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2009年8月28日金曜日

聖母への孝愛1

マリアが我々の実母である事実を認めることは、単に我々のマリア信心のあり方を左右
するだけではなく、我々のキリスト者としてのあり方全体を定めるものである。何故なら
ば、上述のようにキリスト者とは、単にキリストを模倣するだけでなく、キリストそのも
のを生命としてこれを生きようとする者、もっと適切には、生かされようとする者である
からである。即ち、キリスト者としての生き方には二つの大きな様相が考えられる。(a)キ
リストのまねび;キリストを自分の理想として眼前に描き、その行動にできるだけ厳密に
与ろうとする生きざまである。これは、客観的であり、把握し易いが、形式主義、律法主
義に陥る危険がある。(b)キリストに生かされる;キリストを内的な生命の原理としてこれ
に全てを委ねて生きる態度である。これは、霊的な活力の漲る充実した生きざまであるが
、熱狂主義、主観主義、独善主義に陥る危険がある。従って、この両者が調和を持って統
合されるのが理想的である。キリストが超自然の生命であるとは、その様な意味である。
キリスト者の生きざまが、この様にして、所謂第二のキリストになる、ことを目指すとす
れば、当然キリストの最も基本的あり方、即ち、マリアの子である事実を真っ先に実現す
べきであろう。子の親に対する関係、その根本的態度は、「孝行」あるいは「孝愛」とい
う言葉で最もよく表現できる。但し、ここで「孝愛」と言うのは、基本的な態度を言うの
であって、単なる感情を指しているのではない。従ってキリストと共にマリアの子である
、とは、キリストのマリアに対する子としての関係・孝愛に参与することに他ならない。
無論、キリストに就いての理解は、多様であるべきであるから、必ずしも万人がこの孝愛
を一定の仕方で、実践する必要はないが、一つの健全な道として推奨されるべきであろう
。それ故、我々の霊生道は、「マリアの子」の霊生道であるのが望ましい。これは単なる
スローガンではなく、霊的生活の全方向を決定的に規定するものである。つまり、マリア
の子としてのイエスに同化することである。

2009年8月26日水曜日

マリアはどのようにして神的生命を私に伝えたか(3)

全ての人間には、対キリスト関係を成立させる何等かの行為が生じるとして、で
は、マリアは、この行為に対してどの様な役割を果たすのであろうか。残念ながら、この点に関しても、聖書的な直接の根拠はない。少なくとも、マリアがキリストの母であることを示すのと同程度に明確に示す根拠はない。従って、我々は、この点に関しては、伝承と神学的な考察に頼らざるを得ない。「マリア信仰」ではなく、「信心」と言う理由の一つは、ここにある。
神学的考察に就いては、様々な立場からの推論が、可能であるが、ここでは、マリアが、キリストの母である、との信仰から出発して、その意味を探ってみる。さて、我々の信仰に依れば、マリアをキリストの母として選んだのは、神の意志である。神の意志が、無目的、偶発的に起こることは考えられない。選びには、何等かの目的があるはずである。我々は、これを「使命」と呼ぶ。それ故、マリアにも、キリストに関して、使命が与えられているはずである。そしてその使命は、当然キリストの母となる、と言うことである。所で、母に取って、最大の使命は、正にその「子」を生み、養育し、完成させると言うことである[マリアは、いつこの使命を自覚したか?遅くとも復活後]。所で、ペルソナは、二つ以上の焦点を共有する楕円形としてイメージすることが出来るから、個々の人間ペルソナは、少なくともキリストをもう一つの焦点とする楕円形で有り得る。これを別言すると、ペルソナとは、単に物理・生理的な個人を指すだけではなく、いわば二つ(以上)の焦点を共有し合う人間集団をも指している。この意味で、古来言われている「神秘体キリスト」は、十分理解できる概念である。即ち、我々の問題にかえって、若しマリアの使命が、キリストを生み、養育することにあるならば、それは、単に歴史的なナザレのイエスの出産と養育だけではなく、全人類を包含する神秘体キリストの出産と養育をも含むはずである。従って、上に述べた、個々の人間の対キリスト関係(この関係によって「共同体としてのキリスト」が生じる)を基礎付ける人間行為(これ自体神の恩寵である)にマリアが直接に関与すること(この関与の性格は、何か。確かに必然的ではないが、「より適切」つまり神の摂理の中で、その方がより良い)を神が許したと考えても、決して矛盾ではない。繰り返して言うが、勿論我々は、この事実に就いての直接の啓示を持たない。しかし、こう考えることは、啓示を裏切ることにはならないはずである。
 こうしてマリアは、イエスの懐妊の瞬間から人間の命の母となっただけで無く、我々一人一人がキリストの命に現実に「生きる」に当たって母としての参与を行った。この参与は、マリアの「使命」の中に潜勢的に現在する。その限りに於てマリアは、一人の例外もなく全ての人間の母である。それも前述のように単に比喩的意味ではなく、固有の意味で母である、と言うことも許されよう。
 要するに、マリアが我々の母である、との結論は、救済史に於けるイエス・キリストの分析を媒介として、マリアは、イエスの母である、との前提から神学的・論理的に引き出される結論である。

2009年8月25日火曜日

マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(2)

以上述べたことから、マリアは、イエスを宿すことによって、「根源的な意味での人間の」命キリストの母となった、と言える。しかし、「量的にも完成された命」としてのキリストの母と言えるためには、マリアが、人間の救いとしてのイエスの生涯、特にその十字架上での死去に決定的な役割を果たしたことを明らかにしなければならない。残念ながら、我々は、この点に関しても明示的な啓示を与えられていない。従ってこの問題は、神学的な議論の段階にある。ここで様々な理論に深入りする余裕はないが、例えば、愛する者の苦しみを共に苦しむ「同伴苦」compassioの考え方が有力な示唆を与えている。
 上に述べたように、救いがキリストに対する我々の関係に成り立つとすれば、キリストの受胎の瞬間に全人類は、根本的に救いの状況に入れられた、と言うことが出来る。しかしながら、これだけでは、我々人間に対するキリストの対人間関係の成立が説明されただけで、個々の人間のキリストに対する関係は、未だ説明できていない。いのちは、外から押し付けられるのではなく、内在し、同化するものだから、人間の側からの少なくとも「受ける」働きがなければならない。「受ける」は、人間の場合ペルソナの行為、つまり、少なくとも「断わる」可能性を含む、知性と意志の活動である。つまり、知ることと愛することである。では、上記の関係の基礎としての行為は、人が史的イエス・キリストを知って、愛し始めたときに成立するとすべきであろうか。若し、この様な「概念化された」行為にのみ限定するならば、史的イエス・キリストに対する関係を持てる人は、極く限られた少数の人だけになって仕舞うであろう。このことを、神の普遍的救済意志に調和させるのは、非常に難しい。所で、「至福直観」[神自身が一切の媒介なしに直接に人間の能力を取り上げる、従ってここでは選択の自由はなく必然的である]の場合を除いて、善そのものである神は、常に「造られたもの」を媒介として我々に御自身を提供される。「造られたもの」は、まさにその被造性の故に有限であり、善を相対化する。つまり悪の要因を含む。存在論的にみれば、悪とは、善の欠如に他ならないからである。これは、勿論キリストの「人間性」に就いても言えることである。従って、史的イエスは、万人にとって必ずしも常に「善」として立ち現れるとは限らない。ある人が、キリストを「悪」と見なして「善」のために、拒否することも有り得る。逆に「史的イエス」以外のものが、善そのものへの道として真摯に捉えられることもまた可能である。
 一方、あらゆる行為は、元来神からのものである。ある意味で神との合作であるとも言える。特に、イエスは、同時に神の御子であるから、どの様な被造物もその固有の力によってイエスを(概念的にではなく、実存的、体験的に)知り、愛することはできない(ちなみに、愛の対象は、ペルソナ自体である)。神の特別の助けが必要である。即ち、神が人間の行為を取り上げて、それを、それが本来備えていなかった高次の次元に高めて、知り、かつ愛することが出来るようにして下さる必要がある。所で、あらゆる人間の行為は、神の眼からみれば(と言うことが出来るとすれば)、いわば「無」に等しく本来的な価値を持たない(被造物は、徹頭徹尾全面的に神に依存するものである)。従って、ある行為が、別の行為よりも良く神の愛の対象になると言うことはない。人間の側からみれば、各々の行為の価値は、実在的に異なるが、神の側からは、そうではない。全てが神の純粋の「恵み」である。それ故、「罪」を除いて、人間の行為は、全て神の特別の助けの対象となり得る。「罪」とは、第一義的には、法則の侵犯ではなく、愛、生命(としての「イエス・キリスト」)の受け入れを拒否することである。法則の侵犯は、その具体的現れである。それ故、「罪」つまり「受ける」ことの拒否が、「受け入れ」とは、なり得ないからである。
 更に、人間の認識行為には、直観的要因と、概念化の要因とが区別できることも知られている。概念化は、本来複合的であり、身体的要素、従って文化・社会的要素に左右される。それ故、人間は、多少異なる概念に依って、同一の事物を認識することも可能であるその具体的な一例は、多国語による認識である。確かに言語は、概念の表象であるから、言語の相違は、必ずしも概念の違いを意味しないが(例えば、「本」と「book」が表象する「概念」は同じであろう)、全体的、体系的視野の中では、概念そのものの相違も有り得る。つまり、同一の「直観的」内容が、それぞれの言語に特有のそれぞれに異なった概念系によって捉えられることも有り得る。以上のことを勘案すれば、対キリスト関係を成立させるには、必ずしも史的イエス・キリストに対する概念化された認識と愛を必要とするものではないと言える。つまり、全ての人間の自由意志による最初の行為(人間固有の行為)を、神が取り上げて、それが行為として史的キリストを志向している限り、或はもっと厳密に言えば、史的キリストが表している「神秘」を志向している限り、それがどの様に概念化されていようとも、これを用いて、対キリスト関係を成立せしめられることも神に取っては、不可能ではない。勿論、個々の具体的な場合に、どの行為が「最初の行為であるか、或は、存在の次元で史的キリストを志向しているのかどうか、又、それによっ」て実際に関係が成立したかどうか、などをア・プリオリに断定することは、出来ない。その識別の具体的方法として我々に与えられているのが「秘跡」である。ここに「秘跡」の持つ一つの大きな意味がある。

2009年8月19日水曜日

マリアは、どの様にして神的生命を私に伝達したか(1)

マリアの子イエスが、人間一人一人の命であることは、上述の様に理解することが出来る。では、マリアは、どの様な意味で人間一人一人の母であると言えるだろうか。既に述べたように、命を伝達する女性が、母と呼ばれる。それ故、問題は、どの様にして、マリアは、我々の命であるキリストを我々に伝達したかである。

