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2009年8月12日水曜日

恩寵論

 恩寵論
☆恩寵の一般的概念
恩寵と言う概念は、われわれの経験の世界から採られたものである。トマス・アクィナスによれば、恩寵と訳された元のギリシア語のカリスcharis には、三様の、互いに関連した意味がある。
第一に、誰か、特に権力者が、他の誰か、特に支配下の者を好ましく思う、慈しむ態度を指している。例えば王がある特定の臣下に好意を示す場合、それは、この臣下にとってカリスである。
第二に、この好意の結果、もしくは表現として、好意を受けた者に無償で与えられる何らかの贈り物を言う。
第三に、この無償で与えられた贈り物に対する、或いはより適切には、贈り物を与えた者に対する感謝を表わす語として用いられた。

元々一般的な用語であったこの言葉が、既に原始教会に採り入れられ、元の意味を保ちながら宗教的意味を帯びて、神と人間との親密な関係を表わすのに用いられる様になった。さて、原意を踏まえて、このカリスと言う概念を分析して見ると、先ずそこには少なくとも二つ以上のペルソナ(個我)が係わっている。その一つは神のペルソナであり、他は、たとえば人間ペルソナである。次いで一方のペルソナ、つまりペルソナとしての神が他方のペルソナを自己にとって好ましいと是認する行為がある。通常の場合、好ましいとされるペルソナの方にそうされる原因がある。つまり美しい、とか、善良だとか、相手の好意を惹き付けるものがあり、それに基づいて第一のペルソナが、このペルソナを好ましいと是認するのである。しかし、これは、必ずしも好意が生じるための必要な条件ではない。むしろ本質的なのは、是認の行為そのものであって、好ましいとされるペルソナの内に好まれるための原因が一切ない場合もカリスの概念は成立し得る。神のカリスはむしろ無償の、つまり好ましいとされるペルソナの側には神の好意を呼び起こすような一切の原因が無いにもかかわらず、神の側からの一方的な行為として理解される。要するにカリスの概念を成り立たせているものは、一位のペルソナが他のペルソナを好ましいとする、つまり愛すると言う事実である。
或るペルソナに対する好意から、この好意の現われとして贈り物すなわち「善」の贈与もしくは、好意者の善への参与を許すこと(の結果)が生じる。吾々が以下で考察しようとするのは、主としてこの意味での恩寵である。
最後にこの様な恩寵を授けられたことに対して自ずと感謝の心が生じるはずである。この心は、様々な形で表現され得るが、神に対しては、何よりも与えられたものを素直に、受け入れると言うことであろう。そして、この受け入れは、今度は、この恩寵に基づく行為、努力として日常生活の中に具現して行くのである。

☆ 創造と恩寵
 あらゆる被造物は、それなりに御子を反映し、その限りにおいて善である。つまり、創造主の善性に参与するのである。より厳密に言えば、参与させられるのである。神の側から見れば(と言う言い方が許されるなら)、神は、先ず総ての被造物による分有「可能態」としての御子(実は神性実体そのもの)を直接に愛することによって、その内に分有可能態としての総ての被造物をも間接に愛される。即ち、御子の中の可能態としての被造物が現実に実在することを欲っせられる。この神の意志によって被造物は、現実に実在するものとなる。愛とは善に対する意志の働き掛け(既存の善を求めるか、あるいは新に善を創造する)であるから、この過程をわれわれは神の愛と呼ぶことが許されよう。こうして神は、被造物を創造しながら愛し、愛しながら創造される。創造的愛と呼ばれる所以である。
 こうして、神は総ての被造物を「愛される」とは言えるが、その愛は、言葉の十全の意味で未だ完全な愛の形態ではない。愛とは、本来夫々互いに他者であると見なされる二つ以上の存在者がその全実存を挙げて、多少の段階はあるが出来るかぎり融合することである。詰まるところ存在 esse の交流、更にはその合一である。所が真に交流、合一が成り立つためには二つの契機が考えられねばならない。一つは、一方の当事者が他方に自己の総てを「差し出す」と言うことであり、もう一つは、今度はこの他方が差し出されたものを余すところなく「受け入れる」と言うことである。言うまでもなく同一の事が相手の当事者からも行なわれるはずである。実はこれらは二つの別々の行為なのではなく、唯一の事態の二つの側面なのである。そして、交流・合一が完全になればなるほどこの「自己贈与」と「他者受容」とは一体化してくるのである。要するに愛がその名に値するためには、贈与と受容と言う二契機がなければならない。今、創造の場合を考えて見ると、「贈与」の面では、神は確かに被造物に贈与を行なうのであるが、それは飽く迄も「共通存在」の贈与であって、神の「自己贈与」と考える訳には行かない。「受容」の面から言えば、神は、創造によって如何なるものも被造物から現実に受け取る事はない。従って創造が神の愛である、と言うのは、愛としては非常に不完全な意味で、である。これに対して三一神の所謂内的愛は、この愛の契機を完全に満たしている。即ち、神においては、御親と御子との対立は、「生む」ことと「生まれる」こととの間の対立のみであって、他のすべては同一の神性実体である。従って御親が御子を愛するとは、必然的に、御子に自己の神性実体のすべてを差し出す(完全な自己贈与)と同時に御子の神性実体を余すところなく受け容れる(完全な他者受容)ことである。御子が御親を愛されるのも全く同様である。こうして御親と御子とは、互いに必然的に、完全に愛し、かつ愛されておられるのである。必然的と言う訳は、御親にとっても御子にとっても同一の神性実体の共有、交流は、その本性そのものだからである。以上は勿論御霊についても言わなければならないことである。
