関係は、未だ説明できていない。いのちは、外から押し付けられるのではなく、内在し、同化するものだから、人間の側からの少なくとも「受ける」働きがなければならない。「受ける」は、人間の場合ペルソナの行為、つまり、少なくとも「断わる」可能性を含む、知性と意志の活動である。つまり、知ることと愛することである。では、上記の関係の基礎としての行為は、人が史的イエス・キリストを知って、愛し始めたときに成立するとすべきであろうか。若し、この様な「概念化された」行為にのみ限定するならば、史的イエス・キリストに対する関係を持てる人は、極く限られた少数の人だけになって仕舞うであろう。このことを、神の普遍的救済意志に調和させるのは、非常に難しい。所で、「至福直観」[神自身が一切の媒介なしに直接に人間の能力を取り上げる、従ってここでは選択の自由はなく必然的である]の場合を除いて、善そのものである神は、常に「造られたもの」を媒介として我々に御自身を提供される。「造られたもの」は、まさにその被造性の故に有限であり、善を相対化する。つまり悪の要因を含む。存在論的にみれば、悪とは、善の欠如に他ならないからである。これは、勿論キリストの「人間性」に就いても言えることである。従って、史的イエスは、万人にとって必ずしも常に「善」として立ち現れるとは限らない。ある人が、キリストを「悪」と見なして「善」のために、拒否することも有り得る。逆に「史的イエス」以外のものが、善そのものへの道として真摯に捉えられることもまた可能である。
 一方、あらゆる行為は、元来神からのものである。ある意味で神との合作であるとも言える。特に、イエスは、同時に神の御子であるから、どの様な被造物もその固有の力によってイエスを(概念的にではなく、実存的、体験的に)知り、愛することはできない(ちなみに、愛の対象は、ペルソナ自体である)。神の特別の助けが必要である。即ち、神が人間の行為を取り上げて、それを、それが本来備えていなかった高次の次元に高めて、知り、かつ愛することが出来るようにして下さる必要がある。所で、あらゆる人間の行為は、神の眼からみれば(と言うことが出来るとすれば)、いわば「無」に等しく本来的な価値を持たない(被造物は、徹頭徹尾全面的に神に依存するものである)。従って、ある行為が、別の行為よりも良く神の愛の対象になると言うことはない。人間の側からみれば、各々の行為の価値は、実在的に異なるが、神の側からは、そうではない。全てが神の純粋の「恵み」である。それ故、「罪」を除いて、人間の行為は、全て神の特別の助けの対象となり得る。「罪」とは、第一義的には、法則の侵犯ではなく、愛、生命(としての「イエス・キリスト」)の受け入れを拒否することである。法則の侵犯は、その具体的現れである。それ故、「罪」つまり「受ける」ことの拒否が、「受け入れ」とは、なり得ないからである。
 更に、人間の認識行為には、直観的要因と、概念化の要因とが区別できることも知られている。概念化は、本来複合的であり、身体的要素、従って文化・社会的要素に左右される。それ故、人間は、多少異なる概念に依って、同一の事物を認識することも可能であるその具体的な一例は、多国語による認識である。確かに言語は、概念の表象であるから、言語の相違は、必ずしも概念の違いを意味しないが(例えば、「本」と「book」が表象する「概念」は同じであろう)、全体的、体系的視野の中では、概念そのものの相違も有り得る。つまり、同一の「直観的」内容が、それぞれの言語に特有のそれぞれに異なった概念系によって捉えられることも有り得る。以上のことを勘案すれば、対キリスト関係を成立させるには、必ずしも史的イエス・キリストに対する概念化された認識と愛を必要とするものではないと言える。つまり、全ての人間の自由意志による最初の行為(人間固有の行為)を、神が取り上げて、それが行為として史的キリストを志向している限り、或はもっと厳密に言えば、史的キリストが表している「神秘」を志向している限り、それがどの様に概念化されていようとも、これを用いて、対キリスト関係を成立せしめられることも神に取っては、不可能ではない。勿論、個々の具体的な場合に、どの行為が「最初の行為であるか、或は、存在の次元で史的キリストを志向しているのかどうか、又、それによっ」て実際に関係が成立したかどうか、などをア・プリオリに断定することは、出来ない。その識別の具体的方法として我々に与えられているのが「秘跡」である。ここに「秘跡」の持つ一つの大きな意味がある。