先ず、マリアがキリストを生んだことに依って、我々の命としてのキリストをも生んだと直ちに言えるであろうか。即ち、イエスは、生まれながらにして「人間の命」であると言えるであろうか。別言すると、イエスが「人間の命」となったのは、何時の時点か。つまり、受胎の時か、或は、生涯のある時点、例えば死の時か、もしくは、復活の時か。キリストがどの時点で「人間の命」となったかによって、我々に対するマリアの母性も変わって来る。このことを明らかにするためには、いわゆる「救い」におけるイエス・キリストの「役割」を見る必要がある。既に述べたように、人間は、史的キリストと連帯することで、神秘と合一し、それによって我々の「救い」が成就するが、このことは、どの様にして可能となるのか。今、逆の観点からこの合一を阻むものを見てみると、それには、二つのことがある。人間の被造物としての有限性と神の愛の受け入れを拒否する人間の意志の反抗としての罪とである。有限性も罪も人間の側からの自発的行為でこれを克服することは、出来ない。ただ神からの無条件、無償の恩寵として克服を授けられる以外に有り得ない。つまり神の側からの全く自由な行為である。神の自由行為であるから、神がそれにどの様な条件を付けられるのも、或は、付けられないのもまた全く神の自由である。従って、神が、この合一の一つの方法として御子の受肉を決められ、ただこの決定だけによって合一を成就されたとしても、それは、根本的には、神の全くの自由行為である。この意味で、イエスの受胎の瞬間が、この神の自由行為の人間に対する表示であり、この時点でイエスは、根本的に人間の命となった、と理解して良いだろう。しかしながら、一方、信仰によって、我々は、イエスが、「我々人間のため、我々の救いのため」に来られたことを知っている。だとすれば、イエスの人間としての生涯が、何等かの仕方で神の自由行為に参与することを神は望まれた、と考えるべきであろう。もしそうなら、イエスの人間としての諸々の行為、就中その最高潮としてのイエスの死が、人間の神との合一の可能性の原因、不可欠ではないにしても、最も適切な原因として神から定められたと言うことが出来る。この意味で、イエスの十字架上での死によって、人間の有限性が克服され、罪が完全に撃ち破られ、人間は、神と合一し得る者となった、と言える。即ち、この時点で、イエスは、単に「根本的に」だけではなく、人間の次元に於いても、「人間の命」となったのである。これを便宜上、「根本的な命」に対して「量的にも完成された命」と呼んでおく。

2009年8月18日火曜日

人間の命としてのキリスト

イエス・キリストが、我々人間のいのちであることをもう少し詳しく考えよう。上述のように、命とは、統合と活動とをもたらす内在的原理である。我々の経験する限り、最高の活動は、知ることと愛することである。本来活動は、単なる「動き」ではなく、存在と存在とを結び付ける広い意味での「媒体」であり、そして知的存在者を真の意味で結合するのは、認識と愛だからである。従って、活動には、常に何等かの「対象」が(実在するかどうかは別として)想定されている。更に、単なる想像の産物ではなく、真の意味での結合が起こり得るためには、「対象」と「活動」との間に、何等かの仕方での「釣合」がなければならない。既に述べたように、人間の究極の幸せは、神秘との合一によって達せられる。つまり、この合一こそ人間の究極の目的であり、あらゆる人間の活動は、この目的に向けられた「手段」である。この意味で、人間の生理的生命も、活動である限りこの目的への一つの「手段」と考えることが出来る。所で、神秘は、それ以外の一切のものを無限に越えるものとして理解されるから、如何なる活動(認識・愛)も神秘に「釣り合う」ことは有り得ない。「釣合」が可能であるためには、(例えば)人間の活動が、「他から」の原理によっていわば、高められ、補完される必要がある。もしこの様な「原理」があれば(我々はそれがあることを信仰によって知っている)、それは、新たな統合と活動とをもたらす原理、つまり「生命」であると言うことが出来る。
 既に述べたように、ナザレのイエスは、人間(=ペルソナ)となった神の御子(=ペルソナ)である。御子の「資格」では、三一神の内的生命(知恵・愛)そのものであり、人間の「資格」では、我々一人一人と存在的に連帯し得る。それ故、我々一人一人は、この連帯を通して三一神の内的生命にある意味で参与する。つまり、人間は、御子に準じて神に愛され、且つ御子に準じて神を(能動的に)知り、愛し得る者となる。こうして、神と人間との「合一」、従って人間の究極の目的・幸せは、イエスを媒介とする我々の活動によって達成され得るのである。それ故、イエス・キリストは、言葉の最も完全な意味に於て我々一人一人の「生命」そのものである。我々は、この様に不完全に表現されたこの事実の内容を信仰に依って受け入れるのである。
 所で、イエス・キリストが人間の命であるとして、説明しなければならないもう一つの問題点は、二千年前に史上に存在し、今は我々の五官・感覚ではその現存が捉え得ない史的人物が、どの様にして我々個人の内在的原理であると考えることが出来るか、と言うことであろう。即ち、①自分ではない他の人間がどの様にして、我々に内在し得るのか、②しかもこの人物と我々の間には、二千年の時間の隔たりがある。これに対して、勿論我々は、所謂「自然科学的」な答えを出すことは、出来ない。自然科学的なデーターが無いからである。しかし、ただ、そう信じている、と言うだけでも十分ではない。少なくともこの信仰の内容は、何なのか、信仰を媒介にして与えられた事実を前提に、その意味するところを説明し、多少とも理解しようと試みることは、可能であり、理性を備えた人間にふさわしいことであると言えよう。
 我々は、この問題を理解するための基礎としてペルソナの概念に訴える。一般にペルソナと言うと、「知性的実体」と定義されるように、存在論的に他から切り離され孤立した「個体」が考えられがちであるが、実は、ペルソナは、本来実体概念と言うよりは関係概念である。凡そこの世に存在するもので、孤立・遊離したものは考えられないと言う事実の他に、ペルソナは、その「本質」に於て、他に対して開かれ、他に依存する対他存在である。ちなみに、神のペルソナは、「自存する関係」relatio persistensとして理解されて来た。これを仮に図で示せば、人間ペルソナは、自我を中心とする同心円ではなく、二つ以上の「焦点」をもつ楕円形、若しくはその複合形で表され得る。従って、物理的、生理的個体がそのままペルソナであるのではなく、少なくとも、この様な個体が二つ以上関係し合うことで、ペルソナは、成り立っている。物理的、生理的個体は、ペルソナという関係が成り立っている主体、もしくは基体である。多少乱暴な比喩だが、生物学で言う「宿主」的なものに当たる。この意味で、ペルソナは、本質的に社会的である。即ち、二つ以上の「個体としてのペルソナ」が、結合して、行動のための一つの「共同主体としてのペルソナ」を形成する。勿論この結合のあり方、度合は、様々で有り得る。
 所で、既に述べたように、「内在」という概念は、単に空間的な内外を言うのではない。空間とは、併存iuxtapositioを本質とする物質の属性である。従って、物質でないものに就いては、空間的な内外を言うことは本来無意味である。それ故、若し「内在」と言う言葉に、何等かの意味をもたせようとすれば、「本性に従って」secundum naturam、或は「本性を越えて」praeter naturamと言う区別を導入しなければならないだろう。この様に理解すれば、たとえ物理、生理的に或「個体としてのペルソナ」に現在しなくとも、そのペルソナの本性を構成する限りに於て、つまり、そのペルソナの本性に従う限りに於て、或一つの別の「個体としてのペルソナ・自我」は、この前者のペルソナに内在すると言うことが出来る。例えば、互いに本当に愛し合っている二人は、どんなに遠く離れていても、一つのペルソナを構成すると言える。しかしながら、人間ペルソナの場合、身体は、ペルソナの本質構成要素であるから、この身体を媒介にして何等かの仕方での物理的、生理的現在が求められる。即ち、上述の「共同主体としてのペルソナ」が、現実の人間次元で行動するには、それを構成する「個体としてのペルソナ」たちも何らかの仕方で、現実の次元で現存し合わねばならない。一方が、他方の想像力(空想の愛人)、もしくは記憶力(追憶の死者)によってのみ「現在」するのでは十分ではない。物理的に今、ここに現存するか、或は例えば、物理的手段(電気、音響)を媒介に現存する必要がある。
 上に述べたことから、イエス・キリストが、人間「個体ペルソナ」として、他の人間の場合と同様に、我々の一人一人と共に「共同主体としてのペルソナ」を構成し、こうして我々の内在原理(=いのち)であり得ることは、明かである。問題は、二千年前に死去したこの「人間ペルソナ」が、どの様にして我々一人一人に現実の次元で現存し得るのか、である。ここで、いわゆる神の「遍在」を直接に持ち出すのでは、答えとはならない。それは、「受肉の玄義」を飛び越えることになろう。所で、キリストが、若し他の歴史的人物と同様に単なる過去の人に過ぎないのであれば、上述の人間次元での「共同主体としてのペルソナ」は、ある人の記憶にのみ依存する思考上の存在に過ぎなくなるであろう。しかしながら、我々は、信仰に依って、イエス・キリストが復活した事実を知っている。我々の理解では、復活とは、神の直接の働きによって、ある人が、その全存在を挙げて(ペルソナ全体として)神(秘)の「次元」へ移行されることである。復活によて、この人は、(人間ペルソナであるから)時空性を保有したまま、時間と空間との制約を克服し、これらを超越して今、ここに現存している(どの様にしてかは、我々には分からない)ことを意味する。こうして、逆説的な表現ではあるが、復活した人は、人間でありながら時間と空間とを越えて今、ここに現存する、と言えるのである。復活のキリストも(と言うより全ての人は、キリストのこの復活に参与する)、時空に制約されることなく、それを越えて、今、ここに現存する(存在は、本来時空に制約されないものであるが、ある種類の存在者は、物質をその本質構成要素としているので、事実上時間と空間の条件の下にのみ実在するのである)。復活のキリストの現存は、認識論的には、信仰に依存するが、存在論的には、信仰に先行する。
 要するに、十字架上で殺され、「三日目に」復活したナザレトのイエスその人が、今、ここに居て、私の生命原理を構成しているのである。

