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2009年7月29日水曜日

神々の実在に就いて

「概念化された」神道の神々が果して実際に人々の思考作用を離れて実在するものかどうか、実在するとすればそれはどの様な性質の者なのか、検討しなければならない。
 先ず神々は、「絶対者」とは考えられていなので、論理的にその実在を(テオスの場合のように)証明することはできない。証明できるのは、その可能性のみである。そして、我々は、矛盾概念でない限りその実在は常に可能であると考えることが出来る。即ち、我々の場合は、神々の実在は、可能である。つまり、我々人間の経験を越える何等かの存在態、或は、神道的に言えば、明界に対する幽界が実在するとしても矛盾ではない。但しその実在そのものは、別の証明を要する。この場合、カトリック神学の側からは、伝統的ではあるが、あくまでも伝統に過ぎない宇宙観に基づいて、「幽界」の実在を云々すべきではない。少なくとも我々は、人間の経験を越える問題に就いて未知の事が非常に多いことを認めねばならない。他方神道の側からは、神々に就いて言われていることは、飽くまでも「神話」であることを忘れてはならない。神話が言わんとしている所を洞察すると共に、幽界に就いては、余りにも知られる所の少ない事に留意すべきである。
 次に、個々の神々の具体的な実在に就いてであるが、一般に信仰とその対象に関しては、論理的には、対象が信仰に先行し、その逆ではない。従って、信仰の事実から、その対象の実在を論証することはできない。しかし、健全な(何を以って健全とするかは難しいが)信仰には、その説明根拠として何等かの実在的な対象が対応していると考える方が妥当である。従って、我々は、ある神に対する健全な信仰には、その対象の性質は未知ながらも、何等かの実在的対象が対応しているものと考える。即ち、神道の信仰は、総て幻想である、とア・プリオリに断定することは為すべきではない。勿論、安易にキリスト教的概念、例えば、神の力、天使、聖人、悪魔などを持ち出して神道の神々は、その様なものの「日本的な」概念化であると説明することも避けるべきであろう。現時点においては、神道の神々の「実在」は、実証的には、未だ、断定を下すための手段に欠けると言うに止めざるを得ない。