 こうして、御親は、御子を必然的に愛され、御子も亦御親を必然的に愛される。恩寵が根源的に「愛」である、と言う意味で、御子(及び御霊)は、恩寵である、と言う事ができる。むしろ、恩寵の根源であると言った方がより適切であるかも知れない。しかし乍ら、恩寵の概念の中には、「無償性」と言う契機がある。すなわち、恩寵を受ける側、つまり、恩寵の対象は、必然的に愛されるに値する対象ではなく、恩寵の愛に先だっては、全くの「無」か、あるいはそれ以下の反価値である、と言う事実がなければならない。この意味で三一神内の御子も御霊も、御親を必然的に愛し、かつ愛されているがゆえに、つまりこの必然性の故に、恩寵と言うことはできない。従って恩寵の概念が完全に成り立つためには、神の側からの「自由な」愛、つまり対象に全く依存しない愛が考えられねばならない。そして、同時にこの愛は神の言わば一方通行の行為ではなく、これによって神も実質的に「愛される」、その様な愛が在り得るか、すなわち、神の自由な愛であって、しかもこの愛の「見返り」として愛されるに値しないものから、神が現実に愛される、その様な愛が実際にあり得るか検討しなければならない。
☆ 神の無償の愛
恩寵の概念を説明するためには、神のうちに、必然的ではない、真の受け身の愛が在り得ることを明らかにしなければならない。神は善であり、善の本性は、「溢れ出る」ことである。この善が完全であればある程、溢れ出も完全である筈である。さて、非常に擬人的な表現であるが、この神の愛の溢れは、言わば、神自身の内部で‘処理する’か、あるいは外部的に‘処理する’か、のいずれかである。前者の場合は、三一神内のペルソナ間の愛の交流として、幾分理解できる。すなわち、神の愛・善性は、ペルソナ間の交流として永遠から永遠にわたって溢れ出ている訳である。勿論この溢れはあらゆる面から必然的である。後者の場合は、神の外にもう一柱の神があって、この外の神との間に永遠の交流が行なわれると考えることが出来れば問題は、解決する。しかし、神に対立する外の神と言う考えは、超越神の厳密な「概念規定」と両立し得ない。もし神以外に何かがあると考えるなら、このものは、必ず神に絶対的に依存しているものとしてしか考えられない。すなわち、神は自己自身を創造することは不可能で、ただ被造物だけしか創造することが出来ない。そしてこの創造は、必然的ではなく、神の愛の自由な溢れとして理解されるものである。こうして、神は、先ず被造物を創造し、しかる後に、その全能の力でこの被造物を可能な限り「高める」と言う仕方でしか、愛の溢れを「外に」出すことは出来ない。つまり、‘必然的に神よりも不完全であるもの’をあらしめ、次いで、これを高める以外にない。こうして、創造は、恩寵が“外に溢れる”ための必須の前提となる。神は、創造と同時に被造物を高めることは出来るが、創造の前に高めることは出来ない。所で、創造の原理は、御子である。従って、御子は、この神の自由な愛の原理である限りにおいて恩寵の前提をなす。すなわち、御子は、恩寵の一つの契機である「無償性」の原理をなす。すなわち、受肉の原義によって人となった御子は、神としては、神の愛の必然的な「対象」であるが、人間としては、神の愛の必然的な対象ではない。つまり神が人間イエスを愛するかどうかは、全くの自由である。それゆえ、真の神であり、真の人間であるイエスに対する神の愛は、恩寵である。次にわれわれは、恩寵のもう一つの契機である「受動性」に関しても御子が原理であることを説明しなければならない。

☆ 神が“ひと”と成る受肉の玄義
愛を求める神となる:愛されることを望む;受肉:御言は肉と成った:受肉の玄義・“御霊の受肉”
 愛の概念の中には「受動性」つまり、愛されると言う要因が本質的なものとして含まれていなければならない。所で受動と言うことは存在論的にはあるものを受け取ることを意味する。従って、少なくともこの受け取られるものに関して欠如、不完全を含んでいる。神は、完全そのものとして理解されているのであるから、この様な意味での受動は神には考えることは出来ない。それゆえ、もし神について受動性を考えるとすれば、それは神が神自身を愛する行為(能動)の裏面として、(勿論人間の思考様式に基づいて)理解する外はない。即ち、神は、神自身によってしか「愛される」ことはない、と考えざるを得ない。従って、神と人間との間にもし真の友情が成り立つとしたら、それは、何等かの仕方で人間が神となる、少なくとも神と等しく成ると言う可能性が考えられて始めて可能である。即ち、神と人間が固有の意味で互いに愛し合うには、何等かの仕方で人間の「神化theopoiesis 」が可能でなければならない。
 所で、創造は、神の愛の溢れとして捉えることが出来た。しかし、この愛は、飽く迄も能動的な愛(創造的愛:対象の善を愛するのではなく、愛が対象の善を創造する)に留る。勿論、神の愛がこれで完結しても不都合はない。併し、愛の本質は、相互的自己贈与で、愛するだけではなく、愛されることもなければならないから、神は、愛されることをも欲するのである。そしてその一つの道として受肉の玄義が選ばれた。
 では、この受肉の玄義をどの様に理解したら良いだろうか。聖書の述べていることを要約すれば、受肉(言葉そのものは後の神学用語)とは御子がナザレのイエスとなって生まれる、御子が人間の子と成る、と言うことである。ここで注意すべきは、御言が人間ペルソナに成った(le Verbe est devenu une personne humaine)のであって、御言が人間ペルソナを取り上げた(le Verbe a assume une personne humaine)のではなかった点である。即ち、御言は、言わばひとりの人間を取り上げ、その偶有性、具体性を捨象した“人間性”を自分のものとしたのではなく、一人の具体的な人間と成った。つまり、神と人が結合しただけではなく、神が人と成ったのである。勿論ある一定の成長を遂げた具体的人間に突然成り代わった、のではなく、われわれすべての人間と全く同じように胎児の段階から人間と成った。啓示の言っていることは、単純明快であるが、その説明となると困難である。日本の宗教にも‘権化’、とか、神が仮に人の形を借りて宿る、と言う様な考え方があるが、受肉はこれと全く同じことを指すのではない。神は、人間の“借(仮)りの姿”を取ったのではなく、“現実の人間”に成ったのである。単に神が人間に「宿った」だけではなく、人間そのものと成った。私と同じ人間である。