2009年8月17日月曜日

母性について

マリアが神の母であるということに関して、カトリックの信仰理解としては、ほぼ一致した見解がある。問題は、マリアは、我々人間に対しても実際の母と言えるのか、我々に対しても母性を持っているか、いるとすればどの様な根拠でそうなのか、と言うことである。即ち、マリアと我々との間の関係を基礎付ける土台(行為)は何か。マリアが我々一人一人を生理・物理的に生んだのでないことは自明である。従って所謂生理学的な実母・実子関係がないのは明かである。では、マリアが我々の母であると言うのは、単に敬虔な比喩的言い回しに過ぎないのであろうか。主観的な信仰の世界でだけ通用する言い方なのであろうか。
 我々の主張は、我々人間に対するマリアの母性は、単なる敬虔な比喩や、信じている間だけ成り立つ思想ではなく、仮令その事実は、信仰を媒介としてのみ知り得るとしても、一つの客観的現実の事実である、との主張である。それでは、この主張の根拠は、何であろうか。
 先に母性を「ペルソナに人間性を伝達する」ことに成り立つ関係として捉えた。しかし、これは人間の場合にしか当てはまらない狭い規定である。犬や猫などにも「母性」はある意味で認められる。それ故、これらをも含めて広く生物一般に言えるためには、もっと広く、「生命を伝達する」行為に成り立つ関係と規定しなければならない。こうしてある個体に生命を伝達する女性生物が母である、と広く考えて置く。
 一般に、多義的な語の場合、様々なものに述語出来るが、大きく分けて、固有の意味で言われる場合と、比喩的な意味で言われる場合とに区別できる。前者は、思考する者の思考作用に依存しないでもこの語の本質的要因が、述語されるものの内に実在している場合であり、後者は、この作用に依存して、つまりこの作用が働いている間だけ成立する場合、即ち、本質的要因は述語されるものの内に実際にはないが、思考する者から恰もあるように「見なされる」場合である。これを「母」の場合に当てはめると、我々の思考作用に先立って或主体の内に母性の本質的要因が実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」と呼ばれ得る。では、この本質的要因とは、何か。先に見たように、母とは、生命を伝達する女性を言う。それ故、「いのちを伝える」が、母性を構成する本質的要因である。従ってこの「命を伝える」という事実が、我々の思考作用に依存しないで、或主体に実在している場合、この主体は、固有の意味で「母」であると言うことが出来る。逆に我々の思考作用に依存して、つまり我々がそう見なすからと言う理由だけで、「命を伝える」と言うことが考えられる場合は、この主体は、比喩的な意味でのみ「母」であると言われる。
 さて、周知の様に「命」と言う概念も、非常に多義的(正確には類比的)である。あるものは、固有の意味で、あるものは比喩の意味で用いられる。もちろんここでは、固有の意味での「母」が問題であるから、「命」が比喩的な意味で使われる場合は、予め除外する。しかし、固有の意味であっても、伝達される命の種類は、唯一ではなく、多様であるから、伝えられるいのちの種類に依って固有の母性も多様であり得る。
 所で、固有の意味で生命とは、あるものの全体的統一と活動を支えている内在的原理であると言える。個体を成立させ、活動させている内在的原理である。内在とは、空間の次元では、ある一定の範囲の中にあることを言うが、空間の次元を越えるものに就いては、本来、内外と言うことは成り立たない。我々自身が、空間に制約されているから、これを越えるものに就いては、固有の意味で言表出来ないわけである。従って、間接的に、不完全にこれを言い表すことになる。こうして、内在とは、あるものの本性に従って、若しくは本性に矛盾しないで、そのものの構成にかかわることであり、外在とは、そのものに取って、異質であること、「他者」であることを言う、と決めておかねばならない。例えば、自動車に活動をもたらすエンジンは、空間的には車体の内部にあるが、無機物の人為的な集約である「自動車」の、本来静止する「本性」にとって異質であり、ある意味で本性を強制するものであるから内在とは、言わない。従って、エンジンは、比喩的な意味ではいのちと言われるが、固有の意味では「命」、つまり内在原理ではない。
 さて、人間は、複合的な存在であるから、内在的原理としての命にも多様な種類がある。生物的生命、動物的生命、精神的生命、霊的生命などなど、そして最終的には、神的生命がある。今我々皆が現に体験している内在的原理は、恐らく精神的生命までであろう。それらを我々は、多少とも実感している。実感はしないがある種の論証に依って我々の内にはもう一つの生命があることを信じて(知って)いる。それは、所謂「霊的生命」、「超自然の生命」と呼ばれているものである。この生命は実感はしないが、信仰に依ってその実在が確かめられているから、単に比喩の意味ではなく、固有の意味で命である。ちなみに、信仰は、実在に就いての認識を媒介する原理であって、主観的認識を発生させる主観的作用原理ではない。
 我々は、この神的生命・超自然的生命がイエス・キリスト自身であることを信仰に依って知っている。史的次元では、イエス・キリストは、単なる個体的人物に過ぎないが、救済史的次元では、彼は、その懐妊から栄光の昇天に至る全生涯に依って人間の内的生命となったと我々は、信仰によって、理解する。

2009年8月14日金曜日

マリア被昇天祭

マリアの被昇天の祭日をできるだけ納得して祝うには、信仰と信心との区別を考えてみる必要がある。信仰は、「神の子イエス・キリストに帰依し奉る」と言ういわば神から授けられた心の態度で、自由に左右することはできない。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」(『歎異抄』2:1)との心情に通じるもので、神からのものであるかどうかは、別として、他人が容喙できない絶対的なものが信仰である。
これに対して信心は、信仰を深めていくための様々な方便である。多くの場合、伝統に深く根ざしている。また、単に理知の問題だけではなく、むしろ感情や嗜好に訴えるところが多い。信心は、信仰のように絶対的なものではないから、信仰に正しく益するかどうかを基準に客観的に判断する必要がある。この場合信仰に益するかどうかは、本人の事情に大きく関係するから、軽々に他の人の信心を批判すべきではない。逆に、特定の信心を、たとえ伝統に根ざしているからと言って、他の人に強制してはならない。
 さて、聖母の被昇天祭は、1950年に教義として決められてからは、単なる信心ではなくなった。信仰内容の一部となったわけである。しかし、この祭日が永い伝統に育まれた信心であったこともまた事実で、いわば信心としての側面を残していることも否めない。つまり、祭日としてどのように祝うかは、信仰の問題ではなく、信心の問題である。実行的には、この祭日をどのようにふさわしく祝うかは、今後の吾々の課題である。豊かな伝統を勘案しながらすばらしい信心を開発したい。幸い、この時期はお盆にあたる。お盆は、一般には、仏教の行事だと思われているが、本来仏教の行事ではない。釈尊の教えが東漸する間に、土着の信仰、特に先祖崇拝の信情と習合して、わが国独自の信心物語が人々の心を魅了して、仏教の大切な年間行事として定着した。詳細は省くが、要するに家のご先祖様、特に直近の亡くなった親族の霊をお迎えして数日間留まっていただき、その間に御もてなしをして孝養を尽くす。そして最後の日に盛大に幽界へとお見送りし、来年の再会を約束する。ご先祖の霊との親しい交わりによって、現世に生きる我々のペルソナ性が固められ、高められる。客観的な事実ではないかもしれないが、主観的な豊かさもらうことは確かである。
聖母被昇天の信心物語は、来世観が異なるため、表現の仕方は異なるが、吾々の霊的母性である聖母に対する、そして、聖母を介して、吾々の先祖や親族に対する心情は、主観的には、盆の心と通底しているのではなかろうか。今後、お盆の行事と被昇天の行事とを習合して行くことが望まれる。

2009年8月12日水曜日

恩寵論

 恩寵論
☆恩寵の一般的概念
恩寵と言う概念は、われわれの経験の世界から採られたものである。トマス・アクィナスによれば、恩寵と訳された元のギリシア語のカリスcharis には、三様の、互いに関連した意味がある。
第一に、誰か、特に権力者が、他の誰か、特に支配下の者を好ましく思う、慈しむ態度を指している。例えば王がある特定の臣下に好意を示す場合、それは、この臣下にとってカリスである。
第二に、この好意の結果、もしくは表現として、好意を受けた者に無償で与えられる何らかの贈り物を言う。
第三に、この無償で与えられた贈り物に対する、或いはより適切には、贈り物を与えた者に対する感謝を表わす語として用いられた。

元々一般的な用語であったこの言葉が、既に原始教会に採り入れられ、元の意味を保ちながら宗教的意味を帯びて、神と人間との親密な関係を表わすのに用いられる様になった。さて、原意を踏まえて、このカリスと言う概念を分析して見ると、先ずそこには少なくとも二つ以上のペルソナ(個我)が係わっている。その一つは神のペルソナであり、他は、たとえば人間ペルソナである。次いで一方のペルソナ、つまりペルソナとしての神が他方のペルソナを自己にとって好ましいと是認する行為がある。通常の場合、好ましいとされるペルソナの方にそうされる原因がある。つまり美しい、とか、善良だとか、相手の好意を惹き付けるものがあり、それに基づいて第一のペルソナが、このペルソナを好ましいと是認するのである。しかし、これは、必ずしも好意が生じるための必要な条件ではない。むしろ本質的なのは、是認の行為そのものであって、好ましいとされるペルソナの内に好まれるための原因が一切ない場合もカリスの概念は成立し得る。神のカリスはむしろ無償の、つまり好ましいとされるペルソナの側には神の好意を呼び起こすような一切の原因が無いにもかかわらず、神の側からの一方的な行為として理解される。要するにカリスの概念を成り立たせているものは、一位のペルソナが他のペルソナを好ましいとする、つまり愛すると言う事実である。
或るペルソナに対する好意から、この好意の現われとして贈り物すなわち「善」の贈与もしくは、好意者の善への参与を許すこと(の結果)が生じる。吾々が以下で考察しようとするのは、主としてこの意味での恩寵である。
最後にこの様な恩寵を授けられたことに対して自ずと感謝の心が生じるはずである。この心は、様々な形で表現され得るが、神に対しては、何よりも与えられたものを素直に、受け入れると言うことであろう。そして、この受け入れは、今度は、この恩寵に基づく行為、努力として日常生活の中に具現して行くのである。

