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2009年8月18日火曜日

人間の命としてのキリスト

イエス・キリストが、我々人間のいのちであることをもう少し詳しく考えよう。上述のように、命とは、統合と活動とをもたらす内在的原理である。我々の経験する限り、最高の活動は、知ることと愛することである。本来活動は、単なる「動き」ではなく、存在と存在とを結び付ける広い意味での「媒体」であり、そして知的存在者を真の意味で結合するのは、認識と愛だからである。従って、活動には、常に何等かの「対象」が(実在するかどうかは別として)想定されている。更に、単なる想像の産物ではなく、真の意味での結合が起こり得るためには、「対象」と「活動」との間に、何等かの仕方での「釣合」がなければならない。既に述べたように、人間の究極の幸せは、神秘との合一によって達せられる。つまり、この合一こそ人間の究極の目的であり、あらゆる人間の活動は、この目的に向けられた「手段」である。この意味で、人間の生理的生命も、活動である限りこの目的への一つの「手段」と考えることが出来る。所で、神秘は、それ以外の一切のものを無限に越えるものとして理解されるから、如何なる活動(認識・愛)も神秘に「釣り合う」ことは有り得ない。「釣合」が可能であるためには、(例えば)人間の活動が、「他から」の原理によっていわば、高められ、補完される必要がある。もしこの様な「原理」があれば(我々はそれがあることを信仰によって知っている)、それは、新たな統合と活動とをもたらす原理、つまり「生命」であると言うことが出来る。
 既に述べたように、ナザレのイエスは、人間(=ペルソナ)となった神の御子(=ペルソナ)である。御子の「資格」では、三一神の内的生命(知恵・愛)そのものであり、人間の「資格」では、我々一人一人と存在的に連帯し得る。それ故、我々一人一人は、この連帯を通して三一神の内的生命にある意味で参与する。つまり、人間は、御子に準じて神に愛され、且つ御子に準じて神を(能動的に)知り、愛し得る者となる。こうして、神と人間との「合一」、従って人間の究極の目的・幸せは、イエスを媒介とする我々の活動によって達成され得るのである。それ故、イエス・キリストは、言葉の最も完全な意味に於て我々一人一人の「生命」そのものである。我々は、この様に不完全に表現されたこの事実の内容を信仰に依って受け入れるのである。
 所で、イエス・キリストが人間の命であるとして、説明しなければならないもう一つの問題点は、二千年前に史上に存在し、今は我々の五官・感覚ではその現存が捉え得ない史的人物が、どの様にして我々個人の内在的原理であると考えることが出来るか、と言うことであろう。即ち、①自分ではない他の人間がどの様にして、我々に内在し得るのか、②しかもこの人物と我々の間には、二千年の時間の隔たりがある。これに対して、勿論我々は、所謂「自然科学的」な答えを出すことは、出来ない。自然科学的なデーターが無いからである。しかし、ただ、そう信じている、と言うだけでも十分ではない。少なくともこの信仰の内容は、何なのか、信仰を媒介にして与えられた事実を前提に、その意味するところを説明し、多少とも理解しようと試みることは、可能であり、理性を備えた人間にふさわしいことであると言えよう。
 我々は、この問題を理解するための基礎としてペルソナの概念に訴える。一般にペルソナと言うと、「知性的実体」と定義されるように、存在論的に他から切り離され孤立した「個体」が考えられがちであるが、実は、ペルソナは、本来実体概念と言うよりは関係概念である。凡そこの世に存在するもので、孤立・遊離したものは考えられないと言う事実の他に、ペルソナは、その「本質」に於て、他に対して開かれ、他に依存する対他存在である。ちなみに、神のペルソナは、「自存する関係」relatio persistensとして理解されて来た。これを仮に図で示せば、人間ペルソナは、自我を中心とする同心円ではなく、二つ以上の「焦点」をもつ楕円形、若しくはその複合形で表され得る。従って、物理的、生理的個体がそのままペルソナであるのではなく、少なくとも、この様な個体が二つ以上関係し合うことで、ペルソナは、成り立っている。物理的、生理的個体は、ペルソナという関係が成り立っている主体、もしくは基体である。多少乱暴な比喩だが、生物学で言う「宿主」的なものに当たる。この意味で、ペルソナは、本質的に社会的である。即ち、二つ以上の「個体としてのペルソナ」が、結合して、行動のための一つの「共同主体としてのペルソナ」を形成する。勿論この結合のあり方、度合は、様々で有り得る。