 所で、現実の人間は、歴史(時間)と風土(空間)に規定されている。あらゆる連帯から完全に切り離された「純粋人間」は、実在せず、過去の善人や悪人の血も混ざっている。社会、政治、宗教などの影響も受けている。不完全さを共有している。ある閉じられた系を考えた場合、その中での最も完全な人間と言うことは考えられるが、絶対的な意味での完全人間などあり得ない。それは一種の矛盾である。この意味で「真の人」なるイエスをどの様な仕方であれ、人間のまま「神格化」しようとする試みは受肉の玄義を否定するものである。
では、この神が人間と成った、とする受肉の玄義はどの様に説明できるだろうか。以下は飽く迄も「説明」に過ぎないことに留意しなければならない。スコラ神学者らは、この玄義をペルソナの概念を導入して説明しようとした。

さて、御親は, 人と成った御子、つまり人間イエスというペルソナを愛する(本来の愛の対象はペルソナである)。この愛は、人間ペルソナに対するものとしての限りにおいて必然的なものではない。三一神の「御子」としては、御親から愛されるのは必然的であるが、人間ペルソナとしては、愛されるのは必然的でない。つまり、御子が人間ペルソナに成るのは必然的ではなく、全くの自由である。従って、人間ペルソナと成った御子に対する御親の愛も、人間ペルソナの役割を果たす者としての御子に対する限り、自由であり、その意味で無償である。こうして人間と成った御子に対する御親の愛は、無償の愛となり、これが本来の恩寵である。
 他方、ナザレのイエスと呼ばれる人間ペルソナと成った御子は、依然として神の第二位のペルソナ、神的ペルソナであるから、人間イエスの言わば最終責任主体(つまりペルソナ)は、神的ペルソナである。従って、イエスのあらゆる行為はこの神的ペルソナの、言わば責任の下に行なわれる。すなわち、イエスの全行為(存在と言う「行為」をも含めて)は最終的には人間イエスのペルソナの機能を果たしている神の第二位のペルソナに帰着するのである。但し、少なくとも人間の場合、ペルソナは、直ちに行為の原理とはならない。かえって所謂「本性」を媒介として、つまりそれを言わば手段として、順を追って目的を達成して行かねばならない。望んだだけで直ちに満腹にはならず、まず種子をまくことから始めねばならない、と言う訳である。これはイエスの場合も同様であった筈である。それゆえ、イエスが愛するとき、その愛の最終主体は御子であっても、愛の「行為」はイエスの人間本性を媒介とする人間の行為である。この意味で御親に対する御子の愛と、御親に対するナザレのイエスと成った御子の愛とは同じではない。すなわち、御子は、神として御親を必然的、絶対的、完全に愛すると同時に、人間イエスとして御親を自由に、相対的に、そして不完全に愛するのである。それゆえ、人と成った御子は、神的ペルソナとして御親を無限に愛すると同時に、人としても御親を有限的に愛する。
 こうして、人間イエスは、その神的ペルソナを介して三一神の内的ペルソナの交わりに言わば参与する。所で前述のように神的ペルソナの交わりは、これを動的に見た場合神の徹底的な相互自己贈与に外ならないから、この交わりに参与することはつまりこの自己贈与にも参与することである。こうして神は、人間と成った御子を通して神の総てを世界に与える。このことは、先ず神の側からは次の様に理解することが出来る。すなわち、受肉によって神自身が世界の歴史の中に自らを相対化した、と言うことである。時間、空間だけではなく、総ての存在を無限、絶対に超越するとされる神が時間と空間の制約の下に、所謂「創造主の遍在」とは異なる仕方で実在した。神が人間イエスとして、罪、つまり神的ペルソナそのものに対する最も根源的な拒否(神のペルソナが神の他のペルソナを根源的に否定することは考えられない)を除いてそれ以外の総ての人間としての不完全を受け入れながら生きる。無知、無能、疲労、失敗、恐怖、死、その他あらゆる人間の条件を引き受けた。それゆえ、イエスの日常生活全体から切り離された抽象化された十字架や復活だけが特別な意味を持つのではなく、受胎、降誕から復活まで人間イエスの地上での歴史条件の下における全生活がイエスにおける神の、世界に向かっての自己贈与をなす。こうして人間イエスの地上での生活の一瞬一瞬が決定的な意味を持つ。従って、所謂史的イエスが、(それを完全に再認識するのは最早われわれには不可能であるが、)全体としてわれわれの信仰に決定的な役割を果たしている。[ここから言えるのは、一方では、人間イエスを安易に“神格化”してはならない、と言うことである。つまり神が殊更に自己を相対化されたことを人間が恣意的に絶対化してはならない。つまり、人間イエスは、飽く迄も人間なのであって、神ではない。従ってイエスの「肉体」だけを神の救いの全計画から切り離してそれを独立に絶対化して「礼拝」するのは誤りである。他方では、ある意味で人間イエスの延長である「キリストの神秘体」である教会にも限界があることを是認しなければならない。イエス・キリストは、飽く迄もあらゆる個体にそのまま妥当する普遍概念ではなく、ペルソナつまり最も完全な意味での個体である。この個体があらゆる人間だけではなく、全宇宙の生命原理と考えられる訳であるが、このことについては、「復活の玄義」との関連で考察されりだろう。] 
 所で、世界に対する神の全き自己贈与は、これを世界の側から見れば、世界は、人間イエスとなった御子(神的ペルソナ)を介して夫々の本性が耐えられる限り三一神の内奥の生命に能動的に参加することが許された、と言うことを意味する。即ち、御親と御霊に対する御子の総ての活動、就中その「愛」に参加する。こうして先ず人間イエスは、人間として御親の愛にある程度「対等に」応える。所が、イエスの人間としての能力だけではこの愛に参加し、これに応えることが出来ない。従ってこの様なことが可能となるには神の側からの特別な支えがイエスに与えられねばならない。こういう言い方が許されるなら、人間イエスは、一方では、人間として全く無力でありながら、他方では神として、御親を愛さねばならないのであるから、この神の特別の支えを誰よりも必要としている。と同時に御子として自らが恩寵の源泉であるから、人間イエスにはこの神の特別の支え、つまり恩寵が可能なかぎり豊かに注がれているのである。人間イエスには、こうして恩寵が充満していると言われる。しかも、この恩寵の充満は、イエス個人のためだけではなく、イエスを介してすべての人間、すべての被造物に流れ及んで行くべきものである。