☆ 創造と恩寵
 あらゆる被造物は、それなりに御子を反映し、その限りにおいて善である。つまり、創造主の善性に参与するのである。より厳密に言えば、参与させられるのである。神の側から見れば(と言う言い方が許されるなら)、神は、先ず総ての被造物による分有「可能態」としての御子(実は神性実体そのもの)を直接に愛することによって、その内に分有可能態としての総ての被造物をも間接に愛される。即ち、御子の中の可能態としての被造物が現実に実在することを欲っせられる。この神の意志によって被造物は、現実に実在するものとなる。愛とは善に対する意志の働き掛け(既存の善を求めるか、あるいは新に善を創造する)であるから、この過程をわれわれは神の愛と呼ぶことが許されよう。こうして神は、被造物を創造しながら愛し、愛しながら創造される。創造的愛と呼ばれる所以である。
 こうして、神は総ての被造物を「愛される」とは言えるが、その愛は、言葉の十全の意味で未だ完全な愛の形態ではない。愛とは、本来夫々互いに他者であると見なされる二つ以上の存在者がその全実存を挙げて、多少の段階はあるが出来るかぎり融合することである。詰まるところ存在 esse の交流、更にはその合一である。所が真に交流、合一が成り立つためには二つの契機が考えられねばならない。一つは、一方の当事者が他方に自己の総てを「差し出す」と言うことであり、もう一つは、今度はこの他方が差し出されたものを余すところなく「受け入れる」と言うことである。言うまでもなく同一の事が相手の当事者からも行なわれるはずである。実はこれらは二つの別々の行為なのではなく、唯一の事態の二つの側面なのである。そして、交流・合一が完全になればなるほどこの「自己贈与」と「他者受容」とは一体化してくるのである。要するに愛がその名に値するためには、贈与と受容と言う二契機がなければならない。今、創造の場合を考えて見ると、「贈与」の面では、神は確かに被造物に贈与を行なうのであるが、それは飽く迄も「共通存在」の贈与であって、神の「自己贈与」と考える訳には行かない。「受容」の面から言えば、神は、創造によって如何なるものも被造物から現実に受け取る事はない。従って創造が神の愛である、と言うのは、愛としては非常に不完全な意味で、である。これに対して三一神の所謂内的愛は、この愛の契機を完全に満たしている。即ち、神においては、御親と御子との対立は、「生む」ことと「生まれる」こととの間の対立のみであって、他のすべては同一の神性実体である。従って御親が御子を愛するとは、必然的に、御子に自己の神性実体のすべてを差し出す(完全な自己贈与)と同時に御子の神性実体を余すところなく受け容れる(完全な他者受容)ことである。御子が御親を愛されるのも全く同様である。こうして御親と御子とは、互いに必然的に、完全に愛し、かつ愛されておられるのである。必然的と言う訳は、御親にとっても御子にとっても同一の神性実体の共有、交流は、その本性そのものだからである。以上は勿論御霊についても言わなければならないことである。
 こうして、御親は、御子を必然的に愛され、御子も亦御親を必然的に愛される。恩寵が根源的に「愛」である、と言う意味で、御子(及び御霊)は、恩寵である、と言う事ができる。むしろ、恩寵の根源であると言った方がより適切であるかも知れない。しかし乍ら、恩寵の概念の中には、「無償性」と言う契機がある。すなわち、恩寵を受ける側、つまり、恩寵の対象は、必然的に愛されるに値する対象ではなく、恩寵の愛に先だっては、全くの「無」か、あるいはそれ以下の反価値である、と言う事実がなければならない。この意味で三一神内の御子も御霊も、御親を必然的に愛し、かつ愛されているがゆえに、つまりこの必然性の故に、恩寵と言うことはできない。従って恩寵の概念が完全に成り立つためには、神の側からの「自由な」愛、つまり対象に全く依存しない愛が考えられねばならない。そして、同時にこの愛は神の言わば一方通行の行為ではなく、これによって神も実質的に「愛される」、その様な愛が在り得るか、すなわち、神の自由な愛であって、しかもこの愛の「見返り」として愛されるに値しないものから、神が現実に愛される、その様な愛が実際にあり得るか検討しなければならない。
☆ 神の無償の愛
恩寵の概念を説明するためには、神のうちに、必然的ではない、真の受け身の愛が在り得ることを明らかにしなければならない。神は善であり、善の本性は、「溢れ出る」ことである。この善が完全であればある程、溢れ出も完全である筈である。さて、非常に擬人的な表現であるが、この神の愛の溢れは、言わば、神自身の内部で‘処理する’か、あるいは外部的に‘処理する’か、のいずれかである。前者の場合は、三一神内のペルソナ間の愛の交流として、幾分理解できる。すなわち、神の愛・善性は、ペルソナ間の交流として永遠から永遠にわたって溢れ出ている訳である。勿論この溢れはあらゆる面から必然的である。後者の場合は、神の外にもう一柱の神があって、この外の神との間に永遠の交流が行なわれると考えることが出来れば問題は、解決する。しかし、神に対立する外の神と言う考えは、超越神の厳密な「概念規定」と両立し得ない。もし神以外に何かがあると考えるなら、このものは、必ず神に絶対的に依存しているものとしてしか考えられない。すなわち、神は自己自身を創造することは不可能で、ただ被造物だけしか創造することが出来ない。そしてこの創造は、必然的ではなく、神の愛の自由な溢れとして理解されるものである。こうして、神は、先ず被造物を創造し、しかる後に、その全能の力でこの被造物を可能な限り「高める」と言う仕方でしか、愛の溢れを「外に」出すことは出来ない。つまり、‘必然的に神よりも不完全であるもの’をあらしめ、次いで、これを高める以外にない。こうして、創造は、恩寵が“外に溢れる”ための必須の前提となる。神は、創造と同時に被造物を高めることは出来るが、創造の前に高めることは出来ない。所で、創造の原理は、御子である。従って、御子は、この神の自由な愛の原理である限りにおいて恩寵の前提をなす。すなわち、御子は、恩寵の一つの契機である「無償性」の原理をなす。すなわち、受肉の原義によって人となった御子は、神としては、神の愛の必然的な「対象」であるが、人間としては、神の愛の必然的な対象ではない。つまり神が人間イエスを愛するかどうかは、全くの自由である。それゆえ、真の神であり、真の人間であるイエスに対する神の愛は、恩寵である。次にわれわれは、恩寵のもう一つの契機である「受動性」に関しても御子が原理であることを説明しなければならない。

☆ 神が“ひと”と成る受肉の玄義
愛を求める神となる:愛されることを望む;受肉:御言は肉と成った:受肉の玄義・“御霊の受肉”
 愛の概念の中には「受動性」つまり、愛されると言う要因が本質的なものとして含まれていなければならない。所で受動と言うことは存在論的にはあるものを受け取ることを意味する。従って、少なくともこの受け取られるものに関して欠如、不完全を含んでいる。神は、完全そのものとして理解されているのであるから、この様な意味での受動は神には考えることは出来ない。それゆえ、もし神について受動性を考えるとすれば、それは神が神自身を愛する行為(能動)の裏面として、(勿論人間の思考様式に基づいて)理解する外はない。即ち、神は、神自身によってしか「愛される」ことはない、と考えざるを得ない。従って、神と人間との間にもし真の友情が成り立つとしたら、それは、何等かの仕方で人間が神となる、少なくとも神と等しく成ると言う可能性が考えられて始めて可能である。即ち、神と人間が固有の意味で互いに愛し合うには、何等かの仕方で人間の「神化theopoiesis 」が可能でなければならない。
 所で、創造は、神の愛の溢れとして捉えることが出来た。しかし、この愛は、飽く迄も能動的な愛(創造的愛:対象の善を愛するのではなく、愛が対象の善を創造する)に留る。勿論、神の愛がこれで完結しても不都合はない。併し、愛の本質は、相互的自己贈与で、愛するだけではなく、愛されることもなければならないから、神は、愛されることをも欲するのである。そしてその一つの道として受肉の玄義が選ばれた。
 では、この受肉の玄義をどの様に理解したら良いだろうか。聖書の述べていることを要約すれば、受肉(言葉そのものは後の神学用語)とは御子がナザレのイエスとなって生まれる、御子が人間の子と成る、と言うことである。ここで注意すべきは、御言が人間ペルソナに成った(le Verbe est devenu une personne humaine)のであって、御言が人間ペルソナを取り上げた(le Verbe a assume une personne humaine)のではなかった点である。即ち、御言は、言わばひとりの人間を取り上げ、その偶有性、具体性を捨象した“人間性”を自分のものとしたのではなく、一人の具体的な人間と成った。つまり、神と人が結合しただけではなく、神が人と成ったのである。勿論ある一定の成長を遂げた具体的人間に突然成り代わった、のではなく、われわれすべての人間と全く同じように胎児の段階から人間と成った。啓示の言っていることは、単純明快であるが、その説明となると困難である。日本の宗教にも‘権化’、とか、神が仮に人の形を借りて宿る、と言う様な考え方があるが、受肉はこれと全く同じことを指すのではない。神は、人間の“借(仮)りの姿”を取ったのではなく、“現実の人間”に成ったのである。単に神が人間に「宿った」だけではなく、人間そのものと成った。私と同じ人間である。
 所で、現実の人間は、歴史(時間)と風土(空間)に規定されている。あらゆる連帯から完全に切り離された「純粋人間」は、実在せず、過去の善人や悪人の血も混ざっている。社会、政治、宗教などの影響も受けている。不完全さを共有している。ある閉じられた系を考えた場合、その中での最も完全な人間と言うことは考えられるが、絶対的な意味での完全人間などあり得ない。それは一種の矛盾である。この意味で「真の人」なるイエスをどの様な仕方であれ、人間のまま「神格化」しようとする試みは受肉の玄義を否定するものである。
では、この神が人間と成った、とする受肉の玄義はどの様に説明できるだろうか。以下は飽く迄も「説明」に過ぎないことに留意しなければならない。スコラ神学者らは、この玄義をペルソナの概念を導入して説明しようとした。

