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2009年7月20日月曜日

天神・国神

 我々は、記・紀神話に於て、神々の中に天神(アマツカミ)と国神(クニツカミ)との区別が立てられているのを見る。これはどの様に解釈されるべきであろうか。前者は、征服者のカミ、後者は、被征服者のカミ、と単純に理解して良いだろうか。一般に、太古には、現在の島根を中心に出雲系民族が繁栄していたのに対して、所謂天孫系民族がこれを服属して大和朝廷を立てたとされ、前者の民族に属する神々が、国つ神、後者が、天つ神であるとされている。大変示唆に富む説であるが、難点が無いわけではない。先ず、出雲地方にその様な大民族圏の中心があったとすれば、それなりの考古学的な痕跡があるはずであるが、それらしきものは見られないようである。但し、最近かなり重要な意味を持つ資料が大量に発見された模様であるが、その正確な評価については、今後の解明に待ちたい。次に所謂国つ神を斎き祭る古い神社が出雲地方よりも寧ろ畿内に多いという事実をどう説明するかと言う問題がある。第三に、九州、筑紫地方並びに後に、「熊襲」、「隼人」と呼ばれるようになる文化圏との関係をどう捉えるか、これらも「出雲国家」の一部と見なすべきかどうか。
 以上のような事情からみて、単純に「出雲国家」の存在を想定する訳には行かない。従って、天つ神、国つ神の区別も、冒頭に述べた程に単純ではない。
 私見では、「出雲国家」、「出雲系民族」は、政治的要素の濃い概念である。
勿論、これらの言葉が記・紀神話に出ている訳ではないが、それらが指し示している事態は、確かに在り、それが政治的な色彩を担っていると言うわけである。敢えて言えば、それは、記・紀信仰集団が幾らかの事実を基礎に創り出したものである。即ち、弥生時代の文化史的状況は、北方的文化要素と南方的文化要素とが複雑に絡み合っていたと思われる。従って、神々も両系のものが、複雑に混在していたであろう。その様な状況の中で、北方的文化要素を強く引きずった、後に天皇家と呼ばれる氏族を中心とする豪族群が、次第に統一政権を形成してきた。彼らの列島への到着が何時であったかは判らないが、少なくともその記憶の中に移住の痕跡が残っていたのは確かであろう。彼らはこの記憶を「高天原神話」の形で神話化したが、それに伴って、謂わば必然的にその対立項として「出雲」を生み出した。勿論これは、単なる空想的捏造という意味ではなく、何等かの意味で異質的な要素を感じたことが、その基礎にあったのであろう。こうして、「高天原神話」圏に属さない神々が、国つ神として捉えられたのである。しかし、少なくとも「神観」に関する限り、両者の間に本質的な差異は認められない。それ故、私見では、両者は、判然と区別出来るものではなく、遥か昔に数次にわたって渡来してきた人々の歴史的記憶と、経験の外に理想のくにを求める民衆の願望とが一体となって成立した宗教理念である。従って天つ神は、渡来者のカミ、征服者のカミ、国つ神は、土着のカミ、被征服者のカミと単純に分類すべきではないであろう。