 要するに、受肉した御子ナザレのイエスを媒介として、被造物に対する神の愛は、単に能動的であるだけではなく、受動的なもの、つまり、被造物からの愛をも固有の意味で受け入れる。こうして愛の相互的自己贈与が成就する。神と人間との間の愛は単なる愛憐ではなく、友情となるのである。
☆ 恩寵の超越性と内在性
 われわれは、これまで「恩寵」をいわば神の側から考察してきた。次に、これをわれわれの側から考察する。すなわち、恩寵を受け取るわれわれの側にどのような変化が生まれるのかを考察するのである。その前にわれわれは、まず恩寵を受け取ると言うような表現が許されるものかどうかを検討しなければならない。つまり、恩寵とは、受け取ったり、拒んだり出来るような「物」なのかどうか。既に述べたように、恩寵の源泉は、三一神であった。神がナザレトのイエスを媒介として被造物を愛し、又被造物から愛される、と言うのが恩寵の本性であった。従って、恩寵とは、一義的に神であると言うことが出来る。神ご自身が恩寵であって、これをわれわれは、「創られない恩寵(Gratia increata)」と呼んでいる。しかしながら、これを受け取る人間の側からみた場合、人間は、文字どおり神を受け取ることは不可能である。神は、人間を無限に超えるからである。それ故、以上の事が単に言葉の綾に留まらないためには、出来る限り実質的な説明を試みる必要がある。そしてわれわれは、例によってこの問題を、関係の概念に頼ることによって解決しようとする。即ち、人間ペルソナである御子に対する御親のペルソナルな愛が恩寵であった。無償のペルソナ間の愛によって、御親は御子に於いてその“人間”を愛すべきものとするのである。今まで愛の対象でなかったものが愛の対象となったのであるから、神の側に変化が考えられないとしたら、この変化は人間の方に考えられねばならない。つまり人間の中に新しい関係が発生した。単なる依存関係だけではなく別の関係が生まれた。すなわち、神が被造物を特別に愛された事によって、被造物は、根源的に変化した。この変化は、単なる思考上の問題ではなく、人間が存在的に変化したのであるから、この変化のいわば形相因が人間の中に実質的に存在しなければならない。所で、神ご自身が人間もしくは被造物の形相因になることは、不可能であるとされているから、神以外の何かが人間の中に創造されたと考えなければならない。この創造されたモノによって、人間は、実在的に変化し、有効に神を愛し得る者となった。このモノをわれわれは、「造られた恩寵(Gratia creata)」もしくは、単に「恩寵」と呼ぶ。
 さて、ここで問題になって来るのは、このモノとしての恩寵の存在論的性質である。すなわち、この恩寵は、人間にとって外来の物か、或は内在の物なのか、と言う事である。 先ず、この性質としての恩寵は、神から無償で、つまり人間の方からは一切の要求(権)なしに与えられるものか。神の絶対的超越性を考えるとこの説明は良い様に思える。併し、もし全く人間の側からの要求性がなければ、結局この恩寵は、人間に取って飽くまでも「異物」であって、前述の様な内的生命とはなり得ない。従って、人間を内在的に完成することもない。それは、丁度ボロ隠しの外套のように、外から見苦しいものを覆いはするが、人間を存在的に神の子に高めるものではない。最終的には、恩寵は、全く別個のものの創造であり、御霊は別のものを愛しているということになる。つまり恩寵が衣服の様に単に外から着せかけられるものなら愛は衣服に留るのであって中身の人間に迄至らないこととなる。従って、恩寵が何らかの意味を持つためには、正に人間のモノとならねばならない。ここでG.マルセルの言う etreとavoir の区別を思い出すのも適切であろう。人間の本来のモノになるにはavoir の領域を越えてetreの領域に入らねばならない。つまり、人間の本性、本質の構成要素とならねばならない。この様になったとき始めて愛されているのはこの私ですと言える。
 人間の本性に内在しない恩寵という考えを押し進めて行けば、恩寵は、益々物神化され、宝の倉に蓄えられた金貨のように、人の力で増やしたり、失ったり、果ては、取引の対象ともされ兼ねない。善業によって、恩寵を儲けると言う考えが一般化して来たのはこのためであったろう。
 では、恩寵は、人間本性に内在的なものなのだろうか。そう考えれば、上述の様な不都合は、避けることが出来る。しかしながら、恩寵を人間に内在するものとして捉えることには、重大な難点がある。本質を構成するということは、それは人間にとって不可欠だということであり、その意味で“要求性”を意味することになり、これは、恩寵の無償性、神の超越性を犯すことになる。即ち、内在すると言う事は、存在論的には、人間の本質の構成要素であると言う事を意味する。つまりそれが欠けていると人間ではあり得ない、少なくとも完全な意味では人間ではあり得ないのである。換言すると、恩寵を有するのは、人間であるための必須の条件と言うことになる。神が人間を創造する限り(創造するかどうかは神の自由としても)、必然的に恩寵を与えざるを得ない。丁度知性を(少なくとも可能態で)与えねばならない様に。さもなければ、神は、矛盾を犯すことになろう。こうして、恩寵の本質の一つである無償性が損なわれることになる。これは、恩寵の概念に根本的に抵触する考えであろう。