さて、御親は, 人と成った御子、つまり人間イエスというペルソナを愛する(本来の愛の対象はペルソナである)。この愛は、人間ペルソナに対するものとしての限りにおいて必然的なものではない。三一神の「御子」としては、御親から愛されるのは必然的であるが、人間ペルソナとしては、愛されるのは必然的でない。つまり、御子が人間ペルソナに成るのは必然的ではなく、全くの自由である。従って、人間ペルソナと成った御子に対する御親の愛も、人間ペルソナの役割を果たす者としての御子に対する限り、自由であり、その意味で無償である。こうして人間と成った御子に対する御親の愛は、無償の愛となり、これが本来の恩寵である。
 他方、ナザレのイエスと呼ばれる人間ペルソナと成った御子は、依然として神の第二位のペルソナ、神的ペルソナであるから、人間イエスの言わば最終責任主体(つまりペルソナ)は、神的ペルソナである。従って、イエスのあらゆる行為はこの神的ペルソナの、言わば責任の下に行なわれる。すなわち、イエスの全行為(存在と言う「行為」をも含めて)は最終的には人間イエスのペルソナの機能を果たしている神の第二位のペルソナに帰着するのである。但し、少なくとも人間の場合、ペルソナは、直ちに行為の原理とはならない。かえって所謂「本性」を媒介として、つまりそれを言わば手段として、順を追って目的を達成して行かねばならない。望んだだけで直ちに満腹にはならず、まず種子をまくことから始めねばならない、と言う訳である。これはイエスの場合も同様であった筈である。それゆえ、イエスが愛するとき、その愛の最終主体は御子であっても、愛の「行為」はイエスの人間本性を媒介とする人間の行為である。この意味で御親に対する御子の愛と、御親に対するナザレのイエスと成った御子の愛とは同じではない。すなわち、御子は、神として御親を必然的、絶対的、完全に愛すると同時に、人間イエスとして御親を自由に、相対的に、そして不完全に愛するのである。それゆえ、人と成った御子は、神的ペルソナとして御親を無限に愛すると同時に、人としても御親を有限的に愛する。
 こうして、人間イエスは、その神的ペルソナを介して三一神の内的ペルソナの交わりに言わば参与する。所で前述のように神的ペルソナの交わりは、これを動的に見た場合神の徹底的な相互自己贈与に外ならないから、この交わりに参与することはつまりこの自己贈与にも参与することである。こうして神は、人間と成った御子を通して神の総てを世界に与える。このことは、先ず神の側からは次の様に理解することが出来る。すなわち、受肉によって神自身が世界の歴史の中に自らを相対化した、と言うことである。時間、空間だけではなく、総ての存在を無限、絶対に超越するとされる神が時間と空間の制約の下に、所謂「創造主の遍在」とは異なる仕方で実在した。神が人間イエスとして、罪、つまり神的ペルソナそのものに対する最も根源的な拒否(神のペルソナが神の他のペルソナを根源的に否定することは考えられない)を除いてそれ以外の総ての人間としての不完全を受け入れながら生きる。無知、無能、疲労、失敗、恐怖、死、その他あらゆる人間の条件を引き受けた。それゆえ、イエスの日常生活全体から切り離された抽象化された十字架や復活だけが特別な意味を持つのではなく、受胎、降誕から復活まで人間イエスの地上での歴史条件の下における全生活がイエスにおける神の、世界に向かっての自己贈与をなす。こうして人間イエスの地上での生活の一瞬一瞬が決定的な意味を持つ。従って、所謂史的イエスが、(それを完全に再認識するのは最早われわれには不可能であるが、)全体としてわれわれの信仰に決定的な役割を果たしている。[ここから言えるのは、一方では、人間イエスを安易に“神格化”してはならない、と言うことである。つまり神が殊更に自己を相対化されたことを人間が恣意的に絶対化してはならない。つまり、人間イエスは、飽く迄も人間なのであって、神ではない。従ってイエスの「肉体」だけを神の救いの全計画から切り離してそれを独立に絶対化して「礼拝」するのは誤りである。他方では、ある意味で人間イエスの延長である「キリストの神秘体」である教会にも限界があることを是認しなければならない。イエス・キリストは、飽く迄もあらゆる個体にそのまま妥当する普遍概念ではなく、ペルソナつまり最も完全な意味での個体である。この個体があらゆる人間だけではなく、全宇宙の生命原理と考えられる訳であるが、このことについては、「復活の玄義」との関連で考察されりだろう。] 
 所で、世界に対する神の全き自己贈与は、これを世界の側から見れば、世界は、人間イエスとなった御子(神的ペルソナ)を介して夫々の本性が耐えられる限り三一神の内奥の生命に能動的に参加することが許された、と言うことを意味する。即ち、御親と御霊に対する御子の総ての活動、就中その「愛」に参加する。こうして先ず人間イエスは、人間として御親の愛にある程度「対等に」応える。所が、イエスの人間としての能力だけではこの愛に参加し、これに応えることが出来ない。従ってこの様なことが可能となるには神の側からの特別な支えがイエスに与えられねばならない。こういう言い方が許されるなら、人間イエスは、一方では、人間として全く無力でありながら、他方では神として、御親を愛さねばならないのであるから、この神の特別の支えを誰よりも必要としている。と同時に御子として自らが恩寵の源泉であるから、人間イエスにはこの神の特別の支え、つまり恩寵が可能なかぎり豊かに注がれているのである。人間イエスには、こうして恩寵が充満していると言われる。しかも、この恩寵の充満は、イエス個人のためだけではなく、イエスを介してすべての人間、すべての被造物に流れ及んで行くべきものである。
 要するに、受肉した御子ナザレのイエスを媒介として、被造物に対する神の愛は、単に能動的であるだけではなく、受動的なもの、つまり、被造物からの愛をも固有の意味で受け入れる。こうして愛の相互的自己贈与が成就する。神と人間との間の愛は単なる愛憐ではなく、友情となるのである。
☆ 恩寵の超越性と内在性
 われわれは、これまで「恩寵」をいわば神の側から考察してきた。次に、これをわれわれの側から考察する。すなわち、恩寵を受け取るわれわれの側にどのような変化が生まれるのかを考察するのである。その前にわれわれは、まず恩寵を受け取ると言うような表現が許されるものかどうかを検討しなければならない。つまり、恩寵とは、受け取ったり、拒んだり出来るような「物」なのかどうか。既に述べたように、恩寵の源泉は、三一神であった。神がナザレトのイエスを媒介として被造物を愛し、又被造物から愛される、と言うのが恩寵の本性であった。従って、恩寵とは、一義的に神であると言うことが出来る。神ご自身が恩寵であって、これをわれわれは、「創られない恩寵(Gratia increata)」と呼んでいる。しかしながら、これを受け取る人間の側からみた場合、人間は、文字どおり神を受け取ることは不可能である。神は、人間を無限に超えるからである。それ故、以上の事が単に言葉の綾に留まらないためには、出来る限り実質的な説明を試みる必要がある。そしてわれわれは、例によってこの問題を、関係の概念に頼ることによって解決しようとする。即ち、人間ペルソナである御子に対する御親のペルソナルな愛が恩寵であった。無償のペルソナ間の愛によって、御親は御子に於いてその“人間”を愛すべきものとするのである。今まで愛の対象でなかったものが愛の対象となったのであるから、神の側に変化が考えられないとしたら、この変化は人間の方に考えられねばならない。つまり人間の中に新しい関係が発生した。単なる依存関係だけではなく別の関係が生まれた。すなわち、神が被造物を特別に愛された事によって、被造物は、根源的に変化した。この変化は、単なる思考上の問題ではなく、人間が存在的に変化したのであるから、この変化のいわば形相因が人間の中に実質的に存在しなければならない。所で、神ご自身が人間もしくは被造物の形相因になることは、不可能であるとされているから、神以外の何かが人間の中に創造されたと考えなければならない。この創造されたモノによって、人間は、実在的に変化し、有効に神を愛し得る者となった。このモノをわれわれは、「造られた恩寵(Gratia creata)」もしくは、単に「恩寵」と呼ぶ。
 さて、ここで問題になって来るのは、このモノとしての恩寵の存在論的性質である。すなわち、この恩寵は、人間にとって外来の物か、或は内在の物なのか、と言う事である。 先ず、この性質としての恩寵は、神から無償で、つまり人間の方からは一切の要求(権)なしに与えられるものか。神の絶対的超越性を考えるとこの説明は良い様に思える。併し、もし全く人間の側からの要求性がなければ、結局この恩寵は、人間に取って飽くまでも「異物」であって、前述の様な内的生命とはなり得ない。従って、人間を内在的に完成することもない。それは、丁度ボロ隠しの外套のように、外から見苦しいものを覆いはするが、人間を存在的に神の子に高めるものではない。最終的には、恩寵は、全く別個のものの創造であり、御霊は別のものを愛しているということになる。つまり恩寵が衣服の様に単に外から着せかけられるものなら愛は衣服に留るのであって中身の人間に迄至らないこととなる。従って、恩寵が何らかの意味を持つためには、正に人間のモノとならねばならない。ここでG.マルセルの言う etreとavoir の区別を思い出すのも適切であろう。人間の本来のモノになるにはavoir の領域を越えてetreの領域に入らねばならない。つまり、人間の本性、本質の構成要素とならねばならない。この様になったとき始めて愛されているのはこの私ですと言える。
 人間の本性に内在しない恩寵という考えを押し進めて行けば、恩寵は、益々物神化され、宝の倉に蓄えられた金貨のように、人の力で増やしたり、失ったり、果ては、取引の対象ともされ兼ねない。善業によって、恩寵を儲けると言う考えが一般化して来たのはこのためであったろう。
 では、恩寵は、人間本性に内在的なものなのだろうか。そう考えれば、上述の様な不都合は、避けることが出来る。しかしながら、恩寵を人間に内在するものとして捉えることには、重大な難点がある。本質を構成するということは、それは人間にとって不可欠だということであり、その意味で“要求性”を意味することになり、これは、恩寵の無償性、神の超越性を犯すことになる。即ち、内在すると言う事は、存在論的には、人間の本質の構成要素であると言う事を意味する。つまりそれが欠けていると人間ではあり得ない、少なくとも完全な意味では人間ではあり得ないのである。換言すると、恩寵を有するのは、人間であるための必須の条件と言うことになる。神が人間を創造する限り(創造するかどうかは神の自由としても)、必然的に恩寵を与えざるを得ない。丁度知性を(少なくとも可能態で)与えねばならない様に。さもなければ、神は、矛盾を犯すことになろう。こうして、恩寵の本質の一つである無償性が損なわれることになる。これは、恩寵の概念に根本的に抵触する考えであろう。
 かくて、われわれは、深刻なディレンマに直面することになる。すなわち、恩寵は、人間に内在するものなのか、はた超越するものなのか、と言う問題である。しかしながら、問題を詳細に観察すると、このディレンマは、実は、恩寵のみの問題ではなく、神の本性そのものの問題が、たまたま恩寵との関連で表面化したものに外ならない。即ち、有限な人間が、無限の神を何ほどか認識しようとすると、どうしても避けることの出来ないディレンマである。只一つで神を完全に表現できる概念は、有り得ないから、もし幾分でも神の完全性を表したいなら、われわれは、二つ以上の概念を複合的に用いねばならない。この様な概念は、可能なあらゆる完全性を全面的に肯定すると同時に、神以外の有限なものに見られる可能なあらゆる不完全性を全面的に否定するものでなければならない。こうして、神を完全に表現するには、肯定概念と否定概念とが同時に成立しなければならないが、この様な相反する二つの要素を同時に含む唯一の概念は有り得ない。従ってわれわれは、二つの概念を用いて、しかも思考操作によってそれが同時に成立すると考える外はない。即ち、神は、宇宙万物を超越する、つまり、宇宙万物ではない、と同時に、宇宙万物に内在する、つまり、宇宙万物である。この何れかのみを主張するのは誤りであるが、人間は、事実上時間の前後関係の中で何れかのみを主張せざるを得ないところに問題の難しさがある。結局、われわれは、以上述べたことを条件に、「恩寵は、人間本性を超越すると同時に、これに内在する」、と言う互いに矛盾し合っている命題を肯定せざるを得ない。実行上は、恩寵に就いて述べられたことは、直ちに思考操作によって否定されるか、或は少なくともその逆が指摘されねばならない。そしてこの事の根拠は、人間理性の論理性ではなく、結局神の愛の神秘性に求められねばならない。即ち、われわれは、恩寵を可能な限り説明しようと努力するのであるが、結局は、それを説明し尽くすことは出来ないのである。
 以上の考察は、現代われわれが直面している多くの神学的問題に幾可かの光を注ぐ筈である。ここでは例示的に若干の問題を取り上げたい。
1)恩寵は、外から(上から)与えられるものか、或は(人間の)内から引き出されるものか。
 恩寵の超越性を強調する考え方では、勿論恩寵は、上から、外から与えられるものである。人間には恩寵に対する如何なる適合性も有り得ない。恩寵は、外からプレゼントのように与えられるものである。そこから恩寵の「物体化」が生じた。超自然界の金貨として教会という「銀行」に蓄えられていて、特定の祈りや善業でそれを引き出すことが出来る。
人間は、それを自由に使ったり、簡単になくしたりする。それは、飽くまでも所有の場のモノである。この考え方の前提には神は絶対超越であるとの考え、神と世界は断絶しているとの考えがある。神の絶対超越性を強調すれば、つまり本来世界と全く無関係な神が特に「恵を垂れる」という面にだけに目を向ければ恩寵は自然と“物体化”されて来るだろう。
 この考えに依れば、人間は、全体としても、個人としても、徹底的に神の不倶載天の敵である。神と人間(宇宙)との間には、単なる異質性だけではなく、敵対性があるとされるのである。そして、どの様にしてこの様な敵対性が発生したのかとの説明として、所謂原罪説が持ち出される。この様な敵対性にも拘らず敵をも愛すると言う神の無限の哀れみによって極く例外的に(神によって選ばれた)個々の人間に与えられる無償の施し物が恩寵である。明らかなように、この考え方では、神の超越性、正義、絶対性などはよく説明される。しかしながらここから現れる神のイメージは、ともすれば、自己の尊厳以外如何なるものの幸せも全く眼中にない血に飢えた残忍なモロクの神となりかねない。本来自己以外の如何なるものをも必要としない神が、自己の尊厳を高めるために、創造される必然性のない人間(宇宙)を、しかもただ苦しめるためにだけに創造する、と考えるのは不条理である。少なくともわれわれ人間に理解できる、世界創造の説明は、善の充溢、つまり、愛以外にはない。それ故、敵対性、少なくとも神の側からの敵対性を前提として恩寵を考えることは誤りであろう。神と人間との関係の出発点には、先ず何等かの意味での同質性、友好性が考えられねばならない。生命は外から与えられるものではなく、存在の内部から発露するものである。つまり、生命と存在者の間には連続性がある。このことの説明には絶対超越神だけではなく、世界に内在する神という考えが必要である(内在immanentia:神と世界は一である/内住inhabitatio :神[超越神]が世界の内奥で働く)。神の内的生命を直接の対象とする性質がどうして人間の中から出て来るか。恩寵を生命として受け取る素地が人間の中にある。総ての人間の中に恩寵の種子が内在する。この様な理解の仕方は、矛盾律を基礎とする思考の枠組で考えているわれわれにとっては、理解至難であるが、神と人間は(互いに異なると共に)何等かの仕方で同一である、とする考え方を導入する必要があろう。