 所で、既に述べたように、「内在」という概念は、単に空間的な内外を言うのではない。空間とは、併存iuxtapositioを本質とする物質の属性である。従って、物質でないものに就いては、空間的な内外を言うことは本来無意味である。それ故、若し「内在」と言う言葉に、何等かの意味をもたせようとすれば、「本性に従って」secundum naturam、或は「本性を越えて」praeter naturamと言う区別を導入しなければならないだろう。この様に理解すれば、たとえ物理、生理的に或「個体としてのペルソナ」に現在しなくとも、そのペルソナの本性を構成する限りに於て、つまり、そのペルソナの本性に従う限りに於て、或一つの別の「個体としてのペルソナ・自我」は、この前者のペルソナに内在すると言うことが出来る。例えば、互いに本当に愛し合っている二人は、どんなに遠く離れていても、一つのペルソナを構成すると言える。しかしながら、人間ペルソナの場合、身体は、ペルソナの本質構成要素であるから、この身体を媒介にして何等かの仕方での物理的、生理的現在が求められる。即ち、上述の「共同主体としてのペルソナ」が、現実の人間次元で行動するには、それを構成する「個体としてのペルソナ」たちも何らかの仕方で、現実の次元で現存し合わねばならない。一方が、他方の想像力(空想の愛人)、もしくは記憶力(追憶の死者)によってのみ「現在」するのでは十分ではない。物理的に今、ここに現存するか、或は例えば、物理的手段(電気、音響)を媒介に現存する必要がある。
 上に述べたことから、イエス・キリストが、人間「個体ペルソナ」として、他の人間の場合と同様に、我々の一人一人と共に「共同主体としてのペルソナ」を構成し、こうして我々の内在原理(=いのち)であり得ることは、明かである。問題は、二千年前に死去したこの「人間ペルソナ」が、どの様にして我々一人一人に現実の次元で現存し得るのか、である。ここで、いわゆる神の「遍在」を直接に持ち出すのでは、答えとはならない。それは、「受肉の玄義」を飛び越えることになろう。所で、キリストが、若し他の歴史的人物と同様に単なる過去の人に過ぎないのであれば、上述の人間次元での「共同主体としてのペルソナ」は、ある人の記憶にのみ依存する思考上の存在に過ぎなくなるであろう。しかしながら、我々は、信仰に依って、イエス・キリストが復活した事実を知っている。我々の理解では、復活とは、神の直接の働きによって、ある人が、その全存在を挙げて(ペルソナ全体として)神(秘)の「次元」へ移行されることである。復活によて、この人は、(人間ペルソナであるから)時空性を保有したまま、時間と空間との制約を克服し、これらを超越して今、ここに現存している(どの様にしてかは、我々には分からない)ことを意味する。こうして、逆説的な表現ではあるが、復活した人は、人間でありながら時間と空間とを越えて今、ここに現存する、と言えるのである。復活のキリストも(と言うより全ての人は、キリストのこの復活に参与する)、時空に制約されることなく、それを越えて、今、ここに現存する(存在は、本来時空に制約されないものであるが、ある種類の存在者は、物質をその本質構成要素としているので、事実上時間と空間の条件の下にのみ実在するのである)。復活のキリストの現存は、認識論的には、信仰に依存するが、存在論的には、信仰に先行する。
 要するに、十字架上で殺され、「三日目に」復活したナザレトのイエスその人が、今、ここに居て、私の生命原理を構成しているのである。