 かくて、われわれは、深刻なディレンマに直面することになる。すなわち、恩寵は、人間に内在するものなのか、はた超越するものなのか、と言う問題である。しかしながら、問題を詳細に観察すると、このディレンマは、実は、恩寵のみの問題ではなく、神の本性そのものの問題が、たまたま恩寵との関連で表面化したものに外ならない。即ち、有限な人間が、無限の神を何ほどか認識しようとすると、どうしても避けることの出来ないディレンマである。只一つで神を完全に表現できる概念は、有り得ないから、もし幾分でも神の完全性を表したいなら、われわれは、二つ以上の概念を複合的に用いねばならない。この様な概念は、可能なあらゆる完全性を全面的に肯定すると同時に、神以外の有限なものに見られる可能なあらゆる不完全性を全面的に否定するものでなければならない。こうして、神を完全に表現するには、肯定概念と否定概念とが同時に成立しなければならないが、この様な相反する二つの要素を同時に含む唯一の概念は有り得ない。従ってわれわれは、二つの概念を用いて、しかも思考操作によってそれが同時に成立すると考える外はない。即ち、神は、宇宙万物を超越する、つまり、宇宙万物ではない、と同時に、宇宙万物に内在する、つまり、宇宙万物である。この何れかのみを主張するのは誤りであるが、人間は、事実上時間の前後関係の中で何れかのみを主張せざるを得ないところに問題の難しさがある。結局、われわれは、以上述べたことを条件に、「恩寵は、人間本性を超越すると同時に、これに内在する」、と言う互いに矛盾し合っている命題を肯定せざるを得ない。実行上は、恩寵に就いて述べられたことは、直ちに思考操作によって否定されるか、或は少なくともその逆が指摘されねばならない。そしてこの事の根拠は、人間理性の論理性ではなく、結局神の愛の神秘性に求められねばならない。即ち、われわれは、恩寵を可能な限り説明しようと努力するのであるが、結局は、それを説明し尽くすことは出来ないのである。
 以上の考察は、現代われわれが直面している多くの神学的問題に幾可かの光を注ぐ筈である。ここでは例示的に若干の問題を取り上げたい。
1)恩寵は、外から(上から)与えられるものか、或は(人間の)内から引き出されるものか。
 恩寵の超越性を強調する考え方では、勿論恩寵は、上から、外から与えられるものである。人間には恩寵に対する如何なる適合性も有り得ない。恩寵は、外からプレゼントのように与えられるものである。そこから恩寵の「物体化」が生じた。超自然界の金貨として教会という「銀行」に蓄えられていて、特定の祈りや善業でそれを引き出すことが出来る。
人間は、それを自由に使ったり、簡単になくしたりする。それは、飽くまでも所有の場のモノである。この考え方の前提には神は絶対超越であるとの考え、神と世界は断絶しているとの考えがある。神の絶対超越性を強調すれば、つまり本来世界と全く無関係な神が特に「恵を垂れる」という面にだけに目を向ければ恩寵は自然と“物体化”されて来るだろう。
 この考えに依れば、人間は、全体としても、個人としても、徹底的に神の不倶載天の敵である。神と人間(宇宙)との間には、単なる異質性だけではなく、敵対性があるとされるのである。そして、どの様にしてこの様な敵対性が発生したのかとの説明として、所謂原罪説が持ち出される。この様な敵対性にも拘らず敵をも愛すると言う神の無限の哀れみによって極く例外的に(神によって選ばれた)個々の人間に与えられる無償の施し物が恩寵である。明らかなように、この考え方では、神の超越性、正義、絶対性などはよく説明される。しかしながらここから現れる神のイメージは、ともすれば、自己の尊厳以外如何なるものの幸せも全く眼中にない血に飢えた残忍なモロクの神となりかねない。本来自己以外の如何なるものをも必要としない神が、自己の尊厳を高めるために、創造される必然性のない人間(宇宙)を、しかもただ苦しめるためにだけに創造する、と考えるのは不条理である。少なくともわれわれ人間に理解できる、世界創造の説明は、善の充溢、つまり、愛以外にはない。それ故、敵対性、少なくとも神の側からの敵対性を前提として恩寵を考えることは誤りであろう。神と人間との関係の出発点には、先ず何等かの意味での同質性、友好性が考えられねばならない。生命は外から与えられるものではなく、存在の内部から発露するものである。つまり、生命と存在者の間には連続性がある。このことの説明には絶対超越神だけではなく、世界に内在する神という考えが必要である(内在immanentia:神と世界は一である/内住inhabitatio :神[超越神]が世界の内奥で働く)。神の内的生命を直接の対象とする性質がどうして人間の中から出て来るか。恩寵を生命として受け取る素地が人間の中にある。総ての人間の中に恩寵の種子が内在する。この様な理解の仕方は、矛盾律を基礎とする思考の枠組で考えているわれわれにとっては、理解至難であるが、神と人間は(互いに異なると共に)何等かの仕方で同一である、とする考え方を導入する必要があろう。

☆ 恩寵による“神化”
 --罪のゆるし・remissio peccati・reelevatioと神化・elevatio--
§1 恩寵による「神化」:
 恩寵とは、キリストの恩寵(生命)に生き、生かされることである。それは、私に与えられる御霊に応えて生きることでもある。御霊は、三一神の愛のペルソナであるから、これに応えるとは、御霊をペルソナの次元で愛することである。そしてこれを可能にしてくれるのが、恩寵、つまり愛の原理・源泉であって、それは結局御霊に他ならない。御親が、御子を、御子が(私の内にあって)御親を愛される、その愛(御霊)に参与する。これが恩寵の具体的な結果である。
 即ち、“肉”となった御言は、御子である神自身であるから、神の内的生命を必然的に持つ。むしろ神の内的生命そのものである。一方、人間ペルソナとしても神の三一性、すなわち神の内的生命に“参与”する。人間ペルソナとしては、神の内的生命そのものではないが、御言によって“ペルソナ化”されている人間性は(つまり、人間イエスの最終的行動主体は、第二位のペルソナである御言だから)、神以外のものが可能である限りに神の内的生命に参与する。それ故、あらゆる個々の人間は、キリストの恩寵の生命(神の内生に参与している人間の生命)に参与することに依って、この神の内生にある意味で参与する。
