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2009年8月6日木曜日

歴史上の人物としての「史的アダム」

「創世記」1~3章に登場する「アダム」と呼ばれる人物は、歴史上の人物であろうか。更に、1~3章は、歴史的出来事の忠実な記述であろうか。アダムが、歴史の次元で、仮に全人類の「最初の父」でなかったとしても、少なくとも「最初の罪人」であるとすべきかどうか。或いは、この罪人アダムは、全人類がその起源以来、連帯して罪人である限りにおいて、全人類を象徴的に表わす者であろうか。これらを確定するのは、吾々の問題ではない。吾々の問題は、原罪の教義、若しくは教説を認めるためには、「史的アダム」を認めなければならないかどうか、である。既に見たように、トレント公会議で「定義」されたような形での「原罪説」は、上記「創世記」の直接、且つ、厳密な意味での釈義から由来するものではない。定義された原罪説の「本質」は、「人間は、神の意志に反して成聖の恩寵を失った。その原因はすべて人間の側にある。この恩寵喪失状態は、すべての人間が、人間として産まれ出ることによって、つまり、それによって人間本性を分有することで、各人に固有の、内在的状態として、すべての人間に伝播する。この状態は、類比的ではあるが、本来の意味で、罪である」と要約されよう。即ち、人間における罪の発端は、人間にあること、人間は、例外無く、この罪に連帯していること、これが、「原罪」の核心であろう。神学の任務は、本来善なるものとして、創造された人間に、何故、どのようにして罪が入ったのか、何故、どの様にしてすべての人間は、この罪に連帯するのか、と言うことを神秘の責任に帰すことなしに説明することであろう。人祖アダムの犯罪を、全人類が、アダムを始祖とすることで共有するとの説明は、キリスト教初期当時の「人間観」を前提にする限り、非常に優れた説明と言うべきである。しかし、世界観や人間観が、革命的と言って良いほど深められた現代では、神学的説明は、「教義」の本質を保全しながら、更に洗練されてしかるべきであろう。この意味で、吾々は、「原罪説」の説明として、必ずしも史的アダムに固執する必要はないのではなかろうか。
 とにかく、人類の起源についての生物学の仮説は、原罪説の核心を明確にすることを求めている。それ故、神学者は、今日、アダムの身元確認問題について自由に論じ、又、この主題に関して、様々な研究仮説を提起することが出来る。但し、トレント公会議が定義しようと望んだこと、即ち、原罪は、「その起源から一であり、万人に、模倣ではなく、繁殖によって伝播する」との主張を擁護するのが条件である。
 各人が、個人として罪を犯す以前に、その誕生の瞬間から、「作因された罪」と呼ばれる原罪を身に負うのは、起源以来、人間の歴史において犯されたすべての個人的罪の理由によるのであり、罪人アダムで象徴される罪ある全人類との同一かつ唯一の連帯性の理由によるのである。