☆ 恩寵による“神化”
 --罪のゆるし・remissio peccati・reelevatioと神化・elevatio--
§1 恩寵による「神化」:
 恩寵とは、キリストの恩寵(生命)に生き、生かされることである。それは、私に与えられる御霊に応えて生きることでもある。御霊は、三一神の愛のペルソナであるから、これに応えるとは、御霊をペルソナの次元で愛することである。そしてこれを可能にしてくれるのが、恩寵、つまり愛の原理・源泉であって、それは結局御霊に他ならない。御親が、御子を、御子が(私の内にあって)御親を愛される、その愛(御霊)に参与する。これが恩寵の具体的な結果である。
 即ち、“肉”となった御言は、御子である神自身であるから、神の内的生命を必然的に持つ。むしろ神の内的生命そのものである。一方、人間ペルソナとしても神の三一性、すなわち神の内的生命に“参与”する。人間ペルソナとしては、神の内的生命そのものではないが、御言によって“ペルソナ化”されている人間性は(つまり、人間イエスの最終的行動主体は、第二位のペルソナである御言だから)、神以外のものが可能である限りに神の内的生命に参与する。それ故、あらゆる個々の人間は、キリストの恩寵の生命(神の内生に参与している人間の生命)に参与することに依って、この神の内生にある意味で参与する。
 では、神の「内的生命」とは、何か。それは、御親と御子と御霊の間で永遠に必然的に交流されている神の知性、神の愛、つまり、神の本性(神性)そのものであるが、静的な観点からではなく、動的な観点から見たものである。神は、時・空の次元を無限に超えているから、内・外の区別はないし、単一な存在であるから、本来区別そのものが神にあるわけではない。従って「内的生命」という言い方に意味があるとすれば、それは、われわれにとってだけである。この事を幾分分かるために、われわれ人間の場合を考えてみよう。人間の情報収集手段は、典型的ものとしては、見る、と聞く、がある。その特徴を際だたせてみると、見る情報は主として人間の外面の事、聞く情報は他人の心の内面の動き(これは、聞く以外にない)が主である。これを神に関することに当てはめると、「見る」は、つまり経験世界を見ることに依って、その最終原因として神を知ることである。この場合、人間は、理性的な力(感情なども伴う)だけで、神が実在すると言うことだけではなく、神の若干の「特性」をも知る。勿論、神は、三一神としてではなく、単一のペルソナ(知り且つ愛する方)としてのみ知られるが、これは、神が三一神としてではなく唯一神として世界を創造したからであると説明される。次に、「聞く」、つまり「啓示」に依って、「見る」事では知り得ない神についての情報を知ることが出来る。この様に分けて考えることで、世界に対する神の行為(外的)と神の内面的な生命(内的)を分けて考えることが意味を持って来る。
 ところで、人間が神の本性・神性に同化されることは決してあり得ないとされる。人間は飽く迄人間であり続ける。しかし、人間は、恩寵によって人間のまま神の「活動」に与り、それによってこの活動に同化されて行く。神の本性的活動に同化される。本性は行動の原理であるという意味で、これは神の本性への(飽くまでも活動の次元での)分有、参加と言える。そしてこの本性が三一神であるから、夫々のペルソナの固有の“働き”に同化する。こうして恩寵の賜物の多様性とその統一性が理解されるが、勿論、これは、神の複合性を認めることではなく、人間の不完全さによるものである。この様に限定した上で、次のように言うことが出来よう。即ち、この賜物によって人間は、先ず神性に同化されるが、しかし、神性は三一神であるから、賜物の多様性と統一性によって、ある賜物はあるペルソナの発生源に同化する。こうして、英知の賜物によって、第一の発生源である「知ること」、光に同化することで、人間は、御言に似たものとなっていく。愛の賜物によって、第二の発出・愛に同化することで、御霊に似たものとなっていく。恩寵そのものの賜物によって、総ての行動と生命の原理に同化することで、御親に似たものとなっていく。人間はペルソナであることから、「知」「愛」によって三一神の像をやどしているが、これが恩寵によって更に高められ、三一神の各ペルソナ夫々に同化されて行く。繰り返して言うが、以上は勿論「帰属」であって、三一のペルソナが、ペルソナとして人間に直接に関わるわけではない。
 こうして、三一神は、人間の単なる礼拝・賛美の対象であるだけでなく、私がそれに向かって限りなく同化していく、根源である。私は、恩寵によって限りなく神となって行く。
その結果、私の日常活動はいわば、三一神の活動である。例えば、祈るとき私は、神に向かって祈るだけではなく、むしろ、神と共に祈るのである。ちなみに、実行的なことを言えば、この神化は、全て三一神の恩寵であって私の側からは何も誇るものはない。私に求められているのは何かをすることではなく、素直に受け入れ、そして、邪魔をしないことである。また、総てのキリスト者は、この恩寵を受けている。その意味で基本的に平等である。従って、私と全く同じ恩寵が他者の中にも恐らく私以上に働いている。最も下らないとみなされている人にも合掌の気持ちを抱かねばならない。彼の中に三一神が生きているからである。
§2 世界創造への参画:
 恩寵に依って「神化」された人間は、神の活動に参加する(神となる)従って内的活動だけではなく、外的活動つまり、神の世界創造のみ業にも参与する。神は、被造物を創造に参加させる。神は、中間の出来事(歴史)を一切飛び越えて、ドラマの終局を直接に現出させることもできた。
 神は、不断に世界を創造する。神にとって創造とは、万物に実在とその基体とを同時に与えることであるが、それは、全体と個とが各々にふさわしいし方で自らの完成を達成する方向で与えられる。人間も、勿論、その本性に従って行動する。ところで、人間も同じく自らの完成を目指して創造されているが、ペルソナであることから、二つの異なった要因がみられる。一つは、人間は、「個」でありながら、決して全体の単なる部分とはなり得ない、否、なることは、許されない。従って、如何なる場合にもペルソナを如何なるものの手段としても用いることは、決して許されない。但し、ペルソナも個体であるから、個体である限りに於て、ある場合には、より高い価値のために自らの自由な決断に基づいて、犠牲となることは許される。もう一つは、人間は、この自らの完成を「自己の物」として追求する(ペルソナの特徴は、la possession de soi)、即ち、事態を意識しながら、自由に、--少なくとも拒否できると言う意味で--これを追求するのである。換言すれば、ペルソナである人間は、主体的な行為者として世界の創造に、実在そのものを与える者としてではないが、その完全性の実現者として、つまり実在のあり方を実現するものとして、参加する。ペルソナにふさわしい動かされ方は、管理者、執事として、与えられた方針を実行する事である。
 恩寵は、以上の秩序を前提とした上で、更にこれを高揚する。恩寵に依って神の内的生命に与る人間は、その世界創造にも参画するが、単に神の意志を忠実に履行する管理者としてだけではなく、キリストを介して、いわば神の「立案」にも与る。こうして人間は、神の「友」となり、「共同創造者」となる。神が人間を愛されるばかりか、人間から愛されることも望まれるとは、具体的にはこの様なことである。愛の次元に於て、人間は、或意味で神と等しい高みに迄上げられ、愛のパートナーとなる。
 しかし、この「高揚」は、目的に関する高揚であって、何か高揚された新しいものを目に見える形で付け加えることではない。この世界が既に恩寵の世界であるから、恩寵がこの秩序を変えることはない。人間行為の他に恩寵固有の行為があるのではない。内的生活は、日常生活と別の物ではない。恩寵は、人間の行為を根源的に強化し、これを高める。例えば、食事を考えよう。恩寵に依って、必ずしも食事の仕方が上品になったり、優雅になったりするわけではない。高めるとは、食事の通常の目的(健康維持、交友)をより高い目的(神)に向けることである。食べることが、即神への愛となることである。この場合、意志に直接左右されない人間の行為(actus hominis)と意志が直接関わる人間的行為(actus humanus)とを区別する必要がある。直接高められるのは、後者の人間的行為であって、この主体的行為は、単に人間的行為であるだけでなく、神との共同の行為を構成するのである。
 ここに、昔からの論争がある。つまり、神の意志の絶対確実性と人間の意志の自由の問題である。ここでは、先ず二つの確実な事実を抑えておく必要がある。即ち、全ては、神の完全な自由に懸かっている。と、全ては、人間の自由意志、つまり恩寵に同意し、恩寵に協力し、且つ脱落することもできる人間の意志に懸かっている、である。この二つの命題は、それぞれ確実であり、キリスト者の確信である。しかし、どの様にしてこの二つが、同時に成り立ち得るのか、神自身が関わる問題であるから人間の側からの明快な答えは、不可能である。
 ところで自由とは、何か。通常、われわれの自由は、あれか、これかの「選択の自由」として経験されている。では、選択の自由とは、どういうものか(ちなみに、選択とは普通考えられるように善と悪との間の決定ではなく、善と善との間の決定である。悪自体は、存在しないし、悪は、悪として意志の対象になることは出来ない。意志とは、善に対する能力だからである)。一般に能力は、対象に依って規定されている。目は見ることしかできないし、耳は、聞くことしかできない。対象が与えられると必ず反応する。しかし、意志は、対象からのみ規定されるのではなく、むしろ対象を規定する要因もある。つまり自己に取って何が善であるかを最終的に決定する。経験の場では、善は、有限な個別的善として提示されるが、意志は、より大なる善をそれなりに考慮するが必ずしもそれに決定されるのではなく、より小なる善を決定することもできる。これが選択の自由という形で現れる。
 善を決めると言うことは、一つの善を絶対化することで、これに自己の全存在を懸けることである。従って、決断は、善を媒介にして自己自身のあり方を決定することで、これが、行為-善の主体であると言うことに他ならない。自由と言うのは、この様に善を今、ここに、或意味で、創造する力の事である(この力が選択を介して現れる)。ところで人間が創造する善は、必ずしも存在の領域に於いても善であるとは限らない。つまり、私が生み出す善がそのまま自動的に善として通用するのではなく、外在する基準に依って判定されねばならない。この基準は、結局は、私自身の「存在」である。つまり私の自由は、存在に依って制約されているのである。それ故、もし存在そのものが自由であるような存在者があったら、つまり制約されないと言うことがその存在の「制約」であるような者があるなら、その者の生み出す存在は、自動的に善となる。つまり善そのものが基準だからである。即ち、自分の意志がそのまま基準となる。これを追求して行くと、自らの本質が即自由である(本来限定を意味する本性が、限定のないことが正に本性である)という事実に到達し、これは、神以外に有り得ない。つまり、自由は、神の本性そのものである。従って、自由の極致は神的自律性と言うことになる。神には外的規範がないから、神の行為は即法であり、善であり、自由である。選択の自由はこの様な自律性の不完全な表現と言うことになる。だから、自由意志の問題は、本来人間の自由選択に依る決定と神の決定とがどの様に両立するか、と言うことではなく、人間の自律性は、何処まで神的自律性に迫れるか、つまり、人間は、何処まで神になり得るか、と言うことである。換言すれば、人間の意志が神の意志に完全に従うと言うことは、人間の自由を損なわないばかりか、かえってこれを益々完成することになる。キリストの意志は、この意味で最も完全に自由であった。この方向で二命題は融合的に調和させることが出来る。(勿論、人間に取って自律的であると言うことは最終的には本性を否定すると言いう矛盾を抱えている。)
 ところで、選択の自由が成り立つのは、「手段」の領域だけであって、「目的」に対しては成り立たない。目的という概念が選択を排除している。「目的を選ぶ」と言うことは、厳密には無意味なことで、もし、そう言えるならば、それは、「中間目的」つまり手段としての目的についてである。ある目的を達成するためには複数の手段があってそれを選ぶと言うとき意味がある。
 とにかく、世界創造に参加するとは、神の御旨を行うことであるが、これは、「進行形」で捉えるべきである。つまり、神が既成のものとして予め定められたプランを単に消化して行くことではない。恰も全く人間の事業であるかのように、ある意味で神と共にプランを立てて行くことである。このプランは、究極的には自由を目指している。具体的には外在している法を如何にして内在的法にして行くかということである。ここに「法」の問題がある。「法」は、神の御旨の表現であると共に、その実現のための手段である。この意味で法を正確に守ることが目的ではなく、神と共に「プラン」を実現して行く事が霊性の目的である。法中心の霊性から恩寵中心の霊性へと高められる必要がある。例えば、「従順の徳」は、人間の意志を懲らしめるのが本義ではなく、神の自律へ人間を高めることめざすものである。
 更に、世界創造は、「個人」の次元と同時に世界もしくは社会の次元でも展開される。社会的次元での展開は、正義に基づく社会構造の創造として具現化されよう。また、言うまでもなく世界創造には、肯定的側面、つまり積極的に建設して行く面と、否定的側面、つまり消極的に邪なものを破壊して行く面とがある。そして、この事は、「個人」の次元と同時に世界もしくは社会の次元でも等しく妥当する。いわゆる「神の国の建設」とは、以上のような事を総括的に表現するものである。
§3.神の栄光への参加;「既に」と「まだ」の狭間で。三一神の顕現
 人間の目的は、通俗的には、天国で神の栄光に与ることであるとされている。ところで天国は、どこか空間的な場所にあるのではない。それではこれを、どの様に考えたら良いか。それ故、「栄光」と言う考えを分析する必要がある。神の栄光とは、何か。それは、結局、三一なる神自身に他ならない。但し、「顕示・発露」された限りに於て、「輝き」として捉えられる。三一神は、神自身であるから永遠に輝いている筈である。恩寵は、創造されないものとして(ut increata)聖霊であり、神自身であるから、恩寵と神の栄光とは、結局同一である。創造と恩寵の場合は、神の二つの行為を前提として理解される。即ち、先ず神は世界を創造し、次いで、恩寵によってこれを高める。しかし、恩寵と栄光は、神の唯一つの行為として理解できる。ただ、恩寵の概念の方には、「顕現された」と言う面と、その受取手という考え方が入っていないだけである。本来唯一の存在である神にとって、顕現するとは、どう言う事か。もし意味のある説明を加えるとすれば、それは、神が人間と世界に現れること、つまり、人間と世界の目から覆いが取られて、それまでは見えなかったものが見えるようになることである。恩寵の働きは、信仰に依って知られるが、信仰とは、知性の働きを助けて聖霊を見させる恩寵である。信仰には、見るための手段、前提として「命題」の受け入れを伴うが、命題には、被造物から取られた概念が入っている。この様に、知性(人間)の行為、被造物からの概念、人間の罪などが聖霊を明らかに見ることを妨げ、隠している。従って、神と人間の間にあるあらゆるもの、恩寵、信仰さえ消滅すること、つまり、人間本性と三一神が直に触れ合うことが期待されている。これが「至福直観」と言われる状態で、スコラ学者は、これを次のように説明した。能力とその対象間には均衡関係が予想される。例えば、認識とは、対象が実在界に於て事物を規定しているその規定性そのものに依って知性が規定されることである。しかし、至福直観の場合は、神が対象の代わりに人間(の知性)を直接に規定する。いわば、神自身が人間能力の対象の役割を積極的に果たすのである。こうして能力とその対象の均衡が破れ、全く不可解であるが、一切の媒介無しに神と人間=世界が合一する。神が人間全体を「奪い取る」。そのとき一切が顔と顔とを合わせて露になる。この際人間性を補強するのが栄光の光lumen gloriaeである。
 恩寵は、被造として、人間の態勢であるから、究極的に栄光を目指す。換言すれば、この態勢は、最終的には、「至福直観」への態勢である。それ故、人間の言葉が意味を持つ限りで言えば、神の栄光は、創造されない恩寵として、「空間的」にも「時間的」にもわれわれから遠くはなれているのではなく、既に、いま、ここに、いわば現存している(逆に言えば、その様な関係でわれわれは、存在させられている)。もし、経験的な仕方でこの神の栄光が世界に現れていないならば、それは、人間の側からの条件が整っていないからである。現時点では、われわれは、信仰に依ってこの神の栄光をかいま見るだけなのである。
 神の栄光は、丁度枡の中に置かれた燭のように、恩寵の中に隠されて現存する。従って、この世に於けるあらゆる不完全、不都合と共存している。これは、理論と言うよりは体験である。この意味で、恩寵は、賜であると同時に約束であり、喜びであると共に希望であり、既に所有しながら、同時に待ち望んでいるものである。