 では、神の「内的生命」とは、何か。それは、御親と御子と御霊の間で永遠に必然的に交流されている神の知性、神の愛、つまり、神の本性(神性)そのものであるが、静的な観点からではなく、動的な観点から見たものである。神は、時・空の次元を無限に超えているから、内・外の区別はないし、単一な存在であるから、本来区別そのものが神にあるわけではない。従って「内的生命」という言い方に意味があるとすれば、それは、われわれにとってだけである。この事を幾分分かるために、われわれ人間の場合を考えてみよう。人間の情報収集手段は、典型的ものとしては、見る、と聞く、がある。その特徴を際だたせてみると、見る情報は主として人間の外面の事、聞く情報は他人の心の内面の動き(これは、聞く以外にない)が主である。これを神に関することに当てはめると、「見る」は、つまり経験世界を見ることに依って、その最終原因として神を知ることである。この場合、人間は、理性的な力(感情なども伴う)だけで、神が実在すると言うことだけではなく、神の若干の「特性」をも知る。勿論、神は、三一神としてではなく、単一のペルソナ(知り且つ愛する方)としてのみ知られるが、これは、神が三一神としてではなく唯一神として世界を創造したからであると説明される。次に、「聞く」、つまり「啓示」に依って、「見る」事では知り得ない神についての情報を知ることが出来る。この様に分けて考えることで、世界に対する神の行為(外的)と神の内面的な生命(内的)を分けて考えることが意味を持って来る。
 ところで、人間が神の本性・神性に同化されることは決してあり得ないとされる。人間は飽く迄人間であり続ける。しかし、人間は、恩寵によって人間のまま神の「活動」に与り、それによってこの活動に同化されて行く。神の本性的活動に同化される。本性は行動の原理であるという意味で、これは神の本性への(飽くまでも活動の次元での)分有、参加と言える。そしてこの本性が三一神であるから、夫々のペルソナの固有の“働き”に同化する。こうして恩寵の賜物の多様性とその統一性が理解されるが、勿論、これは、神の複合性を認めることではなく、人間の不完全さによるものである。この様に限定した上で、次のように言うことが出来よう。即ち、この賜物によって人間は、先ず神性に同化されるが、しかし、神性は三一神であるから、賜物の多様性と統一性によって、ある賜物はあるペルソナの発生源に同化する。こうして、英知の賜物によって、第一の発生源である「知ること」、光に同化することで、人間は、御言に似たものとなっていく。愛の賜物によって、第二の発出・愛に同化することで、御霊に似たものとなっていく。恩寵そのものの賜物によって、総ての行動と生命の原理に同化することで、御親に似たものとなっていく。人間はペルソナであることから、「知」「愛」によって三一神の像をやどしているが、これが恩寵によって更に高められ、三一神の各ペルソナ夫々に同化されて行く。繰り返して言うが、以上は勿論「帰属」であって、三一のペルソナが、ペルソナとして人間に直接に関わるわけではない。
 こうして、三一神は、人間の単なる礼拝・賛美の対象であるだけでなく、私がそれに向かって限りなく同化していく、根源である。私は、恩寵によって限りなく神となって行く。
その結果、私の日常活動はいわば、三一神の活動である。例えば、祈るとき私は、神に向かって祈るだけではなく、むしろ、神と共に祈るのである。ちなみに、実行的なことを言えば、この神化は、全て三一神の恩寵であって私の側からは何も誇るものはない。私に求められているのは何かをすることではなく、素直に受け入れ、そして、邪魔をしないことである。また、総てのキリスト者は、この恩寵を受けている。その意味で基本的に平等である。従って、私と全く同じ恩寵が他者の中にも恐らく私以上に働いている。最も下らないとみなされている人にも合掌の気持ちを抱かねばならない。彼の中に三一神が生きているからである。
§2 世界創造への参画:
 恩寵に依って「神化」された人間は、神の活動に参加する(神となる)従って内的活動だけではなく、外的活動つまり、神の世界創造のみ業にも参与する。神は、被造物を創造に参加させる。神は、中間の出来事(歴史)を一切飛び越えて、ドラマの終局を直接に現出させることもできた。
 神は、不断に世界を創造する。神にとって創造とは、万物に実在とその基体とを同時に与えることであるが、それは、全体と個とが各々にふさわしいし方で自らの完成を達成する方向で与えられる。人間も、勿論、その本性に従って行動する。ところで、人間も同じく自らの完成を目指して創造されているが、ペルソナであることから、二つの異なった要因がみられる。一つは、人間は、「個」でありながら、決して全体の単なる部分とはなり得ない、否、なることは、許されない。従って、如何なる場合にもペルソナを如何なるものの手段としても用いることは、決して許されない。但し、ペルソナも個体であるから、個体である限りに於て、ある場合には、より高い価値のために自らの自由な決断に基づいて、犠牲となることは許される。もう一つは、人間は、この自らの完成を「自己の物」として追求する(ペルソナの特徴は、la possession de soi)、即ち、事態を意識しながら、自由に、--少なくとも拒否できると言う意味で--これを追求するのである。換言すれば、ペルソナである人間は、主体的な行為者として世界の創造に、実在そのものを与える者としてではないが、その完全性の実現者として、つまり実在のあり方を実現するものとして、参加する。ペルソナにふさわしい動かされ方は、管理者、執事として、与えられた方針を実行する事である。
 恩寵は、以上の秩序を前提とした上で、更にこれを高揚する。恩寵に依って神の内的生命に与る人間は、その世界創造にも参画するが、単に神の意志を忠実に履行する管理者としてだけではなく、キリストを介して、いわば神の「立案」にも与る。こうして人間は、神の「友」となり、「共同創造者」となる。神が人間を愛されるばかりか、人間から愛されることも望まれるとは、具体的にはこの様なことである。愛の次元に於て、人間は、或意味で神と等しい高みに迄上げられ、愛のパートナーとなる。
 しかし、この「高揚」は、目的に関する高揚であって、何か高揚された新しいものを目に見える形で付け加えることではない。この世界が既に恩寵の世界であるから、恩寵がこの秩序を変えることはない。人間行為の他に恩寵固有の行為があるのではない。内的生活は、日常生活と別の物ではない。恩寵は、人間の行為を根源的に強化し、これを高める。例えば、食事を考えよう。恩寵に依って、必ずしも食事の仕方が上品になったり、優雅になったりするわけではない。高めるとは、食事の通常の目的(健康維持、交友)をより高い目的(神)に向けることである。食べることが、即神への愛となることである。この場合、意志に直接左右されない人間の行為(actus hominis)と意志が直接関わる人間的行為(actus humanus)とを区別する必要がある。直接高められるのは、後者の人間的行為であって、この主体的行為は、単に人間的行為であるだけでなく、神との共同の行為を構成するのである。
 ここに、昔からの論争がある。つまり、神の意志の絶対確実性と人間の意志の自由の問題である。ここでは、先ず二つの確実な事実を抑えておく必要がある。即ち、全ては、神の完全な自由に懸かっている。と、全ては、人間の自由意志、つまり恩寵に同意し、恩寵に協力し、且つ脱落することもできる人間の意志に懸かっている、である。この二つの命題は、それぞれ確実であり、キリスト者の確信である。しかし、どの様にしてこの二つが、同時に成り立ち得るのか、神自身が関わる問題であるから人間の側からの明快な答えは、不可能である。
 ところで自由とは、何か。通常、われわれの自由は、あれか、これかの「選択の自由」として経験されている。では、選択の自由とは、どういうものか(ちなみに、選択とは普通考えられるように善と悪との間の決定ではなく、善と善との間の決定である。悪自体は、存在しないし、悪は、悪として意志の対象になることは出来ない。意志とは、善に対する能力だからである)。一般に能力は、対象に依って規定されている。目は見ることしかできないし、耳は、聞くことしかできない。対象が与えられると必ず反応する。しかし、意志は、対象からのみ規定されるのではなく、むしろ対象を規定する要因もある。つまり自己に取って何が善であるかを最終的に決定する。経験の場では、善は、有限な個別的善として提示されるが、意志は、より大なる善をそれなりに考慮するが必ずしもそれに決定されるのではなく、より小なる善を決定することもできる。これが選択の自由という形で現れる。
 善を決めると言うことは、一つの善を絶対化することで、これに自己の全存在を懸けることである。従って、決断は、善を媒介にして自己自身のあり方を決定することで、これが、行為-善の主体であると言うことに他ならない。自由と言うのは、この様に善を今、ここに、或意味で、創造する力の事である(この力が選択を介して現れる)。ところで人間が創造する善は、必ずしも存在の領域に於いても善であるとは限らない。つまり、私が生み出す善がそのまま自動的に善として通用するのではなく、外在する基準に依って判定されねばならない。この基準は、結局は、私自身の「存在」である。つまり私の自由は、存在に依って制約されているのである。それ故、もし存在そのものが自由であるような存在者があったら、つまり制約されないと言うことがその存在の「制約」であるような者があるなら、その者の生み出す存在は、自動的に善となる。つまり善そのものが基準だからである。即ち、自分の意志がそのまま基準となる。これを追求して行くと、自らの本質が即自由である(本来限定を意味する本性が、限定のないことが正に本性である)という事実に到達し、これは、神以外に有り得ない。つまり、自由は、神の本性そのものである。従って、自由の極致は神的自律性と言うことになる。神には外的規範がないから、神の行為は即法であり、善であり、自由である。選択の自由はこの様な自律性の不完全な表現と言うことになる。だから、自由意志の問題は、本来人間の自由選択に依る決定と神の決定とがどの様に両立するか、と言うことではなく、人間の自律性は、何処まで神的自律性に迫れるか、つまり、人間は、何処まで神になり得るか、と言うことである。換言すれば、人間の意志が神の意志に完全に従うと言うことは、人間の自由を損なわないばかりか、かえってこれを益々完成することになる。キリストの意志は、この意味で最も完全に自由であった。この方向で二命題は融合的に調和させることが出来る。(勿論、人間に取って自律的であると言うことは最終的には本性を否定すると言いう矛盾を抱えている。)
 ところで、選択の自由が成り立つのは、「手段」の領域だけであって、「目的」に対しては成り立たない。目的という概念が選択を排除している。「目的を選ぶ」と言うことは、厳密には無意味なことで、もし、そう言えるならば、それは、「中間目的」つまり手段としての目的についてである。ある目的を達成するためには複数の手段があってそれを選ぶと言うとき意味がある。
 とにかく、世界創造に参加するとは、神の御旨を行うことであるが、これは、「進行形」で捉えるべきである。つまり、神が既成のものとして予め定められたプランを単に消化して行くことではない。恰も全く人間の事業であるかのように、ある意味で神と共にプランを立てて行くことである。このプランは、究極的には自由を目指している。具体的には外在している法を如何にして内在的法にして行くかということである。ここに「法」の問題がある。「法」は、神の御旨の表現であると共に、その実現のための手段である。この意味で法を正確に守ることが目的ではなく、神と共に「プラン」を実現して行く事が霊性の目的である。法中心の霊性から恩寵中心の霊性へと高められる必要がある。例えば、「従順の徳」は、人間の意志を懲らしめるのが本義ではなく、神の自律へ人間を高めることめざすものである。