むすび:喜びの福音
 恩寵charisとは、喜びを生み出すものの性質である。喜びとは、「善」を現実に所有することから生じる主体的な充実性であって、単に感情だけではなく、ペルソナ全体に充満する。三一神は、先ず人間を愛されただけではなく、不可思議な事ながら、人間から愛されることをも望まれる。愛そのものである神が、正にそれ故にこそ、人間から愛されることを求め、いわばそのためにあらゆる事を敢えて行われた。その頂点が、人間を自分の内的生命に与らせること、人間を愛のパートナーとすることであって、それを可能とするために最愛の御子イエスを与えられた。その結果、人間に取って、最高の善は、三位一体のこの愛、恩寵であり、この事実の告知が福音である。正に、この意味で、福音は、最高の喜びである。但し、この喜びは、それを味わうための態勢dispositioを必要とする。そしてそれが恩寵と呼ばれるものである。つまり、福音は、喜びと共に、それを味わうための恩寵をわれわれに与え、その事実を告知するのである。この喜びは、現在の状況では、悲しみ、苦しみなどと共存するばかりでなく、むしろそれに圧倒されている。しかし、福音は、信頼し、愛する人々に取っては、正にこれらの苦しみを喜びに変容する力をも与えるのである。ここからわれわれに求められているのは、喜ぶこと。感情のみでなく、意志と行動を伴う喜びを体験することである。受身でなく、喜びを阻むものを排除し、積極的に喜びを創造する。そしてこれは、単に個人の次元だけではなく、社会の次元でも実現すること。更に、この喜びを回りの人々に伝えること。喜びは、「物」のように人に「手渡す」ことは出来ない。それは、共に喜ぶことに依ってしか伝わらない。われわれにせいぜい出来るのは、他の人の内にも既に喜びの源が現存していることに気づかせることだけである。なおこの点でも、単なる感情の伝達ではなく、時には社会構造の抜本的改革への積極的参加をも義務的に要求するものである。福音を伝えるとは、神学理論を教授することではなく、上に述べたような意味で喜びを実践的に伝えることである。(完)

2009年8月6日木曜日

歴史上の人物としての「史的アダム」

「創世記」1~3章に登場する「アダム」と呼ばれる人物は、歴史上の人物であろうか。更に、1~3章は、歴史的出来事の忠実な記述であろうか。アダムが、歴史の次元で、仮に全人類の「最初の父」でなかったとしても、少なくとも「最初の罪人」であるとすべきかどうか。或いは、この罪人アダムは、全人類がその起源以来、連帯して罪人である限りにおいて、全人類を象徴的に表わす者であろうか。これらを確定するのは、吾々の問題ではない。吾々の問題は、原罪の教義、若しくは教説を認めるためには、「史的アダム」を認めなければならないかどうか、である。既に見たように、トレント公会議で「定義」されたような形での「原罪説」は、上記「創世記」の直接、且つ、厳密な意味での釈義から由来するものではない。定義された原罪説の「本質」は、「人間は、神の意志に反して成聖の恩寵を失った。その原因はすべて人間の側にある。この恩寵喪失状態は、すべての人間が、人間として産まれ出ることによって、つまり、それによって人間本性を分有することで、各人に固有の、内在的状態として、すべての人間に伝播する。この状態は、類比的ではあるが、本来の意味で、罪である」と要約されよう。即ち、人間における罪の発端は、人間にあること、人間は、例外無く、この罪に連帯していること、これが、「原罪」の核心であろう。神学の任務は、本来善なるものとして、創造された人間に、何故、どのようにして罪が入ったのか、何故、どの様にしてすべての人間は、この罪に連帯するのか、と言うことを神秘の責任に帰すことなしに説明することであろう。人祖アダムの犯罪を、全人類が、アダムを始祖とすることで共有するとの説明は、キリスト教初期当時の「人間観」を前提にする限り、非常に優れた説明と言うべきである。しかし、世界観や人間観が、革命的と言って良いほど深められた現代では、神学的説明は、「教義」の本質を保全しながら、更に洗練されてしかるべきであろう。この意味で、吾々は、「原罪説」の説明として、必ずしも史的アダムに固執する必要はないのではなかろうか。
 とにかく、人類の起源についての生物学の仮説は、原罪説の核心を明確にすることを求めている。それ故、神学者は、今日、アダムの身元確認問題について自由に論じ、又、この主題に関して、様々な研究仮説を提起することが出来る。但し、トレント公会議が定義しようと望んだこと、即ち、原罪は、「その起源から一であり、万人に、模倣ではなく、繁殖によって伝播する」との主張を擁護するのが条件である。
 各人が、個人として罪を犯す以前に、その誕生の瞬間から、「作因された罪」と呼ばれる原罪を身に負うのは、起源以来、人間の歴史において犯されたすべての個人的罪の理由によるのであり、罪人アダムで象徴される罪ある全人類との同一かつ唯一の連帯性の理由によるのである。

2009年8月4日火曜日

唯一の仲保者を巡る類型論

i.排他主義Exclusivism;キリスト教以外はすべて駄目。
ii.包括主義Inclusivism;キリスト教以外の宗教は、全てなんらかの仕方でキリスト教に含まれる。キリスト教は、最終的頂点である。
iii.多元主義Pluralism;神に就いての認識は、キリスト教を含む全ての信仰において部分的である。
 あらゆる宗教は、多様な方法で表現された、真理の譲渡できない核を含んでいる。宗教は、自己の本質を把握するに連れて、全ての宗教の「本質」を把握する。この「本質」は、未来に実現するものである。(W.E.Hocking)
 救いをもたらす、神と人間の接触の場は、幾つもある。神の啓示し、あがなう活動は、歴史を通して、文化的に条件づけられた幾つもの仕方で、応答を引き起こしてきた。それぞれの応答は、部分的、不完全、独自のものであるが、それらは相互に関連し合い、その結果、それらは、唯一の究極的な神的現実に就いての、様々な文化的に焦点を合わせた把握を表す。
 ただ一つの神学形態で受容され得るような、世界に対する只一つの啓示があると言うことは有り得ない。神学的地動説{キリスト・キリスト教中心から神中心へ}(J.Hick)

2009年8月3日月曜日

キリスト教以外の諸宗教の意義

 キリスト教以外の諸宗教も神秘に関する我々の(学的)認識を構成する必須の構成要素として(「神秘」の部分として)受け入れる事が出来るであろうか。これが諸宗教の神学の根本問題である。神学の一般主体(素材主体)は、神秘に係わるすべてのものであるから、その中には、当然キリスト教以外の他の諸宗教も含まれる筈である。しかし、神学の一部門としての諸宗教についての神学は、ただそれだけを意味するのではない。即ち、諸宗教が、単に存在の秩序において善なる要素を含んでいる、もしくは更にそれ自身善であるということを論証するだけではなく(これによって諸宗教が第一原因としての神秘の意志の対象であることが論証され得る:これはいわゆる「自然神学」もしくは「宗教哲学の問題であろう)、更にその上に諸宗教は、神秘の「自由意志」によって、つまり存在の第一原因としての神秘ではなく、それを無限に超える神秘固有の意志によって、意欲されて(許容されて)いることをも解明しようとするものである。所で、問題は、この事を積極的に論証するための方法が、与えられているかどうかと言うことである。つまり、上述の「潜勢的啓示」の中に「諸宗教」が含まれているかどうか。言葉による啓示、出来事による啓示、何れかにこの問題は含まれているだろうか。実は、これは所謂「実証神学」の領域であって、今後この方面での成果が期待される。従って我々としては、仮に所謂啓示からの積極的な「証明」を導き出すのはさしあたって出来ないとしても、少なくとも諸宗教が救いのための正常の道であると考えることには、他の知られている天啓の諸事実と矛盾するものではないことを論証する必要がある。また、それに留まるものである。
 これを要するに、我々は、既に、宗教本能と宗教体験の普遍性を述べ、宗教体験には、真正なものとそうでないものとの区別が可能であることを論じた。この場合、「真正なもの」とは、単なる主体の自己内体験ではなく、主体から実在的に区別された何らかの体験対象(客体)があるとされる場合であり、超越者を立てる思考様式の枠内では、究極的に超越者の実在が体験に対応している場合である。しかし、この最後の場合は、正に超越者であるが故に人間の側からの「検証」を許さない。従って、個々の宗教体験について、それが真正であるかどうかを積極的に「証明する」ことは原理的に不可能である。それゆえ、諸宗教の神学は、キリスト教以外の宗教の「真正性」を論証することは出来ない(勿論、キリスト教の真正性をも論証することはできない)。ただ、キリスト教神学の立場から、他の宗教が真正であっても、矛盾ではないことを可能な限り明らかにしようと努めるのである。諸宗教の神学、さらには神学そのものの限界を率直に認めるものである。

2009年8月2日日曜日

宗教体験の体系化

宗教体験は、誰にでも見られるものであるが、それが人間の体験である限り、多少とも、体系化、社会化を目指すものである。即ち、体験は、人間ペルソナの働きとして、根源的に知性の活動であり、その限りに於て、非質料的であるが、この様な活動は、いわば裸のままで存在し続けることは、不可能ではないにしても、極めて困難である。通常、体験は、概念(言葉)や行動を前提とすると共に、またそれらに依って維持、表現される。概念・行動は、歴史と風土、更に一般的には、「文化」の影響を強く受けている。従って、宗教体験も、文化に必然的に制約されているとは言えないにしても、文化に影響されるところは大である。
 この様に、宗教体験は、体系化、社会化をある程度自然に指向するので、ある一つの宗教体験は、特にそれが、深く強烈な場合は、多くの人々に追体験、共有され、様々な行動や制度に依って維持、伝承されて行く。体系化され、制度化され、社会化された宗教体験を「制度としての宗教」と呼ぶ。勿論、現実には、「制度としての宗教」の「制度化の度合」は、極めて多種多様である。「宗教体験」と「制度としての宗教」とは、分離して実在し得るものではないにしても、少なくとも概念的には、区別されたものである。従って、同種類の宗教体験が、それぞれ異なった「制度としての宗教」に依って「担われる」ことも論理的に不可能ではない。

2009年8月1日土曜日

宗教体験

次ぎに、一般に「経験」、「体験」と呼ばれているものに就いて考えて見よう。体験と言う語を厳密に定義するのは難しいが、ここでは非常に広く、凡ゆる経験、特に、単に知性の作用だけではなく、広い意味での感覚全般を媒介として与えられる経験を指す。即ち、経験は、通常、思弁に対して言われる。つまり、知性の活動だけ(厳密にはあり得ないが)によって得られるとされる知識に対して、知性以外の凡ゆる能力特に身体を活用して、その意味で直接に得られる、非常に広い意味での知識、あるいはその過程を経験と呼んでいる。勿論知性が最終的に排除されている訳ではないが、重点は、それにはなく、寧ろ五官や感性及びそれらを通して直接する環境などが強調される。従って、具体的に言えば、生きていると言うことが、即体験なのである。
 ちなみに、体験は、概念化が難しく、従って知性の統御の及び難い領域であるが、豊富な情報源であり、人間の生存に重要な役割を果たしている。本来、思弁と経験とは対立する別個の認識手段ではなく、両者とも人間ペルソナの活動として、一つの認識手段の両面であって互いに補完し合うべきである。つまり、目が見るのではなく、ペルソナである私が目で見て知るのである。
 これを要するに、宗教体験とは、上述の宗教的事象を対象とする体験のことである。
 さて、この体験の成立根拠もしくは起源には二つの場合があり得る。一つは、対象としての宗教的事象の実在並びにその意味が我々の能力の限界内に於いて確認することが出来るとされる場合であり、他は、確認が理論上不可能であるとされる場合である。即ち、厳密な意味での信仰の対象は、定義によって、人間の能力を超越する筈であるから、この対象に就いての体験は、人間の側からの働き掛けに依存しないで、純粋に与えられなければならない。つまり人間は、この対象に就いての知識を「与える者」から受け取らねばならない。従って、この「与える者」は、あるいは、自らが人間の能力を超越している者であるか、あるいは、さもなければ、この様な者から与えられものを正確に、且つ忠実に伝達する者でなければならない。つまり、後者は、前者の権威を忠実に媒介しなければならないのである。
 又、体験が与えられる場合、何等の媒介なしに直接に与えられる場合と、個人もしくは、集団の体験を媒介として与えられる場合とがある。厳密に言えば、我々の信仰は、この後者の種類の体験に主としてかかわるものを指すのである。現実の問題として、我々は、親なり、教師なり、先輩なり、あるいは、特に我々が生きている共同体なりの信仰(ここでは広い意味での)を継承して行くのである。
 所で、この様な信仰は、前述のように、多くの場合、第三者を媒介として伝えられのであるから、媒体、つまり媒介の手段が重要になって来る。これらの手段は、多種多様であるが、何と言っても一番適切なのは言葉である。勿論、言葉にはそれなりの制約があるが、その範囲内では有効な手段である。又言葉と言っても、色々のジャンルがあるが、理論的に概念化を越えるとされる信仰を容れるものとしては、象徴的な表現で、ある歴史的な事実の核心を述べる物語が最も適していると思われる。我々は、この様な物語を広い意味で「神話」と呼ぶ。それゆえ、神話は、信仰内容を指し示す唯一の手段ではないが、主な手段であることは否めない。我々は、神話を正しく解釈することによって、又その他の補助的手段を駆使することによって、ある信仰体験の事実とその内容とに出来るだけ近く迫れる筈である。
  我々が、信仰の正偽を論じる場合には、以上の様な諸点を明らかにする必要がある。特に、信仰の伝達者に適正な資格、適正な権威があるかどうかを検証する必要がある。併し乍ら、ここに述べたことは、飽く迄も抽象的な理論の領域の問題であって、実際の具体的な場合には、事態はもっと複雑であることは言うまでもない。即ち、先ず信仰の理論があって、それに基づいて、論理的に信仰が成立するのではなく、実際は、その逆である。それゆえ、必ずしも常に凡ゆる信仰が適切に解明し尽くされるとは限らない。
 さて、宗教体験とは、宗教的なものについての経験であるが、上述の様に、宗教体験と宗教知識とは本質的に異なる訳ではない。確かに信仰者と宗教学者とは同じではないが、その対象としているものは、同一の事実である。その意味で、経験は、そのものとして分析や伝達が至難であるが、その対象の分析から幾分間接的に経験を明らかにすることは、不可能ではない。
 宗教をこの様に定めるならば、所謂「宗教体験」もしくは「宗教経験」は、言わば日常生活の中で通常に見られる出来事である。宗教体験を何か高尚な神秘的経験にだけ限るのは、一種の知的驕りではないだろうか。勿論神秘体験も宗教体験には違いないが、その極く一部に過ぎない。従って、宗教体験は、所謂教団の枠を超えて見られる普遍的な現象でもある。では、何故この様な宗教体験、もしくは現象が世界の至る所で、およそ人間の居る所に見られるのであろうか。我々は、その根拠を人間本性に基づく本能の内に見たい。つまり、人間には「宗教本能」とも呼ぶべき本能がある。この本能の基本的現われは、人間の願望、欲求は直接する対象によって完全に規定し尽くされる(充足され尽くされる)ことなく、絶えずこの対象を超えて求め続けるところにある。「本能」そのものの分析は、ここでは行なわないが、その表現は、極めて多様であり、かつ風土と歴史とから著しい影響を受けることを指摘するに留める。それでは、この様な宗教本能と所謂既成の「宗教」とは、どの様な関係に立っているのか。これを理解するため先ず、上述の宗教本能の「対象」について見て置かねばならない。先に我々は、この対象を、非常に広い意味で捉えて来た。何等かの意味で、宗教本能が求めるもの、本能を満たすものは、総てその対象であると言うことが出来る。今これらの対象を現実との関わりから見れば、この対象に本能とは独立に現実に実在する「何か」が対応している場合と、そうではなく言わば本能の「自己励起」とも言うべきものに過ぎない場合とが考えられる。前者の場合は、更にこの「何か」は、原理的に人間の理性に基づく手段によって検証可能であるとされる場合と検証不可能とされる場合とがある。後者の場合には、この「何か」を検証するには、上に述べたようにこの「何か」自体が与えてくれるとされる検証の手がかり(例えば「信仰」)が必要になる。即ち、この「信仰」によって具体的なある特定の宗教本能の体験が、実は、超越する「神秘」の「体験」であったことを知るのである。但しこの場合、「体験」と言う概念は、能動的、つまり我々の方から「神秘」に働き掛けるのではなく、受動的、つまり「神秘」の方から我々の能力なり、活動を採り上げると言うことを意味するものである。即ち、「神秘」は、その超越的自由によって、望むときに、望むところで、我々に介入することが出来る筈である。こうして厳密な意味での「神秘体験」は、人間の一般的な宗教本能を前提とし、かつこれを完成するのである。宗教本能は、人間の自然性に基づく本能であるから、それ独自の力では勿論本来の意味での「神秘体験」を生み出すことは、絶対に在り得ない。しかし、上述の様にもし「神秘」が望むならこの宗教本能を採り上げて「神秘体験」を起こすことは不可能ではないであろう。
 こうして、少なくとも理論的には、過去に於いても、現在も、さらに亦未来にも真正の「宗教体験」が在り得る筈である。所で、この様な宗教体験は、個人の次元で起こることも在り得るし、また集団の次元で起こることも在り得る。亦この体験は、一過性のことも在り得るし、また第三者自身の(最広義の)宗教体験を媒介として追体験の形で広く時間空間にわたって伝播して行くことも在り得る。勿論この第三者自身の宗教体験が前述の意味での真正の「神秘体験」であることも当然考えられる。ただ何れの場合にせよ、宗教体験は、言わば「裸のまま」ある、のではなく、必ず広い意味での概念化を経て保持され、伝播されるものである。ここに体験そのものとその概念化との間の「ずれ」の可能性と、そして概念が必然的に蒙らねばならない歴史、文化的な制約の問題とが現われる訳である。所謂既成の宗教は、以上のような諸々の要素が複雑に絡み合って発展して来たものであり、宗教本能に対しては、言わばこれを土壌、培養液としながら、自らの「組織」を拡大し、他方では、これに理性的な規制を強要し、自らの内にこれを統御しようと試みるのである。