 更に、世界創造は、「個人」の次元と同時に世界もしくは社会の次元でも展開される。社会的次元での展開は、正義に基づく社会構造の創造として具現化されよう。また、言うまでもなく世界創造には、肯定的側面、つまり積極的に建設して行く面と、否定的側面、つまり消極的に邪なものを破壊して行く面とがある。そして、この事は、「個人」の次元と同時に世界もしくは社会の次元でも等しく妥当する。いわゆる「神の国の建設」とは、以上のような事を総括的に表現するものである。
§3.神の栄光への参加;「既に」と「まだ」の狭間で。三一神の顕現
 人間の目的は、通俗的には、天国で神の栄光に与ることであるとされている。ところで天国は、どこか空間的な場所にあるのではない。それではこれを、どの様に考えたら良いか。それ故、「栄光」と言う考えを分析する必要がある。神の栄光とは、何か。それは、結局、三一なる神自身に他ならない。但し、「顕示・発露」された限りに於て、「輝き」として捉えられる。三一神は、神自身であるから永遠に輝いている筈である。恩寵は、創造されないものとして(ut increata)聖霊であり、神自身であるから、恩寵と神の栄光とは、結局同一である。創造と恩寵の場合は、神の二つの行為を前提として理解される。即ち、先ず神は世界を創造し、次いで、恩寵によってこれを高める。しかし、恩寵と栄光は、神の唯一つの行為として理解できる。ただ、恩寵の概念の方には、「顕現された」と言う面と、その受取手という考え方が入っていないだけである。本来唯一の存在である神にとって、顕現するとは、どう言う事か。もし意味のある説明を加えるとすれば、それは、神が人間と世界に現れること、つまり、人間と世界の目から覆いが取られて、それまでは見えなかったものが見えるようになることである。恩寵の働きは、信仰に依って知られるが、信仰とは、知性の働きを助けて聖霊を見させる恩寵である。信仰には、見るための手段、前提として「命題」の受け入れを伴うが、命題には、被造物から取られた概念が入っている。この様に、知性(人間)の行為、被造物からの概念、人間の罪などが聖霊を明らかに見ることを妨げ、隠している。従って、神と人間の間にあるあらゆるもの、恩寵、信仰さえ消滅すること、つまり、人間本性と三一神が直に触れ合うことが期待されている。これが「至福直観」と言われる状態で、スコラ学者は、これを次のように説明した。能力とその対象間には均衡関係が予想される。例えば、認識とは、対象が実在界に於て事物を規定しているその規定性そのものに依って知性が規定されることである。しかし、至福直観の場合は、神が対象の代わりに人間(の知性)を直接に規定する。いわば、神自身が人間能力の対象の役割を積極的に果たすのである。こうして能力とその対象の均衡が破れ、全く不可解であるが、一切の媒介無しに神と人間=世界が合一する。神が人間全体を「奪い取る」。そのとき一切が顔と顔とを合わせて露になる。この際人間性を補強するのが栄光の光lumen gloriaeである。
 恩寵は、被造として、人間の態勢であるから、究極的に栄光を目指す。換言すれば、この態勢は、最終的には、「至福直観」への態勢である。それ故、人間の言葉が意味を持つ限りで言えば、神の栄光は、創造されない恩寵として、「空間的」にも「時間的」にもわれわれから遠くはなれているのではなく、既に、いま、ここに、いわば現存している(逆に言えば、その様な関係でわれわれは、存在させられている)。もし、経験的な仕方でこの神の栄光が世界に現れていないならば、それは、人間の側からの条件が整っていないからである。現時点では、われわれは、信仰に依ってこの神の栄光をかいま見るだけなのである。
 神の栄光は、丁度枡の中に置かれた燭のように、恩寵の中に隠されて現存する。従って、この世に於けるあらゆる不完全、不都合と共存している。これは、理論と言うよりは体験である。この意味で、恩寵は、賜であると同時に約束であり、喜びであると共に希望であり、既に所有しながら、同時に待ち望んでいるものである。

むすび:喜びの福音
 恩寵charisとは、喜びを生み出すものの性質である。喜びとは、「善」を現実に所有することから生じる主体的な充実性であって、単に感情だけではなく、ペルソナ全体に充満する。三一神は、先ず人間を愛されただけではなく、不可思議な事ながら、人間から愛されることをも望まれる。愛そのものである神が、正にそれ故にこそ、人間から愛されることを求め、いわばそのためにあらゆる事を敢えて行われた。その頂点が、人間を自分の内的生命に与らせること、人間を愛のパートナーとすることであって、それを可能とするために最愛の御子イエスを与えられた。その結果、人間に取って、最高の善は、三位一体のこの愛、恩寵であり、この事実の告知が福音である。正に、この意味で、福音は、最高の喜びである。但し、この喜びは、それを味わうための態勢dispositioを必要とする。そしてそれが恩寵と呼ばれるものである。つまり、福音は、喜びと共に、それを味わうための恩寵をわれわれに与え、その事実を告知するのである。この喜びは、現在の状況では、悲しみ、苦しみなどと共存するばかりでなく、むしろそれに圧倒されている。しかし、福音は、信頼し、愛する人々に取っては、正にこれらの苦しみを喜びに変容する力をも与えるのである。ここからわれわれに求められているのは、喜ぶこと。感情のみでなく、意志と行動を伴う喜びを体験することである。受身でなく、喜びを阻むものを排除し、積極的に喜びを創造する。そしてこれは、単に個人の次元だけではなく、社会の次元でも実現すること。更に、この喜びを回りの人々に伝えること。喜びは、「物」のように人に「手渡す」ことは出来ない。それは、共に喜ぶことに依ってしか伝わらない。われわれにせいぜい出来るのは、他の人の内にも既に喜びの源が現存していることに気づかせることだけである。なおこの点でも、単なる感情の伝達ではなく、時には社会構造の抜本的改革への積極的参加をも義務的に要求するものである。福音を伝えるとは、神学理論を教授することではなく、上に述べたような意味で喜びを実践的に伝えることである。(完)